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勇気をもって公開すれば、誰かに、届くかも、ね
noteでもTwitterでもInstagramでもYouTubeでも。なにかを書いて、それを全世界に向けて「公開」することは、とてもとても勇気がいることだと思う。べつに特定の誰かに向けて書いているわけではないけれど、人間だもの、誰かに見てほしいと思うのは自然な感情だ。
けれど、「誰かに見てほしい」と思ったとたんに、「こんなものを全世界に放ってもいいものか」と委縮してしまう。結果、「公開をするまでもないな」と下書きに眠らせたままの「私の気持ち」がどれほど多いものか。下書きにこそ、「全世界にまで放つまでもない、ささいな私の気持ちのひとかけら」が眠っているのだけどね。
一昨日、私の最近の推し、ちいかわへの愛が抑えきれなくなって、noteにありったけの愛をこめて書き綴ってみた。それはもう知らない人からしたら「何を書いているんだ」というレベルのものだったと思う。私自身も、「こんなの誰が一体読むのだろうか。。」と思いながら公開ボタンを押したのを覚えている。
けれど、なぜか、noteの「今日の注目記事」に選ばれてしまった。そこから1日で1万人以上に見ていただけている。「誰が読むんだろう」と私自身も思いながら公開したnoteだけれど、広まってしまった、と不思議に思う。
いつもなら「誰が読むんだろう」と思いながら、下書きに眠らせてしまう類のnoteを、今回に限り、思い切って「公開」ボタンを押してみた。たったそれだけの違いで、私以外の誰一人として見ることのない下書きの世界で眠ったままでいるか、それとも、全世界にどこのだれかも知らない人の元に届いて世界を漂う、か。
誰かに見てもらうことが目的ではないとしても、誰かに届くのは、例外なくうれしいものだ。私としては価値を感じないただの内輪の話だと思っていたとしても、公開をすることで、誰の気持ちに寄り添えるものでいられるかもしれない。もしかすると、読んだ人のなかには「こんなものを読ませやがって」と思う人もいるかもしれないけれど。
共感も無関心も批判も、ただ1つだけの言葉から、それぞれの解釈に分岐していく過程が、文章というものの面白さだ、と強く感じるのだ。
私が「こんなものを公開していいものか」と思った記事に対して、誰かは「共感する!!!すごいいい記事!」と思うかもしれない(それがとてもありがたい)。けれど、一方で「全然興味がない」という人もいれば「この意見はいやだ!!共感できない」という人もいるだろう。
けれど、この「解釈の差」が、言葉の、表現の面白いところだと思う。私の言葉そのものでは、もはやコントロールができない。世の中に放ってしまったら最後、良くも悪くも、ただよっていってしまうのだ。
だから、もしnoteを書いてみたいけれど、世の中になにか言葉を残してみたいけれど、勇気が出ずに下書きにばかり記事をためてしまっている、という人がいたら。とりあえず「誰も読まないかもな」と思っても公開ボタンを押してみれば、いいと思う。自分のささやかな言葉に、共感して救われる人がいるかもしれない。興味がない人はただ読んでスルーをするだけだろう。時には批判的な言葉を与えられるかもしれない。
けれど、それはすべて、世に放ったからこそ得られるものだ。公開するまでが自分の役目で、そのあとの行く先は決して分からない。コントロールすることができない。予想以上に読まれることもあるかもしれないし、ひっそりと残るだけかもしれない。炎上、なんてこともあるかも。結局は、受け取り側の解釈次第なのだから。
私の言葉を残したい、世に放ってみたいという想いがあるのならば、まずは放って、この世界に漂わせてみること。その先は考えずに、とりあえず公開ボタンを押してみること。そこに価値を感じること。まずはそれだけなんだ、と思ったりもする。
私はこれからも、私が放った言葉がどのように漂い、旅をしていくのか、そんな行く先を遠い目で眺めるかのように、楽しんでいたい。
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