結局、『人がどう思うか』よりも自分の本心を知っている方が楽に生きられる。
『昨日、あのお店に居たよね!』
『え、行ってないよ?』
『居たの見たよ?!』
『でも私じゃないよ?』
もう20年くらい前の話だが、私を見かけたと言う知人女性と私の会話だ。
私はその店に本当に行っていないのだが、彼女は私だったと思い込んでいて、『なんでそんなつまらない嘘つくんだろう?』と言わんばかりの表情を浮かべていた。別に証明する必要もないから、私はそれ以上否定しなかったのだが。
私にとって、彼女は『勘違いしている人』だが、彼女にとっての私は、『つまらない嘘をついた人』かもしれないのが、面白い。
人は自分がその時に信じ込んでいることを真実と捉えるので、他者の勝手な思い込みによって、『自分の真実』とは全く異なる事を『その人の事実』とされることも起こってしまう。だから人からどう思われているかを気にして疲弊することは、全く無意味なことだ。
ある女性が、
『私は手助けを買って出ちゃうところがあって…。そんな性格が相手にとっては、お節介だと思われるんじゃないか、と気になり始めてからは、そういう気持ちを表に出さないようにしているんです。』と言っていた。
彼女は、過去に一度、『結構です。』と断られたことがあったそうだ。
確かに、受け取る側の心の状態によって、親切ともお節介とも取られる可能性がある。
そんな中、相手にお節介と取られるのを気にして、自分の中の優しさを表現せずにいたら、自分らしい生き方はできなくなってしまう。
おまけに、自分の優しさの感覚を、相手の判断次第で否定的に扱うことにもなる。それはとてもおかしな話だ。そもそも、相手がどんな気持ちで断ったのかもわからないのに。
特に日本人は遠慮しがちな性格の人が多いこともあり、手を煩わせたくないと思って断ったのかもしれない。
逆に、相手が『ありがとう。』と、行為を受け入れつつも、内心では『お節介だな~』と感じている可能性まで考え始めると、キリがない。
だから、自分の心が優しさベースだとちゃんと自覚していれば、結果がどうあれ、自分の気持ちを信じることができればいい。
ただ、自分の気持ちが優しさベースではなく、別のものの場合は納得できない感覚が残ることがある。
例えば、いい人アピールのための手助けの場合。 何もそれが悪いという話ではない。この場合は、優しさよりも相手からの評価を求める自分の欲求のために行動している。
この自分の行為を、いい人アピールのためだと最初から自覚していれば、断られたとしても、『あ~あ、うまくいかなかったな~。』で済む話。
だが、人によっては、自分のその隠れた欲求に気付いていないことがある。その状態で相手に断られた時には、
『せっかく人が助けようと思って言ってるのに!』と、自分の優しさが相手に理不尽に扱われたような気持ちになってしまう。
だからこそ、『人がどう思うか』を気にして行動をするよりも、自分の気持ちをちゃんと理解する方に意識を向けた方がいい。
優しさでの行動ということを、自分がわかっていれば、自分を否定しない。
評価されたい欲求も、自分がわかっていれば、相手を責めることもない。
結局、自分をちゃんと理解できている状態が、一番楽に生きられるのだ。