『普通は〇〇』って、多数の意見ってだけのこと
先日、高校を卒業したばかりの娘とこんな会話をした。
『とうとう高校3年間彼氏できなかったわ!私ヤバイ?!』
『なんでヤバイの?』
『だって、私の周り、みんな付き合ってるもん。』
『でも、告白されても全部断ってたよねぇ。』
『うん…この人と付き合いたい!って思う人はいなかったんだもん。私、付き合ったら長~~く付き合っていける人がいいのよね~。』
『 ってことは、そういう人とまだ出会ってないってだけでしょ?』
『まぁ、そうなのよ。』
『それって高校3年間で出会わないとヤバイの?』
『いや、別にこれからでいいんだけど…』
娘は、恋愛に対する自分なりの観点を持っていたにも拘わらず、
『普通は高校生なら恋人いるよね』という考えに振り回されたことで
『私ヤバイ?!』と一時的に思ってしまったわけだ。
娘の話はカワイイものだが、こんな風に人は『普通は〇〇』にとらわれて、葛藤を抱えたり、落ち込むこともある。
そんな『普通は〇〇』だが、単に〇〇を望む現代人が多いから使われている言い回しだ。
だから、〇〇以外のことを望む少数派は『普通』ではないと思われがちだが、少数派からすると、多数が言っていることの方が『普通』とは思えない。
例えば、みんなが中学に通うから当たり前だと思ってなんとなく行っている子と、どうしても中学に行く意義を感じられず、その時間を他のことに使いたいから行かないという子の数は圧倒的に後者の方が少ないだろう。
多数から見たら後者の子は『普通』ではないかもしれないが、後者の子からすると、なんとなく行くことの方が『普通』ではないと感じるのだ。
だいたい、多くの人が望むことに普遍的価値があるとは言いきれない。
その上、人間は時代の移り変わりとともに、より良いと思う方向に価値観を変化させながら生きている。
だから、常に絶対的な『普通』というものは存在せず、あくまでも現在の多数が言う『普通』だ。
とは言え、『普通』を選ぶことは、安心感はある。多数から受け入れられやすいという意味でも心地いいことでもある。だから人は『普通』を気にするとも言えるだろう。
ただ、多数から受け入れられることを望んで、本来の自分ではない生き方をしている人と、多数からの共感を得られなかったとしても、自分らしく生きている人とでは、人生の充実感には大きな差がある。
なぜなら、人は、他者から得られる承認だけを支えに生きているよりも、自分の感性を信じ、自分自身を受け入れられている心の状態の方が、バイタリティーに溢れ、チャレンジ精神も湧き、自分を生きている感覚を持てるからだ。
結局そんな人の方が、他者から見ても魅力的だったりする。
そんなわけで『普通』と違うからと言って、自分の感性を否定したり、信念に疑問をもったりしないほうがいい。
現代人の『普通』ではないものを求めるあなたは、
その状況でも自分を信じられるのかをチャレンジしたいのかもしれない。
そもそも、多数が『普通』だと思っているのに、あなたがそう思えない理由の方が、あなたの人生を生きる上で、意味深いことでもあるのだから。