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俳句入門
唐突に俳句を作ってみようと思ったのは、ついこの間のことだ。
10月、参加しているサークル「幸年吉日」の活動で、「筋肉祭り」が開催された。更年期を明るく乗り切るために、互いに情報交換して励ましあおう、というサークルの、「筋肉は大事!」という趣旨のイベントだ。
その際、「筋肉」にまつわる川柳を募集しているにも関わらず、私ときたらうっかり俳句を作ろうとしてしまい、思いがけず川柳と俳句の違いを学ぶに至ったのだった。
それから、何かの折には俳句をちゃんと作ってみよう、と思っていたのだが。
発句である(独立している)
季語がある
切れ(字)が1こある
5・7・5の17文字である
(”りょ”、”きー”、などは1文字カウント、字余りOK)
そう、それがHA・I・KU!
ところでこれまた突然だが、今回の特撮ヒーロー戦隊『暴太郎戦隊ドンブラザース』には、俳句を嗜む「教授」と呼ばれるニート青年が出てくる。
今回の戦隊はかなりシュールで、親の好き嫌いが天地に分かれるタイプの、物議を醸しだしている戦隊なのである。子供が楽しければいいと思うが、子供が楽しいのだろうか?と思う場面も多々あり、なんとも言えないところがある。毎年戦隊チェックしている私も、さすがに今回はヤバイ戦隊だと感じている(でも私は気に入って観ている)。
ちなみに「教授」、キャラクターと演者はこちら。
で、そのニート青年は毎回、ことあるごとにいちいち俳句を読むのだが、たまに結構いい句があったりして、子供たちはここで「俳句」に触れるのかなと思ったりする。それにしては、ぞんざいな部分もあってほんとに色々微妙だ。
そんな「教授」を見ながら、最初は気軽に「私もやってみよ」と思った。
何しろ17文字。
確かにTwitterの140字も納めるのに苦労するが、まあ、17文字。
やってみようじゃないのと、紙を机の上に置き、ボールペンを準備した。
白い、コピー用紙を眺める。
なーんにも、思いつかない。
季節は、立冬が過ぎたから、冬だ。
冬、冬、冬、冬・・・
思いつくのは坂本冬美とか小椋冬美とか青江冬星とか、なんでだか名前ばかり。
埒が明かないので、スマホの俳句作成アプリを導入してみたが、そんなことでアイディアがひらめくわけもない。
先日息子の学習用に購入した、息子が手も触れない『今はじめる人のための俳句歳時記・新版』をパラパラめくる。
色々な人の作った俳句が季語ごとに載せてある。
読んでいるだけでも結構楽しい。
俳句を知らない私には知らない名前も多いが、中に有名な俳人の名前も出てくる。
本文には季語の説明と俳句がいくつか乗っているだけなので、初心者には鑑賞する以外、創作に飛躍する手立てがない。もちろん、たくさんの句に触れることは、訓練のひとつでもある。
ともかく実際には、巻末の「付録」こそが初心者の羅針盤だ。
さっそくQ&Aを読む。
「俳句を作ると何の役に立つ?」
いきなり実用性の問いだ。
それによると、俳句は「日記がわりにいい」というアンサーだった。
日記を書くより簡単で、短い割には、ちゃんと自分の考えも情景も残っている。変化がないような毎日も、俳句を書きつけてみると意外なドラマに満ちてくるもの。
いやぁ・・・
そうかい?
日記を書くより難しいと感じるのは私だけかい?
Q&Aのいろいろな疑問は、確かに初心者が問いかけそうなものばかりだ。
中に「俳句は完全に創作ではダメなのか」といった問いもあった。
そもそも連歌の「発句」として始まった俳句。
連歌の句はイメージ遊びの創作がほとんどなのだが、発句だけは最初の挨拶とともに目の前の情景や状況を映し出す写実性が評価されてきた歴史があるらしい。
なるほど。
写実性。
なんでも、感情をそのままぶちまけるようなものではなく、自分の外側を描写することで心情を表現するのがよい俳句らしい。
・・・・・・。
しばらく白紙を見つめたが、私は諦めて、用事を済ませようと外に出た。
俳句、ハイク、と口の中で呟きながら、ふと、近所の二級河川の川沿いの道に出た。
天気は小春日和。
青空は一点の曇りもない。
足元にはグラデーションのかかった落ち葉。
そして川は、清々しく流れている。
外の新鮮な空気を吸って歩いていると、なんだかいろんなものが見える。
川の中州には、見かけない鳥がいた。
どうやらユリカモメのようだ。
以前、川のそばにある看板に、「この川にはゆりかもめがきます」と書いてあったのを思い出す。
この川にはよく来るが、ユリカモメを目撃したのは初めてだった。
川の真ん中に突っ立っているシラサギもいる。
ハシビロコウ並みに動かない。
さすがにワニなどはいないので、いかにもネイチャーな、ナショナルジオグラフィック感はないが、環境破壊と言いながらちょっと歩けば外の世界にはまだ、確かに自然がある。それを見ていたら、なぜか不思議と、俳句、的な言葉が浮かんでくるのだ。
白秋や 玄水に刺す 鷺の脚
ちょ…
ちょっとちょっとちょっと。
それっぽくない?
川の水が反射で黒く見えたし、シラサギのプロっぽい立ち姿が「玄人」みたいで、玄い水、にしたのだが、「俳句歳時記」をめくると「玄水」なんて見つけられない。
どうしてもこの言葉を使ってみたい私は、仕方なく「季語アプリ(これも導入した)」で検索。完全に「季語後付け作戦」である。
すると、「玄水」は確かに冬の季語だが、お酒のことらしいことが分かった。しかも「鷺」は春の季語。季語を二つ重ねて同じ句に入れることはよくないらしい。しかも季節も違う。
なるほど、そんなことも知らないでいては、句は作れないのか。
「お酒にサギの脚が突き刺さっている」なんて、イメージがシュールすぎる。白秋や、なんて、ただ使ってみたくて使った感じが丸出しだし。
難しい。
でも面白い。
凝っとして 冬の川鳥 嘴広鸛
ハシビロコウみたいに動かないと言いたいけど
これだと普通にハシビロコウがいるみたいだ
川辺では、まだまだ言葉が浮かんでくる。
さやけしと 川面をすべる 百合鴎
今度は、季語もひとつだし情景が浮かぶけれど、シンプル過ぎる。
しかも受験生には禁句が入ってる。
あ、それは関係ないか。
ここでどうやら「今始める人のための俳句歳時記」は季語の成り立ちや言葉の深い意味を知る読み物として面白いが、検索機能に劣る、ということがわかった。索引はついているが、アプリばかり開いてしまう。
ところで、俳句というのはルールあってのものなのだが、その最大のルールである「季語」は、誰か偉い人や有名な人たちが「これは季語」と決めた、あるいは大衆が「それは季語だ」と認めたものであり、俳句をやる人は全員が同じルールを既知であるという前提がある。
なんでも自由がよいならうちの句会には向いておりませんな。
他にお行きなはれ。よそは亜流でございますけどなぁ、ホホホ
というなんか澄ました笑いが聞こえそうな感じがする。
敷居が高いと感じてしまうのである。
ポインセチア、なんていう季語は、芭蕉は知らなかったと思うし、クーラーとかバレンタインデーとか、季節を感じれば何でもいいのかと思いきや、ジェット機はOK、でも飛行機雲はダメ。
ルール(縛り)無くしては成り立たない面白さ、というのは確かにあるが、そのルールの決め方に素人は少々疑問を感じるのである。
俳句をやる人の中にもそう感じる人はいるらしく「季節を感じれば必ずしも季語がなくてもいい」という派閥もあるらしい。無季俳句、と言うのだという。
こうした文学とか芸術系の習い事なんかでは、結構、心を病む人が出るものだ。
「会」が「仲間」ではなく「ピラミッド型」で、先生や経験の長い人に逆らったり、彼らよりいい句なんか作ってはいけない、みたいな空気があったりする場合がある。
句集に選ばれるの、選ばれないの、酷評したのしないので、人間関係が乱れがち。割とあちこちでそういう事象が散見される。
技巧とセンスを「競う」というのは、フィギアスケートなどに見られる「芸術点」みたいなものであり、それは突き詰めれば主観やお金や身分や権力、みたいなことになっていって、選択基準に絶対性がないのに絶対の権力があるというパラドクスに、若干嫌気がさしたりするのである。
また話がそれるが、平安時代には、歌会で負けて悔しくて悶死したという壬生忠岑の話がある。もっともこの話は達人のプライドの話で、真偽も少々眉唾のようだが、芸術に優劣をつけるという話ではある。
忠岑の子供のころの話も微妙。
父も和歌の達人で、忠岑も子供のころから歌の才能があったという。
身分が低いながら内裏に参内を許されたものの乗り物がなく、内裏にいけない、というと、竹馬に乗ってもこい、と言われたという逸話がある。
内裏がそれだけ忠岑の才能を欲したというほほえましい話に解釈されるようだが、意地悪じゃね?と思う。誰か迎えにいってあげたらいいんじゃない?ねぇ?壬生忠岑は洒落の利いた歌を返して、歩いて内裏に参内したらしい。身分って怖い。
それでも「プレバト」なんかを見ていると、プロがちょっとアドバイスをして順番を入れ替えたり一文字変えたりするだけで、見事に句が引き締まり、誰が見ても「良くなった!」と思うテクニックは存在する。
誰かに師事して教えを乞う、というのは、テクニックを身につける有効な手段であるのは確かだ。
技巧と芸術。
難しい問題だ。
それはそうと、今回川っぺりで思ったのは、俳句って言うのはもしかしたら、どんな文学よりも現場主義なんじゃないだろうか、ということだ。
俳句は会議室で作れるもんじゃないんだ!
現場でこそ作れるんだ!
青島ぁぁ!みたいな、ね。
それが、写実性というやつなのかしらと思った。チガウキガスル
自然や季節を殊に大切にする俳句とは、季節や自然を五感を通して感じ、それを言葉に落とし込むものなのかもしれない。
奥の細道は、松尾芭蕉が歌枕とされる土地を巡りたいと願ったいわゆる聖地巡礼なのだが、なによりも、遠くから想像するのではなく現場に行ってライブ感覚を味わいたい一心で、芭蕉は曾良を誘ったのかもしれないなと、思った。
ね、曾良ちゃん。
歌枕の聖地巡礼、いこ。
どぉぉしても、見ときたいんだよ!
この目でさぁ。
旅をして、見て触れて、句を作りたいんだよね。
やっぱ、ライブに勝るものはないよね!
奥の細道は最後の旅。
ちなみに51歳没)
家の中にじっと座って、想像の世界に遊ぶには、俳句では言葉が足りない気がする。でも外では、言葉は自然に削ぎ落とされるのかもしれない。
奥深い俳句の世界。
書を捨てよ町へでよう、書を捨てよ野へ出よう。
旅に病んで夢は枯野をかけ廻る
なんにせよ私のようなシロウトは、「教授」みたいに気軽に俳句を楽しむのがよさそうである。