Movie15 大門の前で/『グラディエーターⅡ』
この映画の最も特筆すべきところは、家族全員で映画館に行って観た、ということである。これをしっかり、ここに記して置こうと思う。
何をそこまで強調する必要が、と思うかたもいらっしゃるに違いない。
子供、特に男の子は、大きくなるにつれ、親と行動することを非常に嫌がる。そうではない、という家族も多くあろうと思うが、我が家はそうだ。
別に仲が悪いわけではない。話もしない、というようなことではない。だが家族全員で同じ娯楽を共有するというのが難しい。
父親と息子、母親と息子、ということは、ある。だが全員で同じものを楽しむということを、なぜか好まない。好まない、というより、好みが合わない。
そんな家族が「行きますか」「行きましょう」と即断即決で合意をみたのが『グラディエーターⅡ』であった。
息子は『グラディエーター』は配信で観ている。割と最近観たといっていたし、若いから記憶鮮明である。だが2000年にリアタイで観たっきりの私は良くも悪くもぼんやりとしか覚えていない。いや、いい映画だった。面白かった。さすがリドリー・スコットというスペクタクルな超大作だった。ラッセル・クロウの苦悶に満ちた、あるいは勇気に溢れた精悍な顔が思い浮かぶ。グラディエーターサンダルの足元も――そうだ。なんでだかあのとき、やたらサンダルに目がいった。そのことを思い出した。
というわけで、映画館で待ち合わせた。親ふたりが映画館に到着すると、大門未知子の美脚が出迎えてくれたので(『ドクターX』の映画の超巨大ポスター)、「大門の前で待つ」と息子にLINEする。息子は「???」である。しかしこの「大門の前で待つ」が、実はこの後の映画を象徴する言葉だったということを、私は後から気が付くのであった――
この先は、当然ネタバレするので、今から観るという方は、ここまででで。
まず、感想に移る前に、この映画のすべてを物語っていると思うヤマザキマリさんのこちらの記事を紹介したい。
帰宅してからこの記事を読んだ。
映画を観る前に読んでおいても良かったな、と思ったが、観た後だから余計になるほどと納得感があった。
古代ローマを舞台にした鳴り物入りの超大作。確かに、近年になく、潤沢な予算を惜しげなく、かつ、有効に使った大スペクタクルであった。最近は、いくらお金をかけていても「CGが大がかりだったね」という感想ばかり出てきてしまう映画が多い中、この映画は、スケールと説得力が桁違いだった。もちろんCGもふんだんに使い、映画ならではのファンタジーも取り混ぜているのだが、リアリティがあり、なにより群衆に「人間」が見えた、気がした。続編というのが上手くいかないケースも多い中、この「グラディエーターⅡ」は歴史に残るクオリティーだと思う。やっぱり、あれだろうか。ディ〇ニーなどとは一線を画し、リドリー・スコットが自分で作った映画会社(スコット・フリー・プロダクション)で作っているからか。弟と共同経営らしいが、弟の経営手腕か。
以下、個人的に気になったところを散発的にいくつか。
群衆
『RRR』でも感じたのだが、やっぱり群衆を「人間」と映すか「モブ」と映すかは、(実際はどうであっても)映画の印象を左右する、大きな分かれ目だと思う。私たち映画の観客は、もちろん主人公にも感情移入するのだが、それ以上に「群衆」の、「お恵みを」「このままでは飢えて死んでしまいます」「きゃ~!興奮するわ」「ひゃっほうやれやれやっちまえ」「そこまではやりすぎだろ」「いいかげんにしろよ」「もうがまんならん」的な、言葉でもセリフでもない感情をしっかり感知でき、その群衆の感情を通して「やれやれ、これだからパンとサーカスにやられちゃったローマの民衆は」とか「この愚帝の時代はサーカスだけで食糧を与えることができてないのか」「そうはいっても現代の人間も同じようなもんだよね」「アカシアスをあんな卑怯なやりかたで殺すなんてあり得ない」などと、思うことができる。群衆の心理に、自然と目が行くようになっているのが、すごいのだ。映画の作りとして、必ずしも群衆に特別な視点をよせてはいないのに、である。
人間が「個」としてではなく「群衆」になったときの、身勝手さや無責任さ、自分に害が及んだ時の敵意、不満が蓄積して集団的に爆発した時の恐ろしさというものが「ごく自然に」描かれていたのが面白いと思った。
見抜く力
主人公のハンノの素性(征服地ヌミディアから連れてこられた剣闘士だが、実は前の皇帝の孫。しかも伝説のグラディエーターと皇帝の娘の子)がギリギリまで明かされないのがニクい演出である。ハンノの匂わせ方は絶妙で、観客が気つくのと、映画の中の人間が気づいていくそのタイムラグが素晴らしいと思った。『グラディエーター』を観ている観客にとっては「あの子が!」である。しかし、それが映画の中の人たちが気がつくのと同時ではないのだ。だからこそ「ここぞ」という瞬間が生きてくる。
上の記事のヤマザキさんと同じように、私がこの映画で最も注目し「萌え」を感じたのが、元剣闘士の医者ラウィ(アレクサンダー・カリム)だった。ハンノはどの人間に最も信頼を寄せればいいかというのを常に見極めなければならない必要に迫られており、そこを間違えない。ラウィに初めて自分の本当の名を明かし、指輪とすべてを託した時には痺れた。
SNSもテレビも新聞もなにもない時代の、人間の「素」のままの状態で、限られた情報の中から「真実」を見極める目。当時の人間が、何を頼りに生き延びていくかと言ったら、その「目」しかなかった、といっても過言ではない。
政治的な世界で、誰につくか。既得権益にしがみつき、滑稽なほど日和見な元老院の右往左往も描かれていた。いっぽう、ただ死ぬだけが運命という剣闘士が、何を頼るか。「力」「暴力」、確かにそれも大切だけれど、なにより「知性」なのだと感じた。父親から「力と名誉」、母(さらには祖父のマルクス・アウレリウス)から「知性」を受け継いだハンノ。そのキャラクター形成が見事だった。
おそらく、そうした高潔な人格形成には、妻の影響が大いにあったのだろうと思われる。主人公を、ただ成長した伝説のグラディエーターの息子ルシウスとして描くのではなく、妻を得てひとりのヌミディア人として生きていこうとしていた成熟した男に描いたのは、その後のストーリーに強い説得力を与えている気がする。
ちなみに、たまたまだが(『グラディエーターⅡ』を観に行こうと思ったからではなく)、マルクス・アウレリウスの『自省録』を読んでいる。読もうと思ったきっかけは忘れてしまって、しかもまだまださわりの章しか読んでいないが、とにかく他人の行動を観察し、言葉をよく聞き、そこから多くのことを学び、深く思索するアウレリウス帝の聡明さ賢さに感銘を受けた。この映画では彼は尊敬されつつもその理想は「夢物語」だと一蹴されていたが、現代にも通用するような自己や人生、世界や歴史についての理解を深めていたことに驚くばかりだ。さすが五賢帝のひとり。
それでも、愚息に帝位を譲ってしまうんだけれども・・・
マクリヌスの描かれ方
政治の緩みの隙をつき、虎視眈々と自分の野望を実現しようとたくらむマクリヌス(デンゼル・ワシントン)は、この映画ではいわゆるラスボスだったわけだが、史実では短い期間皇帝だったことがあるらしい。しかし民衆や周囲の支持を失って戦いに敗れた末に殺害された。この辺りは史実とフィクションを絶妙に取り入れていて見事だと言える。というか、史実関係ない、もうこっちがノンフィクションでいいじゃんという説得力をさえ持っている。
私が感心したのは、彼が高笑いしないことだ。
私はずっと「創作作品(特に映画やアニメ)の中で、なぜ悪は高笑いするのか」ということを半分テーマにしているのだが、この作品の中では愚帝の双子の兄弟は当然の如く「悪の権化」のように描かれ高笑いしていた。が、マクリヌスはニヤリとすることはあっても高笑いはしない。そのことが、かえって興味をひいた。彼を完全に「悪」とは描いていない証拠のように思えたからだ。
彼には彼の事情があった。それはある意味、ハンノと根っこが同じものだったかもしれない。しかし境遇はハンノと同じでも、彼の出自は「皇帝の孫」などではないし「英雄の息子」でもない。「市民」ですらない。才覚だけを頼りにのし上がっている「元奴隷」である。ハンノを気に入ったのも、もしかしたら彼なら自分のことを理解してくれると思ったからであろうし、自分のクーデターの手駒として利用しようと思ったからに違いない。
しかしハンノはまさかの男であった。マクリヌスは、ハンノが手駒どころかとても自分の手に負えない人物だと気づくのが、遅すぎた。焦ったマクリヌスは、計画を変更しなければいけなくなり、その後は失態ばかりを繰り返すことになる。
マクリヌスは奴隷商人・剣闘士の元締めという「力」を手に入れるまで、文字通り血のにじむ努力をしたことだろう。それがハンノを見出したことで結局は瓦解してしまう。彼に足りなかったものは何か。それは守るべき「名誉」が無かったことだ。それが、ある種の哀愁を感じさせる。日本で言えば、「ミナモト」の血を引くものとそうでないもの、の違いである。「高貴な血筋」ばかりは自分の力や才覚でどうなることでもないのだ。
リドリー・スコット監督はマクリヌスを「哀れ」とは描いても「悪」とは描かなかった。そこが面白いなと思った。
ゲタとカラカラ
史実では兄カラカラが皇帝で、弟ゲタを殺害したとされている。映画では、マクリヌスが取り入り易いゲタをそそのかして、カラカラを殺害する、その後マクリヌスはゲタを皇帝に据え、自らの身分を確保した後、ゲタも殺害するという設定だった。
物語の序盤に、ローマの入り口にある門の上に「狼の乳を飲むロムルスとレムスの像」を置いたのは、彼らだったのか。双子の統治を象徴していたのだろうし、その悪政を象徴していたのだろう。実際にロムルスは双子の弟レムスを殺して自分が最初のローマの王になっている。
それにしても、ローマ人の名前として「~ヌス」「~ウス」などがつく名前が多い中、暴君、悪帝と呼ばれる人々の名前はみな一風変わっていて、当時にしてみたらもしかしてキラキラネームだったのか?と思ったりする。日本人的にはゲタもカラカラもかなりインパクトの強い名前だ。映画の中の彼らも、見事な「狂気」として表現されていた。でも、こういった「悪役」がしっかりしていればいるほど、物語は面白いんだよね、とも思った。
追記:カラカラは渾名だったようだが、ゲタは本名だったらしい。
凱旋門
さて、ラストシーンは、ローマの入り口にたつ凱旋門を真ん中にして皇帝の近衛兵と反乱軍がにらみ合う中、すでに「皇帝の孫」と衆人が理解した後のハンノがマクリヌスを倒し、門の下で演説するところで終わる。
この凱旋門。映画の序盤に剣闘士として荷馬車で運び込まれたハンノが「この街は腐っている」と言いながらその下を通っていた。その凱旋門には、ローマ建国の伝説にまつわる「狼の乳を飲むロムルスとレムスの像」が上にどーんと乗っかっていた。
そんな門、あったっけ??で頭がいっぱいになってしまった。
家に帰って塩野七生の『ローマ人の物語「ローマは一日にして成らず」』を出して来て読んでみたが、「狼の乳を飲むロムルスとレムスの像」の写真と落人伝説について書いてはあったが、そんな記述どこにもない。いやーちょっと、造形的にもどうなの、と思った。
確かに、剣闘のシーンでも、実在しない猿が出てきたり、サイに乗って出てきたり、スタジアムに海水を入れて海戦を再現してその周りにサメを泳がせたりとやりたい放題だったが、あの門。
ローマの誕生と、実際に双子に統治されるローマとの落差を表したかったのかもしれないけれど・・・あの時代にはあったのか、な?どなたか教えていただきたいと思う。
そして、息子との待ち合わせに「大門の前で待つ」は、なかなかに示唆的だった、と思うのだった。
個人的なムネアツ
オリジナルキャラクターである、ペドロ・カシアス演じるアカシアスが、『マンダロリアン』のマンド―の中の人(本人が出てくることもあるので中の人というわけではないけれど)だったことに興奮した。笑
『マンダロリアン』はスターウオーズに出てくるボバ・フェットの族名だ。スター・ウオーズファンの間では、コンプラにやられまくったシリーズ7・8・9を凌ぐ人気を博しているとかいないとか。ヨーダの一族の子供(グローグ)をめぐる熾烈な争奪戦と、マンド―という愛称で呼ばれるディン・ジャリンとの二人旅。まるで「子連れ狼」のような風情と、それを裏付けるようなちょっと尺八的な響きを思わせる、哀愁を帯びた音楽も似合っている。
マンド―ファンとしては、アカシアスの、強い!そして高潔!というところに嬉しくなってしまった。ストイックで忠誠心に篤く、愛するものを命を懸けて守る。マンド―とアカシアスには共通点がある。
でも、私がアカシアスがマンド―だと知ったのは、映画が終わってから息子に教えてもらったからだった。
やっぱり息子と観に行って良かった。
普段はあれこれ「このままでだいじょうぶか」と思わせる息子だが、頼りになる一面が垣間見えた瞬間だった(そんな頼りになりかたでいいのかとは思うが)。
そんなわけで、家族と楽しんだ『グラディエーターⅡ』。
冒頭の、片手で麦を集めつかむシーンと、最後の砂を集め掴むシーンを見て、やばい、『グラディエーター』を復習しておけばよかったと思った。たぶん絶対、ラッセル・クロウとリンクしている。
息子も私もようやく風邪が治ったところで、ツッコミどころもいろいろありながら、風邪の名残りが吹っ飛ぶようなスケールの大きな映画を観て大満足だった。
ファミリーで楽しめる映画!と言いたいが、残念ながらR-15。2時間半あるが、長さは感じさせなかった。
で。『グラディエーター』であんなに気になったサンダルが、今回はさっぱり記憶にない。サンダルに気を取られる暇がないほどテンポの良い映画だった、と言えるのかもしれない。
『自省録』を読み終えたら、懸案だったヤマザキマリさんの『プリニウス』をゲットしよう、そうしよう、と思っている。