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20年後のゴーストワールド bonus track①『吉祥寺上京編』
拙著『20年後のゴーストワールド』にまつわることを"ボーナストラック"と題しまして、順不同に思いついたまま書いていきます。『20年後のゴーストワールド』をすでに読んでくださった方はもちろん、未読の方も楽しんでいただけると思います。願わくば「あっ、本を読んでみようかな」につながるといいなと思います。
あなたは吉祥寺という街に馴染みはあるだろうか?今回は作中で主な舞台となった街、吉祥寺へ私がはじめてやってきた日のことを書きます。
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私は大学受験の時にはじめて吉祥寺へ行った。幼少期に練馬区に住んでいたころに、父母と吉祥寺へ訪れて井の頭公園でスワンボートに乗ったらしいということは、むかし母から聞いていたが、自分ではまるで記憶にないので実質ノーカウント。母はその話をする度に、父はボートを漕ぐのが下手だったと言っていたが、それはまた別の池のある公園だったのだろうか?まさかスワンボートがうまく漕げなかったのか……?父は覚えているだろうか、もう母には聞きたくても聞くことができない。
高校生の時は埼玉に住んでいた。川越の高校に通っていた。私は小学生の時からL⇔R、黒沢健一の大ファンだ。はじめて買ったCDもはじめて行ったライブもL⇔Rだった。黒沢健一が高校で英語科だったのを月刊カドカワのインタビューを読んで知って、それを真似して高校は女子校の少人数制の英語コースに入った。英語が上手くなりたかった。将来の夢を聞かれて、子供の時から夢を描けずに別にケーキが好きでもないのにケーキ屋さんになりたいとか適当に言っていたが、この時は翻訳家にしておいた。
その割に、当時は海外文学や映画に興味が持てず、かろうじてL⇔Rの影響で知った洋楽を聴いていた。サブスクなんてない時代。ラジオから録音したものや、図書館でCDを借りたりして聴いた。図書館で借りたoasisのモーニンググローリーをMDに録って実家の茶の間にあるMDコンポで繰り返し聴いていた風景は、いまだに夢に出てくる。
小沢健二やAIR車谷浩司の影響でサリンジャーは読んだ。小沢健二は15歳の時に『ライ麦畑でつかまえて』を読んだと知って、自分も15歳の時に読んだけどその時はよくわからなかった。高校の英語コースは想像以上に英語漬けだった。外国人の先生も複数人居て、今思えば恵まれた環境だったのだろうが、掃除の時間は外国人の先生の質問に答えながら掃除をするのが課せられ、その間は日本語禁止!とか授業以外も常に英語がついて回って地味に大変だった。担任の先生はもちろん英語の先生なのだが、親ほどの歳のとても厳しい女性の先生で、英語が嫌になってしまった。
その頃、国語の時間がまるで息抜きのようで、国語の時間が楽しかった。古典も面白く、古典の先生(当時30代半ばの男性)が嫌な感じではないけど、近代の小説に出てきそうな趣のじめっとしたヤバさを纏った人だった。私の「やばいやつウォッチャー」のはじまりはここからではないかと思っている。その話はまたいつか……(投稿した記事の順番が前後しまして、その先生については#文学フリマで買った本 シリーズ(4)にてもう投稿しております)
そんなわけで、大学は英文科ではなく、日本文学科に行くことにした。特に将来の夢も描けない私は大学に行きたい願望もなかったけど、コワイ担任の先生に洗脳されるかのように、高校時代は勉強漬けで、放課後は担任の先生による予備校代わりの「ゼミ」を受けていた。高校に入ったら、軽音学部に入って「スーパーカー」みたいなバンドをやりたかったが、当時はヴィジュアル系全盛期、GLAYかラルクのコピーをするしかなく、それがあんまりだった私がその中で周囲と落とし所を見つけてやったのはSOPHIAだった。黒いブーツだった。中学の時からギターは弾いていた。女子校だし、スピッツとか好きそうな人が居そうなものなのにそれすらいなかった。軽音学部は仮入部で辞めて、ゼミの日々になってしまった。
それでも音楽は好きでロッキングオンジャパンと音楽と人は毎号買って読んでいた。たまにライブに行くことと(当時は黒沢健一、AIR、プリスクールなどに行った)石田ショーキチ(当時は石田小吉)
のラジオを聴くのがワクワクする時だった。スクーデリアエレクトロは高1の春休みにはじめてライブに行った。昔のチケットを取る方法(土曜10時にぴあやらローチケに電話する、回線が混雑してなかなかつながらないやつ)で父がチケットを取ってくれた。
中学の時いじめに遭って病んで、その時も音楽が唯一の救いだったので、親もCDを買ったりライブに行ったりすることに関してはずっと寛容だった。いまの私にやっかんでくる人も、中学の時いじめてきた人と根本は同じような気もしている。みんな◯◯い。何も持たざる私にさえもマウントを取って、上に立とうとして精神的にさもしい。そういう人を見るたびに、岡崎京子の漫画の手書き文字「さもしいね」が脳裏に浮かぶ。
高校時代に話を戻そう。担任の先生から大学を6校受けるようにお達しが出た。当時音楽雑誌を穴が開くほど読んでいたので、ミッシェルガンエレファントの出身の明治学院大学に行って、また軽音部をリベンジしたいという気持ちがあったが(勉学よりそれだ)ミッション系の明学には日本文学科がなかった。もう英語は懲り懲り。だからといって社会学科みたいなのは当時流行っていてレベルが他の学科より高かった。明学は一応学校見学も行ったのだけど候補から外さざるを得なかった。大人になってから、私のような理由で実際に明学に行って卒業している同年代の人と数名出会って、深く話さなくても心の奥底で通じ合えるような気になった。部室にチバユウスケ直筆のノートがあったけど、盗まれたとかいう話も聞いた。大学生当時の"チバ文字"見たかったもんだわね。
それくらいのレベルの学校に行けたら程よいと思っていたものの、唐突に早稲田大学に行きたくなった。タモさんとか東大に受かる前の小沢健二も早稲田だ。ゴスペラーズも早稲田だ。早稲田を第一志望にして、先生と相談して6校決めた。先生は東京女子大出身だったので、女子大も大いに薦めていたが、当時は女子校だったので、もういいかなと思った。今なら女子大に行くかもしれない。高校に入った時に、バカな男子ノリから離れられて清々していたのにその気持ちはすっかり忘れていた。
早稲田大学、明治大学、法政大学、成蹊大学、日本女子大、武蔵大を受けた。早稲田合格のために部屋に大隈重信の似顔絵を描いて貼って勉学に励んだが、6大学は落ちた。法政の受験の日は当日の朝に未だかつてないほどの頭痛に襲われて受験に行けなかった。受けても落ちていたと思うけど、この時の激しい頭痛は何か運命のいたずらのような感じが未だにしてしまう。大人になって出会った法政出身の人と同じ学舎に居たかもしれないと思うと。近年知り合った人は早稲田出身の方ばかりでもある。浪人していたら同じ学舎に……いやいやいや。
前置きが長くなりすぎた。
それで吉祥寺である。奇しくも明学と同じくらいのレベルの大学には受かったのである。しかし駅から遠いし、あんまり興味が持てなかった大学だ。親は浪人しても良いと言ってくれたけど、担任の先生は「浪人はしない方が良い、成蹊は良い大学だし、吉祥寺の雰囲気はあなたに合っていると思う」と言った言葉を信じて成蹊大学に行くことにした。この言葉は先日観た『I Like Movies』という映画のハイライトのセリフと通じるものがあった。吉祥寺の大学に行くということは、精神的に私に合っていたのだ。
その受験の日、吉祥寺へ向かう中央線。中央線がまだ"真オレンジ"だった時代だ。新宿から吉祥寺へ向かう車内、行き先案内板に目を向けると、見たことのある地名が目に飛び込んできた。
阿佐ヶ谷、西荻窪……
そっか、あのバンド(バンジージャンプフェスティバル)はこの街のことを歌っていたんだな……
当時は埼玉に住んでいたので、中央線の街のことは全く知らずにいた。たまにライブやら買い物で都心に行くことがあっても大抵がベタな原宿や渋谷だった。
『阿佐ヶ谷ホームシックブルース』
『西荻窪アウェイ』
……
……
吉祥寺に着くまで、何度もその駅名の字面を眺めて、バンジーの曲を脳内で再生してドキドキしたのを今でも鮮明に覚えている。有線のトップ10みたいな街ってここなの!?と思った(『阿佐ヶ谷ホームシックブルース』の歌詞の最初)
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石田小吉がやっていたNHK-FMの『ミュージックパイロット』という番組でこのバンドを知った。
小吉さんがプロデュースしている若いバンド。
「格好良いやつらがいるんだよ、アウェイアウェイなんて歌って」
荒々しい、でも格好良い。
アウェイアウェイ言ってたけど、その日ラジオで流れたのは『西荻窪アウェイ』ではなく『Beautiful World』だった気もする。
格好良いやつらのCDを坂戸のヨーカドーの新星堂で買った。
『CAPTAIN PAPA』
石田小吉プロデュース、録音している人はよくスパイラルライフのCDから名前を見かける"SCUDELIA ELECTRO Jr."の人だ。当時は歌詞カードをクレジットまで隈なく眺めていたのでSCUDELIA ELECTROJr.の人の名前の字面が頭に焼きついていた。字面を良く目にするこの人はどんな人なんだろうと思っていたのはこの時からもうすでに。
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未だサブスクでは聴けない、日本の名盤。
そうして石田小吉プロデュース所以のCDを買ったりはしていたものの(新星堂でLOVE LOVE STRAWも買った)当時は埼玉に住んでいたこともあって、若手のバンドはGOING UNDER GROUNDが好きだった。吉祥寺がどこにあるかもわからなかった私は下北沢にもたどり着けていない。大宮のWAVEやNACK5のインストアライブを観に行ったりした。バンジーはギラギラして少し怖いイメージもあった。なにしろ目つきが怖かった。その後、ステージでそのヴォーカル町田直隆が目つきの鋭さを失った瞬間を私は鮮明に覚えている。
当時バンジーと同じハイラインレコードでもうすでに勢いのあったバンプよりバンジーの方が断然好きだと思った。ライブへ行く発想まではなかったが、受験の少し前にまだ新宿にあったリキッドルームでスクーデリアのレーベルのイベントでバンジーが出て、スピッツがシークレットゲストで出たやつは行きたかったけど、叶わなかった。
後に、バンジージャンプフェスティバルは吉祥寺がホームだと知る。法政に受かっていたらたぶん今に至る私のストーリーはなかったのかもしれない。バンジーには『吉祥寺』という曲もあり、私にとっての吉祥寺はまさにこの曲のように、優しいだけでないヒリヒリとした痛みを抱えながら歩く街の空気だ。斉藤哲夫や斉藤和義が歌う吉祥寺より、何よりも私にとっての吉祥寺はこのバンドの曲だ。吉祥寺という街への思いのはじめにはこんなストーリーがある。この時からその先に起こること、私が書いたことは全部嘘だったらいいのにと思う。こんな伏線、小説じゃなかなか思いつかない。
※BUNGEE JUMP FESTIVAL「吉祥寺」
この曲のピアノはスクーデリアエレクトロの吉澤瑛師。
ちなみに埼玉から引っ越して、大学入学時に武蔵野市に住んだ。駅は吉祥寺よりも三鷹駅の北口の方に近いところ、武蔵野市西久保だった。学校までは自転車でまっすぐ五日市街道を行けば近い。引っ越したアパート名は「ジョージハイム」だった。私はジョージは、外国人の名前か何か、ジョージハリスン的なジョージを想像していた。この時すでに死語になっていたが、吉祥寺を略して"ジョージ"と呼ぶことすら当時の私は知らなかったのだ。それを知った時、ダサい……と震えた。スピッツの「アパート」という曲とは違って、たぶん今もそのアパートは存在する。
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神様その①黒沢秀樹さん(L⇔R)
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小中からの神さまが今も現在進行形で格好良い。ただただ感動した。それに出会っていない人生などもはや考えられないけれど、それが地獄のはじまりだったとも言えなくない…そんなん認めたくないけど!
文学フリマ東京39で販売した『20年後のゴーストワールド』はただいまこちらから通販しております。こちらのnoteに書いたものより大幅に加筆修正して、読みやすく内容も濃いものになっております。是非手に取って読んでいただきたいです!
こちらのボーナストラック編も不定期に書いていきます。次も読んでやってくださいね!
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