「わかり合えないを超える」ための橋渡し
対立している人たちの関係を、わだかまりのない状態にする。
それだけではなく、妥協案ではない解決策を浮かび上がらせる。
世の中にはこんな役割や手法があります。
この、第三者として対立の間に入る役割を担う人をミディエーター、全体のことをミディエーションといいます。
今回、NVCミディエーションを
「わかりあえない」を越える
の訳者である今井麻希子さんから学びました。
これまでの仕事の中で、
よく聞かれるものの
自分でもうまく言えなかった
「もめ事がうまく収まる理由」
これを「やっと言語化できた」
と思えたので、
その思いを忘れないうちにシェアしたいと思います。
この記事を書くことによって、ミディエーションと言う単語を知る人が増えたり、この考え方が広がっていきますように。
そのことにより、人と人との対立が「人と人との心をつなぐきっかけ」になったら幸せに思う、
そんな想いを込めて。
ここでは私のミディエーションにまつわる経験と解釈を大いに付け加えるので、NVCミディエーションについて「まっすぐに」知りたい方はぜひ今井さんのサイトへ。
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この記事は
人との対立に悩んでいる人
人を理解してよい関係を作りたい人
夫婦仲を良くしたい人
組織開発をしている人
など、人と人のよい関係性づくりに興味のある方に読んでいただきたいです。
あなたのまわりにもある対立の風景
さて、個人的な話をすると
以前の会社で働いていたときのこと。
お客さんからのクレーム電話をうけたり
スタッフが言うことを聞かない!と、ご立腹の社長 vs 社長の朝令暮改にうんざりして(会社への信頼もなくしている)スタッフの調停
スタッフがお客様に手を出して、お客様の配偶者さんが殴り込みに来たときの調停
スタッフ間同士の対立の調停
そんなことも仕事の一つでした。
こういうふうに
実は対立している(わかり合えない)状況ってそこら中にあります。
すいません、そう書きましたが、殴り込みとかそうそうないと思うので、たとえば
一方的に文句を言われたり
意見が違って折り合いがつかなかったり
こういうことは家庭内でも、友人関係でもあるなあという感じですよね。
そういうことを思い浮かべながら読むと、この記事が少しくらい役立つかもしれません。
私なりのミディエーションを言語化できるまで
先ほど挙げた例に戻ると、
そのようなことがあったときに手前味噌でとっても恐縮なんですが
「みおさんがクレーム処理すると、最後にいつもありがとうって言われてますよね。意味わかりません。」
「(スタッフから)社長って、みおさんの言うことなら聞く耳もつの、なんでですか?」
「あの状況でよく修羅場になりませんでしたね…」
と言われることが多かったのです。
でも私からすると正直なところ
「そう言われても…」(むしろ私が知りたい)
と思ってました。
だって、自分でも何故だかは分からない。
つまり「当たり前」を言語化しきれていない状態でした。
だから、自分でも理由を知りたい願望も少しはあって、心のどこかにずっとモヤモヤがありました。
そういった経緯があった中、今回、今井さんからの学びを経てかなり言語化できるようになったと思えたので、実体験を思い起こしながら
「もめ事をうまく収まる理由とプロセス」
について書いていきたいと思います。
「分かり合えない」を超えるために必要なたった1つのこと
結論からいうと
たぶん私が気づかずに一生懸命にやってきたことであり、
NVCミディエーションで1番大切なこと。
それが何かというと
「その人が心の奥に持っている、大切にしている思いを受け取る(翻訳する)こと」
です。
かみ砕いていこうと思います。
相手の大切な思いを翻訳するってどういうこと?
ミディエーターの役割は、
「その人が心の奥に持っている、大切にしている思いを受け取る(翻訳する)こと」です。
たとえば、こんなことを思い浮かべてみます。
Aさん:「なに食べたい?」
Bさん:「次郎系ラーメンとか、鬼盛り唐揚げ丼とか、ナンおかわり自由のカレー屋?」
Aさん:「つまり(今すごくお腹が空いていて)ボリュームのあるものをお腹いっぱい食べたいんだね」
そう。
Bさんは言葉ではいろいろなメニューを挙げていますが
結局のところ
「(いっぱい食べて)満腹になりたい!」
が伝えて(訴えて)いることです。
AさんがBさんの言葉を
「お腹をたっぷり満たしたいんだね」
と言う風に翻訳した、と捉えられます。
すると、Bさんはどうかというと。
「そう!そうなんだよ!!カレーでもかつ丼でもラーメンでもなんでもいいから、目いっぱい食べたい!」
と、根にあった自分の満たしたかったことを受け取ってもらえたと感じますし、そのことに自覚的にもなります。
ミディエーターが思いを翻訳すると起こること
こんな風に、その人の心の奥にあった願いや思いを受け取り、それを適切な言葉へと翻訳すること。
これを対立している両者の間で続けていくことで
当事者同士が「敵と敵」から「ひとりの人とひとりの人」でいられるようになっていきます。
カレーやラーメンの話から飛躍しますが、相手の思いを真摯にうけとり、心の根にある「大切な思い」を受け取る姿勢を続けると、そういうプロセスをたどるということです。
翻訳した言葉で会話をすることで、人と人をつなぎ、尊重されるべきひとりの人同士の対話に向かう支援をすること。
それを間に入った人、つまりミディエーターは行います。
ここまでしれっと書いてきましたが、これまでの私は目の前の状況をどうにかしようと全集中していただけなので、今日時点の私は安定してそれができますと言えるわけではないし、相手のあることなので、これから先も必ずうまくいくわけでもないのだと思います。
でも、うまく言葉にできなかったとしても
「相手を理解しようとする」こと
「その場にいる人たちの思いを本気で大事にしようとする」こと
姿勢だけでも、人には伝わるものがあると思っています。
だから、私の経験と、学んだことからいえる一番大切なことは
自分が本当に心の底からその人(両者)の想いを受け取ろうとすること
ではないかな、と思っています。
対立することと、対立しないこと
少し話が飛ぶように思うかもしれませんが、思いを翻訳するということが
「手段」では対立しても
「大切な思い」では対立しない
ということに繋がっていくということもはっきりしてきました。
これはNVCの中にある大切な考え方です。
具体的にいうと
AさんとBさんの食べたいものが
カレーなの?!、唐揚げなの?!ラーメンなの?!
というところでは対立しても、
「空腹を満たそう」
というところでは対立しないということです。
もう少しいうと、
それを「どう満たそうとしているか」という手段が
「カロリーの高いもので」
とか
「リーズナブルなもので」
とか
「手早く食べられるもので」
という考えの違いで私たちはよく対立します。
でも、
「言葉の奥にある想いを、本人にも相手にも分かるように翻訳して、相手に伝えること」
ができると、
対立はなくなるどころか、
対立していた人同士に
「人としてのあたたかい満たされた感情」
さえうまれる
ということです。
講座の中でも伺いましたが、これは、以前にAさんとBさんの対立をミディエーションしたときに私が実感として感じたことでもあります。
2時間前まで1年以上に渡り敵対していたのに、2時間後には応援しあう関係になるという奇跡みたいなことって起こるのだと、いう体験をさせてもらったことがありました。
ただ、その結果が「仲良くなる」とか「関係が元通りになる」とかには必ずしもならないとも思います。それは元の状態やお互いの立場や事情によるので。
たとえば、自分のパートナーに手を出されて殴り込みに来た人が、手を出した人と仲良くなる必要もありませんよね。。
ただ、お互いの事情や思いを心から交わし合えると、人は何かしらの「満たされた感覚」を得ることがで切るのだと思います。
それは、対立していた人同士であっても。
その「満たされた感覚」を感じられることがカギなんじゃないかなって思っています。
敵対していた人同士が共に「満たされる」感覚をもつなんていうことは、論理や今の常識では「ない」ものとされているように思うけれど、確実にあり、人と人は対立していたとしても「見えない何か」でつながることができる。
私は経験から、そう思っています。
話が戻りますが
仕事の仕方でも、仕事に対する考え方でも。
家庭内のことも、コミュニティ内のことも。
「手段」では、私たちはよく対立します。
いろいろな「こうしたい」とか「なんでこの人はこうするんだ」「なんでこんなこと言うんだ」とか。
でも、お互いに大切にしている思いを受け取り合えると、自ずとカレーかラーメンかという二者択一ではなくて、新たな選択肢が浮かび上がってくる、ということがあるということを伝えたいし、興味深過ぎて、くせになるのです。
「対立」への思いと願い
個人的には自分が起こした対立ではないのに、人の対立の間に入ることって、正直すごく面倒です。そして疲れます。
しかも対立している当事者はミディエーションによって気持ちが満たされたとしても、間に入る人(ミディエーター)自身はなに一つ状況が変わらなかったりします。(触媒なので)
これまでには、対立の解消に冷静に対応することがどれだけ大変だったのかなんて、当事者は知る由もないだろうな、なんて思うこともありました。
でも、嫌いじゃないんだよなー
とも思うのです。
それは、私はこんな大きなことを言える人じゃないと思う自分がいる一方で、
人間って、本来こういうものなんだろうな。
と、ミディエーションを通して人間のすばらしさ、深遠さをも感じることができる体験だからだと思います。
そうすると、おのずと両者(当事者)にとって最適の解があらわれる瞬間が訪れること。
それを感じられるときは至福の瞬間です。
これは私たちが今の教育でそういう能力の使い方を教えられてこなかっただけで、私たちが人間として生まれた以上、誰しもに与えられた能力じゃないかと私は思っています。
だから、
対立を希望に。
対立を人として生きる喜びを知るきっかけに。
そうなる人が増えればいいなと願っています。
AかBか、二者択一ではない。
「新たな選択肢が浮かび上がってくる」体験が世の中にもっと広がってほしい、そう思っています。
読んで下さりありがとうございました。
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