「私にとって写真とは何か」を考えるー『浅田家!』を観て
映画「浅田家!」を観た。
写真とは長い付き合いの私にとって、この作品は映画として楽しんだだけでなく、写真について考える良い機会となった。
私にはかつて、写真を真剣に学んでいた時期がある。
その経験を生かし現在もカメラマンとして仕事をすることもある。
そんな私がこの映画を観ながら考えたことは「私にとって写真とは何なのか」という根本的な問いだった。
映画の主人公である浅田政志(二宮和也)が、自分のスタイルを確立するきっかけになったのは、写真学校の卒業製作のお題「もし1度きりしかシャッターを押すことができないとしたら、何を撮るか」だった。
そして彼が出した答えは「家族」。
たとえば私だったら、何を被写体に選ぶだろう。
その答えは、前述の「私にとって写真とは何なのか」という問いに対する答えになるような気がした。
ここでは、映画「浅田家!」の物語と絡め、「私にとっての写真」について思うところを綴りたいと思う。
1.写真に写し出されるのは撮影者と被写体の関係性
一眼レフを使ったこともなかった私が写真学校に通い始めたのは20代後半。
社会人となり、会社員としての生活にも慣れた頃だった。
写真を学ぼうと思ったきっかけはモノクロ写真に興味を持ったから。
学校では現像方法が学べることも魅力だった。
そして、仕事の後に通える夜間部がある写真学校に入学し、会社員と写真学校の二足のわらじ生活が始まった。
夜間クラスだけあってクラスメートたちの経歴は様々だった。
高校を卒業したばかりの子もいれば、私と同じような社会人まで、多様な人々が集まっていた。当然ながら皆それぞれに撮影の経験を積んでいて、私のようなまっさらな初心者はほとんどいなかった。
スタートから出遅れていたが、何はともあれ走り出した。
そして、試行錯誤するの中で学んだことは、「写真には撮影者と被写体との関係が写し出される」ということだった。
これは学校の先生が繰り返し言っていた言葉でもあるのだが、はじめはピンとこなかった。
被写体との関係性云々よりも、自分が撮りたい被写体や構図を探すことが楽しくて、もう一歩踏み込んで「被写体を知ろうとする」という発想が希薄だった。
ちなみに映画「浅田家!」では、前半の語りを担当する政志の兄、幸宏(妻夫木聡)が弟をこう表現する。
政志は被写体を理解しないとシャッターを切らない
写真を始めたばかりの私にはこの視点が欠けていた。
しかし日々撮り続け、また、プロの写真家の写真集を観察し、何が自分の写真と違うのかを知ろうと務めているうちに、その意味が理解できるようになった。
たとえば被写体が人の場合、撮影者と被写体の関係性が出来上がっていなければ、被写体は身構える。逆に関係性が出来上がっていて、心を許せる間柄であれば良い表情を引き出せる。つまり、撮影者である私と被写体との関係性のみならず、心の距離感がそこに写し出されるのだ。
被写体が物や風景でも同じこと。
被写体を観察し、何に惹かれてシャッターを切るのかを考える。
思わずシャッターを切ってから惹かれる理由を考える場合もあるけれど、また、そういう方法でしか撮れない写真もあるけれど、被写体の何を撮りたいかが明確でなければ曖昧な写真が出来上がってしまう。
つまるところ、先生の言葉通り。
写真とは被写体との関係性を表現する行為なのだと言うことを身をもって学んだ。
***
さて、映画「浅田家!」の主人公政志はそのことを子供の頃から感覚的にわかっている。
彼は被写体である身近な人々、家族や幼馴染の若菜の個性を観察し、理解をしてからシャッターを切る。
被写体のどんな表情を撮りたいのか、彼の中では確固としたイメージがあるのだろう。結果、被写体の本質をカメラにおさめることに成功し、写真集「浅田家!」が完成した。
一方で、政志は「浅田家!」の写真を出版社に持ち込むものの「結局は家族写真でしょ」言い捨てられ相手にされない。家族写真だからこそ写し出される被写体の本質が、家族写真であるがゆえに軽視されているという皮肉。
実際のところ、家族写真はプロよりも家族が撮影した方が良い写真になることが多い。被写体は撮影者に心を許しているし、撮影者は被写体に愛情と関心を持っている。家族だからこそ撮れるショットがあるのだ。
2. 撮影を楽しむことで写し出されるもの
写真を撮る上でもう一つ忘れてはならないことがある。
それは楽しんで撮影すること。
どうでもいい事のように思えるが、写真を撮る上で実はとても重要なことだ。なぜなら撮影者の態度や感情はそのまま作品に写し出されるから。
そういう意味で政志は完璧だ。
まさに撮影を楽しんでいる。
撮影よりもその過程がきっと一番楽しい。
そして、出来上がった写真には「楽しんだ過程」を想像させる力がある。
つまり一枚の写真から「浅田家」の物語が見えてくるのだ。
さて、浅田家の家族写真は、家族の記録であると同時にかけがえのない思い出だ。政志はそんな思い出を多くの人に届けたいと考える。
そこで始めたのが、出張家族写真撮影。
まずは、被写体との関係性を構築するべく相手を知ること時間をかける。そして、その家族にふさわしいシーンを演出することに注力する。それは「仕事」というよりも「遊び」のようで、政志は彼らとの協働作業を楽しんでいる。「家族写真」は被写体である家族のみならず、政志の人生の1ページでもあるのだ。
そんな政志の写真を撮る姿勢はまさに「浅田政志」そのもの。
そうなのだ。写真を撮影する姿勢は撮影者の生き方そのものなのだ。
***
自分に置き換えて考えてみる。
私は心から楽しんで撮影をしているだろうか。
最近の私は、人を撮りたいと思いつつもカメラを向けることを躊躇する。そこに立ちはだかっているのは「関係性の欠如」。それが写し出されることがわかっているからシャッターを切れない。
要するに私はファインダーの向こう側の被写体に心を開いていない。
撮影者である私自身がオープンマインドでなければ、被写体がそうなるはずもない。情けないけど、政志のように被写体を受け入れたり、あるいは懐に飛び込んでいく勇気が足りないのが今の私なのだと思う。
そして思う。私の撮影の仕方は私の生き方に似ていると。
つまりは私の生きる姿勢そのもの。
だからこそ、映画の中の浅田政志が眩しく見えた。
そして、自分がどうすべきなのかも理解した。
3. 記録、そして記憶としての写真について
映画では東日本大震災の後に「写真洗浄」のボランティアをする政志の葛藤が描かれる。
政志は考える。自分にできることは何か、そして写真が持つ力とは何なのか。
人とのつながりは記憶の中にあるもので、それを確かなものにするのが写真や映像といった記録。災害によって何もかもが跡形もなく消えてしまった時、写真はただの写真ではなく、人々をつなげる、または生きた証としての役割を担う。
かつて編集者に揶揄された「家族写真」はただの思い出を写す紙ではなく、家族がそこに存在したことの証明なのだ。
記録、そして記憶としての写真。
それこそが写真の持つ本来の力とも言える。
物語の最後に政志は言う。
なりたい写真家に僕はなった
彼は「家族写真」の意味やそれが持つ力を確信し、また、「自分にとって写真とは何か」の答えを導き出したのだと思う。
さて、現在の私はどうだろうか。
「もし1度きりしかシャッターを押すことができないとしたら、何を撮るか」
その答えは今はまだわからない。
でも輪郭は見えてきているような気がする。
こうやって、自分が見たい景色を見るために、試行錯誤しながら生きている今の自分も悪くない。
「私にとっての写真とは何か」という問いの答えも然り。
まだはっきりとはわからない。
でも、私は被写体を理解することで、そこに写し出される自分自身を知ろうとしているのだと思う。