どうせなら、すべての命は素晴らしいと祝う呪いをかけよう
春分の日にはまだ蕾がだった桜が咲き、もう満開を迎えた。
春分の日にハートに火がついた。ずっと悩んでいたのだけど、自分が何を選べばいいのかを障害を持つふたりの作家さんの作品をを観て思い直せた。
本当に好きなものや、やりたいことに妥協してはいけない。誤魔化したらいけない。そう思えた。そしたら、ふと、以前、歌の師匠のひとりである弁天太朗くんから言われた言葉を思い出した。
「本気で歌うなら、河原乞食になる気持ちで」
そう言われたことがある。その時の私は「何か、怖っ!!」ってなって受け入れられなかった。頭で考えて「プロへの道は険しいってことを言ってはるんやわ」「全財産投げ出して、嫌なことでも何でもやるくらいの覚悟がいるってことなんやな」と思っていた。でも、それが、ふと、何かわかったんだ。
「自分にはコレしかないんだ! というくらいの意気込みで裸一貫あるもの全部出し切っていく」
そのくらいの気迫で真摯に向き合って全身全霊で表現するってことが「河原乞食になるつもりで」ということなんだと思う。今の私はそれをやってみたい。
すごく怖かった。ギターは上手くならんし、レパートリーも少ない。いろんな曲をやってみようとすると無理がでて微妙になる。間違ったら笑って誤魔化してしまう。歌うのは楽しい。だけど、どっか逃げ腰だった。「好きで歌ってる」のは本心だけど「趣味でやってます…」みたいな空気を出してた。
文章もどこか中途半端にいい人でいようとしてる気がする。もっとどうしようもない私を見せてみろよ! と自分に思っている。
「介護の仕事をして、そのまま実務者研修や介護福祉士の試験を受けるのか?」と考えた時、頭では「国家資格やし取っておけば安泰。両親が元気な内に勉強して試験を受けるのがベストだろう」とは思うけど何とも言えない違和感があった。何かが違う気がするモヤモヤが最高潮に達した時、友達限定でSNSにその悩みを打ち明けた。そこで私は「自分に価値がないと思っている」という事に気づいた。まるで「私には価値がない」という呪いをかけているみたいだった。
私の中にある自己無価値観は一体いつ、どこからやってきたのか? 思いつく限り書き出してみた。だけど書いた後にすごく嫌な気持ちになって、これは人に見せるものではないと思って
ここに書くのはやめた。
少しだけ書くと、嫌だと言ってるのに聞いてもらえなかった体験や、ものすごく嫌で泣いていたら「女だからって泣けば許されると思うなよ」と怒鳴られたこと。本当は心細くて母に一緒に居て欲しいけど、それを言ったら母は困るだろうと思って「寂しかった?」と聞かれても「寂しくない」と言い続けた幼少期の体験。私が交通事故に遭ったことで次から次へと嫌な出来事が起きたこと等が影響してるような気がする。
「言っても分かってもらえない」「自分を受け止めてもらえない」という諦めや、「本心を言ったら困らせてしまう」という思いやりのつもりの嘘。人前で泣くのが怖い。私が悪いと感じる罪悪感と私の何が悪いんだという怒り。そんな様々な思いが自分の感情を感じないようにしていた。寂しくて悲しくても自分の気持ちを伝えられず、感情のコントロールができなくて、もう何も感じなくなればいいのにと思ったこともある。
そうしている内に自分の本当の気持ちがわからなくなっていた。自分の感情がわからないし人の気持ちもわからなくなった。私自身が「嫌だと言ってるのに聞いてもらえない」ことをする側にもなっていた。改めて怖いなと思う。負の連鎖でしかない。その連鎖を断ち切って、そこから抜け出したい! 自分を変えたい! と色んなことをしてきた。だけど自分の真ん中が不安や恐れのままどうにかしようとすればするほどズレていく。
そんな中ある出来事があった。ちょっとしたことで人前で泣いてしまった。普段なら人前で泣かないのに、30歳上の尊敬していた男性に悩み事を話していたら泣いてしまった。年齢が近い男性には緊張感を持っていたが、30歳も上だし尊敬していたので気を抜いていた。少なくとも私は合意していないことが起こった。怖すぎて声が出ず、抵抗できなかった。防衛本能なのか、すごく嫌なのに「この人はいい人なんだ。お世話になっているし…」とその出来事を頭で受け入れて納得しようとしていた。実際にその後も色々よくはしてくれたけど私には気持ちはなかった。
そういうことがあった後、おかしなことが続いた。イベント等で私が泊まっていた部屋やテントで寝ていると見知らぬ男性が入って来る出来事が何度か続いた。冷静に対処して事なきを得たが、コレはいよいよ何かおかしいと思い始めた。そして自分の負の感情がそういう出来事を呼び寄せているのではないか? と気づいて、やっと私の中にある怒りや怨みの感情に目を向けるようになった。しばらくは外側に怒りが向いていた。あんなことがあったから。あの人がこんなことした、あんなことを言った。冷静に考えたら私が悪いかも知れなくても、誰にも何にも遠慮せずに飽きるまで怒りや罵詈雑言をノートに書いて吐き出した。時には枕をボコボコに殴って感情を吐き出した。
そんなことをしながら何年もかけて見ないようにしていた感情を感じていった。私の中にあった怒りや怨みの感情は、私自身が本当の気持ちを否定して粗末に扱っていたから気づいて欲しくて住み着いた私の幽霊みたいで、思い残した感情たちが気づいてほしくて私を動かしてるようだった。これが霊魂ってやつかな。感情にはそういう意思があるのかも知れない。
自己無価値観や罪悪感を手放して、もう自由にしよう。十分苦しんだ。何にも囚われずに軽やかに幸せになっていい。自分の本当の好きなもの、1番の願いに素直に手や足を伸ばしていい。
「大事なのは、願いが叶うか叶わないかじゃなくて、うまくいくかどうかじゃなくて、本当の好きや本当の願いにどれだけ正直になれたかってことなのかも知れない」と最近思えた。
たくさん悩んでどうしようもない自分を呪ってきてしまった。でも、どうせ呪うなら、すべての命は素晴らしいと祝う呪いをかけよう。私が恥ずかしいと隠したり、呪っていたような部分こそをしっかり抱きとめよう。
そう思えて初めて、私はどんとの「おめでとう」の歌の景色を観た気がする。そしてギターを手にする前に、夢の中でどんとが私に言った言葉を心の底から信じてみようと思えた。
「小さくても、心を込めて歌えば届くから、歌ってごらん」
夢の中で、そうどんとは言った。その言葉をバカみたいに信じてみたい。どんとの「おめでとう」は、どんな命も祝福する歌。「おめでとう」を初めて聴いた時に流れた涙は、きっとどうしようもない私を祝福されたように感じられたから。その気持ちを忘れずに、今度は私がどんとのようにすべての命を祝福するように歌ってみたい。
違和感を感じたからこそ、そう思えた。見て見ぬふりをしないでよかった。一見ネガティブに見える感情こそが本当は祝福なのかも知れないな。ポジティブもネガティブも、ぜんぶひっくるめて味わい尽くそう。
こんな風にたくさん感じてたくさん悩んむこと、それを表現することこそが私の価値なのかも。20代の頃「1番大切なのは感受性だからね」って言われた言葉を信じてみよう。感じることを恐れずに、感じることこそが素晴らしい価値だと私に許そう。
桜が散る前に、そう思えたことを忘れたくなくて書いてみた。