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片想いばかりじゃなかった

映画「よだかの片想い」を観た。


映画「さかなのこ」を観に行った際に、流れていた「よだかの片想い」の予告を観て何だか泣けた。そして「これは私が観るべき映画だ!」と思った。※これ以降映画のネタバレ含みます※


理系大学院生・前田アイコ(松井玲奈)の顔の左側にはアザがある。幼い頃、そのアザをからかわれたことで恋や遊びに消極的になっていた。しかし、「顔にアザや怪我を負った人」をテーマにしたルポ本の取材を受けてから状況は一変。本の映画化の話が進み、監督の飛坂逢太(中島歩)と出会う。初めは映画化を断っていたアイコだったが、次第に彼の人柄に惹かれ、不器用に距離を縮めていく。しかし、飛坂の元恋人の存在、そして飛坂は映画化の実現のために自分に近づいたという懐疑心が、アイコの「恋」と「人生」を大きく変えていくことになる…。本作は、アイコと飛坂との恋愛を切ない距離感を感じるラブストーリーのみならず、アイコが自分の人生と向き合い、前に進んでいくさまも繊細に描き出す。そんなアイコの姿は、誰もが抱える弱さと響き合い、その弱さを新しい視点で見直し、アイコと共に一歩前へ踏み出す力を与えてくれるはずだ。世代や性別を超えて幅広く、静かに、でも確かに、心に響く傑作が誕生した。

「よだかの片想い」フライヤーより

「よだかの片想い」は顔に大きなアザがある女性が主人公なのだけど、私は顔に傷がある。

小学2年生の時に交通事故に遭って鼻を9針縫った。元々女子成分が少なめだった私は顔に傷ができたことにそれほどショックを受けてなかった。だけど小学校に復帰した際に、「お前が交通事故に遭った奴か。傷を見せろ」と知らない上級生が顔の傷を見に来たり、近所の人たちが「女の子が顔に傷を作って…」とコソコソ話をされることの方が嫌だった。また入院中に激太りして、そこから「デブ」とからかわれるようになったことの方が嫌だった。

小学6年生のある日、同じクラスの女子が「男子がこんなん作ってたー」と笑いながらやってきて、ある紙切れを見せた。その紙切れには(好きな女子・嫌いな女子ベスト3)と書かれていて、嫌いな女子3位には私の名前があり、理由に(デブでブスだから)と書かれていた。ちなみにその紙切れを持ってきた女子は好きな女子2位だった。「男子って嫌ね!」と言いながら笑っていたが、その笑顔には何が含まれてるんだろうと思った。

その時は平気だと思っていたけど、実は思っていた以上に内心ショックだったようで、男子の大半は私のことは女だとも思わないだろうし好きになんてならないんだろうと思うようになっていた。大人になっても気づかない間にそれをかなり引きずっていた。男の人を好きにならなかった訳ではないけど、自分が告白したところでどうせフラれるだけで、自信がないのを更に自信を無くすことにしかならないだろうと思っていた。恋愛の喜びを感じるより、恋愛で傷つく自分しかイメージできなかった。傷つくのが怖かった。

そんな私なので「この映画は私の為にある!」と思った。「映画館で主人公と一緒に泣きたい!」と観に行った「よだかの片想い」。だけど、観終った後の感想はとっても意外なものになった。

主人公のアイコにがっつり感情移入する気満々だったのに、アイコに感情移入できず、何故か相手役の飛坂さんの感情の方が理解できてしまった。

初めての恋にまっすぐなアイコは、自分の気持ち100%で相手に向かっていく。100%で接して100%で返してほしいのだ。わかる。恋愛に慣れてない人あるあるだ。恋は好きになってしまった方が負けなのだ、きっと。仕事の電話をしながら映画のシナリオの確認をしてる飛坂さんに、「今は仕事じゃなくて私と一緒に楽しんで!」って思いが強すぎて、必死に確認しているシナリオを取り上げて脇に置いたり、飛坂さんが居ない時に部屋の掃除をして、部屋に置いているものを勝手に片づけてるアイコの姿に「うわー! やめてあげて!」という苦々しい気持ちになった。撮影現場に見学に行った際のシーンも、「アイコー!! それはやめてあげてー!!」ってなった。

観終わった後、アイコには伝わってなかったけど飛坂さんに愛がなかった訳じゃないと思った。もちろんアイコ自身に心惹かれて…ではなく、本当に心惹かれる映画の題材に出会えたことの喜びの気持ちで飛坂さんはアイコに近づいたとは思う。アイコに告白された時はちょっと複雑な顔をしていた。でも、アイコの誕生日には忙しい合間を縫って琵琶湖に連れて行ってくれた。

片想いって一体何なんだろう。100%の両想いもないけど、100%の片想いもないような気がした。自分が思ったように愛されなかったら、それは片想いなんだろうか。自分が望んだ形でなくても、確かに愛があることもあるんじゃないだろうか。

映画を観終った後、ずっとそんなことを考えていた。そうやって考えていたら、ふと気づいた。私は片想いばかりじゃなかったんだと。

私はずっと片想いばかりで、今まで私が好きだと感じた相手の男性からは好かれることはないと思っていた。だけど、それは私が望んだ【女性として愛される】というものではなかっただけで、違う形の愛はあったのかも知れないと思えた。私にひどい言葉を言ったり、ひどい扱いをした人はいなかった。私が心密かに求めていたものに応えられなかっただけで、自己肯定感が低い私が勝手に傷ついていただけなのかも知れない。女性として愛されるという部分にこだわらなければ、人間としての愛は多少なりともあったんじゃないか。私は好きになった人から好かれない、片想いばかりだと思っていたけど、形にこだわらなければ愛は確かにあったのかも知れない。そう思ったら、何だか今まで自分が思い込んでいた目には見えない重たくて分厚い膜みたいなものから解放された気持ちになった。

「よだかの片想い」のラストシーンで、アイコはアイコ自身を受け止めていく。顔にアザがある自分を受け止めていく。そのままの自分を愛していく。そうなって初めて人は、依存的にならずに人を愛せるのかも知れない。私がアイコに感情移入しなかったのは、いつの間にか私は自分を受け止められていて、自己肯定感が上がっていたからなんじゃないかな。

流行りつつあるメタバースやVRの仮想現実空間ではなりたい自分になれると聞く。自分が思う顔、思う容姿で仮想現実を生きれるのだとか。それは夢みたいなことかも知れない。でも何だかそれには惹かれないし、つまらない。うまくいかないことはたくさんあったけど、私はこの不自由なようで自由な現実世界で、不完全な私のまま、この人生を楽しんで喜んで生きていくことを選びたい。すべてが叶うことよりも、きっとそういうことが好きなんだ。「よだかの片想い」を観て、改めてそう思った。不完全な私で世界を愛していきたいと。




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