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文学フリマ東京36で買った本(2/2)

文学フリマ東京36

2023/5/21(日)

文学フリマ東京36にてうっかり買い回り、手に入れた本と、その感想文です。
後編。前編はこちら

はとの著作についてはこちら


#文学フリマで買った本 (趣味が滲み出るラインナップ)


追悼文学集 第一号 / 追悼文学研究会

書影:画像右上
「梅に満月」
誰にでも思い入れのある場所が消えてしまった経験はきっとあるだろう。ほんとうはこんなこと起こり得ないのかもしれないし、こういった体験を得た人は皆無かもしれない(いるかもしれないが)。こういったコミュニケーションをとることができる存在があろうがなかろうが、その場所に対する喪失感や悲しみ、寂しさは変わらないだろうけれども、この存在があることによってそれがより可視化されるものだなあと思った。

「此岸より」
より追悼文らしいなと思った。俺とお前。お前に対する追悼。シンプルだけど、"お前"との距離感の近さがより喪失を浮き彫りにする。「あーあ、なんでいなくなっちゃったんだよ」というような、誰かを喪った悲しみも寂しさも最大のところをどうにか超えたそのあとの、生活とともにある/これから先、死ぬまでともに生きていく感情が描き出されている気がした。

執筆者(私情小径加賀知巧海道明夜須袖霜


暴力 / ウユニのツチブタ

書影:画像右下
暴力。筋肉は全てを解決する、といったような。
筋肉は〜というネットミームのことは、この数年で世界がばたばたになるまでは好きでした。最終的に頼る(頼らない)手段があることは安心であるため。
タイトルから当然に暴力描写があるのですが、なんとなく読み始めたせいで少しびっくりしてしまった。思えばまともにこういった描写のある小説を読んだことがないのかもしれない。思い当たるのは「キノの旅」シリーズくらい。

「腹に麺類、そばにペンギン」
何度も死に生き返ることができることで、希死念慮は薄まるのかもと途中までは思っていましたが、実際のところ確かに何度も生き返ってしまったら余計に強まることもあるのかもしれない。
腹に抱えたビャンビャン麺の甘美な誘惑。
希死念慮は誰か/何かに抱かされたものであるなんて自分では信じられないのは仕方のないところだよなあと思いました。信じられないし、おそらく信じたくないだろう。
希死念慮の克服(一時的な?)に一役買う感情が"怒り"である点が共感できるような気がしたけれども、このエネルギーが消えたこそ時がほんとうのおしまいなのだろうな。そしてこうなると腹の中のビャンビャン麺は魅力を失ってしまって、オウサマペンギンも食べたところで美味しくないのでは……。
ビャンビャン麺を食べたことがないので、今後いざ食べようと思った時、絶対にオウサマペンギンことを思い出すなあ。
また、本編と関係ないのですが、あとがきの文章が良いなあと思いました。

2023年5月の文フリに出た時、おそらく同じ列?にこのサークルさんがあり、私の波間文庫の前を通る人が持っているこの本の表紙がとても気になっていて、表紙の力は偉大だなあと幾度目かの雑感を思うなどしました。

執筆者(大滝のぐれ・フジイ)


オートセーブ / enchant chant gaming

書影:画像中央下
「弔いの手触り」
死についてはよく考えるが、弔いについてはあまり考えたことがなかったかもしれない。
当然死者を弔いたいという気持ちはある。
死は絶対的な切断、完結、区切りだと思っているので、私の思考はそこで止まるのだろう。
弔いという行為が、故人と"つながりを継続する"ためにあるという視点は気づいていなかった。
ただし言語化して考えたことはないだけで、提示されてみると、葬式に出てその人の死を認識し(切断)、その後故人との記憶を反芻する(生者としてでなく、もういない人として思い出す=再び別のかたちでつながる)ということは自然にしているように思った。
そしてそれは、葬式に参列するなどして一度、故人をきちんと死者として認識しなければできないことだと改めて気付かされた。

「好きだから見たい、好きだから見ない、でも好きだから見る」
いわゆる"推し活"についての考察で、ことさら一個人としての他者を「消費」することについて考えられている。
私はあまりアイドルというものが得意ではないのだけれども、その理由の一端がこの「他者の消費」にあるのではないかと読んでいて思った。
アイドルには、個人の人間性や感情を「消費」してしまいそうになるようなふるまいが多いというか、そういったことを良しとしたコンテンツのように私には見えている。
私にも"推し"のような存在はいないこともない(迂遠な言い方をするのは、それが世間一般で言う"推し活"とは微妙に違う触れ方をしているような気がするからだ)が、改めて考えてみると、彼ら彼女らは、己を自身の名前のついたキャラクターとして仕上げてきていて、そういう消費をしづらいように"演出"しているのかもしれない(そういう傾向のある人間ばかり好きになっているのかも)。
しかし"推している"人間やその所属する業界がどういうふるまいをしているのであれ、"推す"側の人間が、当人を一個人の人間として尊重し、むやみやたらと消費しない姿勢は持っていたいものだと思う。

執筆者(高屋永遠小島杏子・つきたてのおもち・諏江由岐松本友也・太田知也・瀬下翔太


Twitter終了合同

書影:画像左上
Twitterに住み続けて幾年月。
無限に活字を摂取できるツールを愛用していたツイ廃としては、この一年ほどのごたごたの最中にこれを買わない理屈がなかった。
そして本日2023年7月2日、今日こそこれを読むべき日じゃんとなり、読みました(唐突にAPI制限がかかり大荒れに荒れている日です/この記事を公開する時、Twitterがどうなっているかはわからない)。

「それじゃあまた、Twitterという天国で会おう。」
Twitterが世界である、というのはある側面において、ツイ廃的ユーザーはきっと誰でも理解できる感覚なのではないだろうか。
そこをSFに落とし込んでいるのが面白かった。
「さかな醤油」の正体はなんとなく分かりはしたものの、「山田りんご」の方は考えが及ばずだったので、素直に、あってもおかしくないし面白くっていいな〜と思った。
そしてその後の物理の炎上がいいな。
この手で世界を燃やすことができる。
確かにこのクソみたいな世界、燃やしてみたい気もする。
(と思って気がついたけど、そういう話を、私の先日の文フリで出した再販に入れた書き下ろしで書いたな/分かりにくい文章)

「耳元で囁く」
偶然これを読む前に、今敏監督の「PERFECT BLUE」を十年ぶりくらいに観ていたので、偶像が本物を乗っ取る(という意識は今作にはないのかもしれないけど)ことは現代では容易なのかもしれないと思ったと同時に、Twitterはやはり虚像であるため、不気味、以上の領域には出ないのかもしれないなと思った(直接的な身に迫る恐怖には至らないということ/もちろん自分自身が第三者に乗っ取られるようなことが起きれば別だけれども)。
また漱石アンドロイドAI美空ひばりを思い出さずにはいられなかった。
これからこういった分野が発達していく中で、死者の尊厳を守るということのボーダーラインはどこに引かれるんだろう。

「Twitterが終了したので、ここでしか繋がっていなかった助手との関係が切れた。」
Twitterを愛し、憎み、ツイ廃と自称するほど使い込んできた狂ったユーザーの、Twitterへの"気分"を的確に映し出しているようで、もはやこれはTwitterなきあとの世界での、Twitterに対する心情の資料にすらなるのでは?
こういう"気分"というところは後世に残しにくく、残りにくく、またそれを知らない読者の中で正確な再現も不可能だろうけれども、こういった形で再現性を保てるというのは良いなあと思った。
Twitterの"気分"がこんなにも的確に物語として出力できるものなんだなあ。

2023年7月2日現在、Twitterがこの沙汰になって初めて、文フリで出会った面白い文章を書く人たちは大抵連絡先がTwitterなんだなと再認識した。
我らのような文章を愛する人間にとって文字中心でなおかつ字数制限のあるTwitterは居心地が良かったのだ。
世界がすぐ隣にあるような、好奇心を永遠に満たせるツールなど、よほどのことがない限り今後出てこないのだろう。
Twitter終了後の移行先なんて決められないのもそのためで、いつか唐突に消滅すると分かっていながら、その沈みゆく泥舟と命運を共にするしかない。
Twitterが終わる時、確かに存在した、しかし存在しない場とアカウントは、スイッチひとつで電気を消すように滅亡し、私の一側面も本体を差し置いて一足先に死ぬらしい。

執筆者(足立いまる青井タイル月子根谷はやね・九科あか・斜線堂有紀


移住と実存 / enchant chant gaming

書影:画像左下
都市ではある(都会ではない)というようなところで育った鳩の感覚として、「都市的な美学によって田舎暮らしが表現されていた」はまったく過去形ではないのでは?と思った。
田舎も(おそらく)それを望んでいる部分が多少なりともあるし、もちろん都市的な人々には体験しないことには本当のところでの田舎の美学のようなものは分からないだろうし。
都市にいる数多の人々を地方に呼び込みたい以上、そこにフィットするクリエイティブを選択することは間違いではないよね。
必要以上に幻想を抱かせるようなことになってしまうと、双方のためにならないなあと常々思っていますが。

しかし鳩は宮崎県で生まれ育った鳩でございますが、どれだけ長く東京に住んでいても宮崎県の鳩だと思っている。
この都会において、どこまでいっても鳩は余所者という気分なのですが、それは鳩が排他的な感覚を持ち合わせているからなんだろうか。もしくは特に移住したところで、行政に関わるようなことをしないためか。
都市から地方へ移住する人たち、そして行政に関わったりする人たちは、どこかの段階で自分をその移住先の土地の人間である、と思うようになるのかなあ、と少し疑問に思いました(あるいは移住してきた段階で、すでにその土地の人間だという自覚を持つのか)。

執筆者(瀬下翔太・太田知也・鈴木元太・池本次朗)


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