自分なりの“ソーシャルワーク” ーーその人の『答え』を見つけることに
僕が、noteを書き始めたときの目標は、“ソーシャルワーカーとは、何をする人なのか” を自分の言葉として説明できるようになることでした。
それは、“子どもの居場所” にソーシャルワーカーとして関わりたいと願い、自分の“現場” と呼べる場所を探してウロウロしていた時期でもありました。自分自身の“居場所” を探していたといった方が正直かもしれません。
今、通信制大学や“学問” というものに会って、目標、“やりたいこと” も少し変わってきました。その目標についても、これからnoteの場をお借りして、言葉にしていきたいと思います。
#根っこのところは 、多分、同じなんだろうけど
ただ、今回のnoteは、その前に一度以前に立てた“研究計画” についてひとまずの振り返りをしていきたいと思います。
自分なりの「振り返り」であり、次への区切り、独白のようなものになるかと思いますが、お読みいただける方がいっらっしゃればうれしいです🙇♂️
ソーシャルワーカーとは何者か
結論から言えば、まだ、僕は“ソーシャルワーカー” を語れません。自分の現場、居場所をもてておらず、“専門職“ というポジションにもありません。
だけど、それなりに人と出会い、感じたこと、考えたことがあります。
僕はいま、生業(job)としては、放課後デイサービスの児童指導員というのをしています。この仕事は、“直接支援” と呼ばれるもので、相談支援の仕事や支援計画を立てる役割を持つ人は別にいます。児童指導員には、ソーシャルワーカーの資格、社会福祉士などは特に必要ありません(その職に就くためにという意味で、です)。
でも、児童指導員はやはり人に関わり、その子がその周囲や環境、社会に向き合うことに寄り添う仕事でもあります。その寄り添いはチームで行われ、ひらたくいうと“話し合い”ながら、いろんな立場の人々とともに行なっていくものです。
また、知人友人も、困難と呼ばれるものに直面することはあります。そのとき、職(job)としてではありませんが、寄り添うこともあります。ありました。
ー ソーシャルワーク(work)とは
ある人のそばで、寄り添い、話を聞くものの、これといって有用なアドバイスもできず、気の利いた言葉もかけられず、逆に何の役にも立てない自分に僕の方が落ち込んでいたとき、その人から一つの言葉をもらえました。
「話を聞いてくれるから、自分の考えが整理できるねん」
逆に、僕が救われた言葉でした。
そんな、とても“専門職” などとは名乗れない「見習いSWer」な僕ですが、「ソーシャルワーカーとは何者か」には答えられない僕ですが、
だからこそ、ソーシャルワークについては、特定の職種に必要な技術ではなく、どんな立場であれ、人が人や社会に関わろうとするとき、必要になる姿勢であり、“Work”なのだと思います。
“アセスメント” から考える
ソーシャルワークには、技術と呼ぶことが的を得てるかは分かりませんが、幾つもの「要訣」があります。欠かせないポイントのようなものです。
例えば、ミクロ(個人)からメゾ・マクロ(環境・社会)と視点を行き来させること、自己覚知(自分を観察すること)を心掛けること、倫理のジレンマを出発点に考え続けること、人や社会をつなぐ大切さだけでなくリスクにも心を配ること、そして、「本人自身の決定」を尊重すること。。。
# 体系的に学んだはずなのに、体系的には書けませんが😅
ここでは、ソーシャルワークの中でも基礎・基盤とされる “アセスメント” を軸に、「僕なりに、ソーシャルワークとはこういうものだと考える」というのを言葉にしてみたいと思います。
ちなみに、“アセスメント” とは、基本的には福祉の現場などにおいて支援の計画を考える際に、面接や調査で情報を整理することです。
ただ、個人的には、「適切な支援サービスを行うために、当事者を(専門職が)分析する」というのは、少し違うと考えています。
では、誰が“分析” するのものなのか?と問えば、分析するのは相談に来ている本人です。
もっと言えば、本人が納得できるよう、自分自身で判断し決めるために、自分や自分を取り巻く環境を「振り返る」こと、それを促すことが“アセスメント”と呼ばれるものなのだと思います。
ー 自分で決めることを手伝うということ
少し話がそれますが、以前、Abemaプライムという番組で、駒崎さんとい方がゲストとして出演し、ひとり親の支援についてコメントしているのを見ました。
駒崎さんは、ソーシャルワーカーを名乗っているわけではありませんが、子育て支援のNPOを立ち上げ、国や自治体に政策提言をするなど、ソーシャルアクションやマクロの取り組みと呼ばれる活動を多くされている方です。
もちろん、あくまで“例えば” の話です。ただ、僕にはひどくモヤモヤするものがありました。駒崎さんのやっている活動や実践は、もとより、「精神疾患などを持つ人は、“正しい判断” ができないから“助けてあげる”」といったものではありません。
そして、何より、精神疾患があろうとなかろうと、トラブルに見舞われたとき、たいていの人間の判断力や決断力は低下します。
極端な例えで言えば、人は水に落ち溺れたとき、頭を水面に上げて息をつげば良くても踠いてなかなかそれができません。すぐ沈んでしまう板切れにしがみついているのではなく、投げ込まれた救命浮き輪につかまり直せば良くても、なかなかできません。
極端な例は避けるべきとしても、大体の人に、過去にあったトラブルを思い返せば、「あのとき、俺、なんであんなことしたんだろう、、、」というのは、心当たりがあるのではないでしょうか。
誰しも、不安、孤独感、失敗や不幸の経験を負ったときには、「自分で自分が納得できる選択をする」というのが、著しく難しくなります。もちろん、そうでなくても簡単なことではないですが。
他人事を客観的にみて“正しい判断はこうだ” と指摘するというのは、簡単です。少し頭の良い人なら尚更でしょう。でも、我が事を、自分で“納得いく判断” をするというのは、意外と難しいものなのです。
“納得いく判断“ ー正解のない問いに『答え』を
“対人援助” やそこで行われるアセスメントというのは、判断を鈍らせるその状況を少しでも和らげて、情報や振り返りの段取りを提供し、その人が自分で納得できる「自分はこれからどうするか」を考えられるようサポートすることに他ならないと思います。
一人一人の人生に、正解なんてありません。そして、納得いく判断や“答え” は、本人が、充分に考え、自ら選ぶことでしか得られないものなのだと思います。
ソーシャルワークとは、人が正解のない問題に直面したとき、その本人自身が“納得いく答え” を見つけ出せるよう、寄り添い、いくばくかの手助けをすること。その “いくばくか” ために、必要になる方法や、心掛けるべきこと。なのだと思います。
人が生きて行くうえで、それが社会問題とされているようなことでも、他人が見れば些細なことであっても、かならず困難はあります。困難は人の考える力を奪います。独りで思い悩むだけでは、グルグルと迷いつづけるばかりで、“考える” ことは難しくなります。
ただ、他人がそこに寄り添えば、巻き込まれるかもしれない。かえって相手を傷つけてしまうかもしれない。そこに関わるためには、その人の決定に重きをおいて、受容する姿勢が必要になります。そして、自分自身、振り返り考えることが必要になります。
“正解は何か”や “素早く的確な判断” に比べ、そんな姿勢や振り返る力や“納得のいく答え” は、効率や成功が重視される今の時代、「専門性」という言葉に求められているとは言い難いものかも知れません。
だけど、それでも、ヒトが自分の人生を、しっかり歩んでいくには、自分自身が納得のいく答えを見つけることが必要だと、僕は思います。僕が関わりたいと想う人たちにも、僕自身にも。
そのために身につけたい、磨きたいと感じる「専門性」が、僕の想う“ソーシャルワーク” なのです。
さいごに
学問などでの研究計画をまねて立てた問いでしたが、これまでnoteを書きながら考えてきたことなので、これまでのものと同じことの繰り言のようになってしまいました。それでも、今ここの考えを言葉にしてみたつもりです。
読んでいただいた方、ありがとうございました🙇