雨上がり 灰空の下 緑面 河南の古墳と 裾野に続く(南河内郡河南町にある 寛弘寺古墳公園)
昨日ですが、雨が上がったタイミングで南河内郡河南町に行ってきました。ここは前から気になっていた寛弘寺古墳公園があります。
河南町は河内長野から直接境を接していないこともあるためか、近いけどなかなか行きづらい場所にあります。
富田林駅からバスに乗る必要がありますね。
寛弘寺という地名は残っていますが、寛弘寺という寺はもうありません。中世のころまではあったそうですが、地名だけが残ったようです。
道標に従って正面に向かってみると。
トイレがありました。これは非常に便利が良いですね。
こちらに古墳公園の説明がありました。引用してみます。
この地域一帯はかつて狭い谷の入り組んだ丘陵地帯で、屋根の上には多くの古墳が点在していました。
ここに会ったいくつもの古墳をまとめて寛弘寺古墳群と言います。農地開発事業に伴うこの地域の遺跡の発掘調査は昭和57年に始まり平成12年まで続きました。発掘調査によって確認された古墳は、総数92基。
4世紀中ごろから7世紀後半まで数多くの古墳が造られました。弥生時代の集落や奈良時代の墓もありました。
4,5,6,7号墳の4基の古墳が、古墳公園として、現地で保存整備されています。
4基の古墳は、古くから「寛弘寺の七ツ墓」としてよく知られていた。寛弘寺古墳群ツギノ木山支群の一部で、かつての古墳群の様子を今に伝えています。寛弘寺古墳群の出土遺物は大阪府近つ飛鳥博物館で保管・展示されています。
ということで、上がってみることにしました。
視界が良く邪魔なものがないのが良いですね。
古墳に上がれる階段があり、
また遊歩道が続いています。
途中のところに東屋があってここにも説明版があります。こちらも引用してみましょう。
寛弘寺古墳群ツギノ木山支群
ツギノ木山支群は、寛弘寺古墳群の中の小さなまとまりの一つで、北東の一角を占めています。古くから「ツギノ木山古墳」として知られていた5号墳に加え、計15基の古墳がありました。
15基の古墳は、4世紀中ごろから5世紀後半ごろまでに造られたグループと、6世紀後半以後に造られたグループに分かれます。
今も残る4基のうち、4、5、6号墳が古いグループ、7号墳が新しいグループになります。4号墳は直径約29mの円墳。5号墳もほぼ同じ大きさですが、西側に長さ3m、幅約4.5mの方形の造り出しをもっています。6号墳は一辺21~22mの方墳。5世紀前半から後半までの間に、5号墳→4号墳→6号墳の順に
造られたと推定されています。いずれも埋葬施設は未調査ですが、5号墳には円筒埴輪列がめぐり、船形埴輪も出土しています。7号墳は径約12mの円墳で、横穴式石室を持っています。
寛弘寺の地に造られた古墳はどれも小型の古墳です。日本の各地に造られた古墳のほとんどはこのような小型の古墳でした。こうした古墳は小型さゆえに目立たず、多くは古い時代に壊されてしまいました。
40、41、45号墳の石室は近つ飛鳥風土記の丘に移築されていますが、良好な保存状態で現地に残る古墳は極めて貴重な存在です。
古墳の上からの景色です。目の前には畑が広がりその奥に小高い丘、さらに遠くに雲に覆われた山々が見渡せました。
何かのアクセントのように一本の木がポツリとあります。
公園となっている古墳は緑に覆われていますが、それだけでなく、その先、山のすそ野にむかってずっと緑が続いているようですね。遠くに見えるのは同じ河南町にあるワールド牧場です。
ということで詠んでみました。
雨上がり 灰空の下 緑面 河南の古墳と 裾野に続く
(あめあがり はいぞらのした みどりめん かなんのこふんと すそのにつづく)
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