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創作『僕が本当に居たい場所』

「もしも僕が猫だったら、ナディはいっしょに暮らしてくれる?」
職場から帰路につく路面電車の中で、手元の液晶を眺めながらベルが言った。
雨が降るのはこの町にとっては日常で、窓の外では曇天の下に色とりどりの傘が浮かぶ。チームメイトたちとも別れて、ナディとベルが1人分の距離を空けて座る、電車の中。
「、ねこ?」
「そう、猫ちゃん」
このひとがよくわからないことを言うのは日常茶飯事で、適当に受け流しても良かったけれど。
ナディは彼の透明で明るい声が好きで、耳を傾けようとする。
「ベルはベルだよ」とりあえずそう言うと、彼の横顔がふふと笑って液晶画面から視線をこちらに向けてきた。
「そのベルが本当は猫だったら?」
「??」
心理テストか何かをふっかけられているのかな。ナディは深く考えない。深追いするといつもからかわれていたからだ。
「ベルは……猫っていうよりあひるだよ」
「あひる?」
外の流れていく街灯に目をそらしながらまあ適当に考えているナディのことを、ベルが喉の奥で笑いながら愛しそうに眺めていることを、彼女は知らない。

雨粒が窓に張り付いて、横につたっていく。ここは雨の町だから、こんな日でも電車を使う人はいつもの人たちだ。席に空きがいくつかあって、2人の間の1人分の距離が心地よく、歯がゆかった。

「あなたは猫なの?」
「ふふ、さあどうでしょう??」
ああ、やっぱりからかってくるんじゃない。ナディはちょっとふてくされて、だけど彼とのこういうやり取りは嫌いじゃない。彼もそれを知っているし、知られていることをナディもわかっている。
「まあでも、猫は好きよ」
「ん?それは僕のことがってこと?」
ナアナアと子猫だかなんだかの真似を小声でするベル。
「たたくよ?」
「ごめんて」
いつもどおりの何でもない会話が流れていくけれど。ナディは「でも、」と言う。

「ベルが猫だったら、ちょっと嫌だ」
「うん?なんでさ」
「猫はさ、さいごまで一緒にいてくれないじゃない」
どんなに仲良くしても、いつかは自分から飼い主のもとを去るじゃない。
言葉にしたらちょっと切なくなって少しうつむく。寂しくなったのがバレないように。
「……あー、そうかもしれないね」
停車所で電車が止まる。ふたりの子供が、体に合わない大きなリュックサックを背負って入ってきた。
他に席はあるけれど、外の眺めが良い自分たちの近くの席を探す子供。
ベルがそれを察して、腰をずらす。1人分の間が無くなる。
子供たちはベルにありがとうと言って、すぐ横に仲よく並んで腰掛けた。

「実は僕猫なんだけど」
今度は近くでこっそり言われる。耳が熱くなるからやめてほしい。
「その設定まだ続いてるんだね」
「そうだよ。僕は本当は猫。だからわかるんだけどね」
とかなんとか言っている。

「猫は、大切にしてくれた人のことは忘れないよ」
忘れっぽいってよく言われるけれど。
「さいごまで一緒にいれなかったとしても、愛してるよありがとう、愛してくれてありがとうって思うんだよ」

「なに?ベル、……ほんとに猫みたい」
ナディがちょっと笑うと、彼も笑ってくれる。波を打つチョコレートのボンボンみたいな色の目。
とろけるような笑顔が好きだなあとか、思ってしまう。
「本当にそう思ってくれるのかな」
「思うよ。少なくとも僕はね」
気づけば電車はまた動き出していた。

「で、ナディ?僕が猫だったらきみは一緒に暮らしてくれるの?」
「もう一緒のところに住んでるじゃない」
同じアパルトマンの、別の階の部屋に。
「もー、そうじゃなくてさ」
ちょっと駄々をこねるみたいに頬を膨らますベルの幼い素振りに、となりの子供たちは優しく微笑んでいる。どっちが子供なんだか。
ナディはそんな光景に口元が緩んで、やれやれと諦めたように「いいよ」と言った。
「あなたなら、一緒に暮らしてあげる」
「ほんと?」
「うん、ベルだけよ。あなただけ許可してあげる」
そういうとベルは嬉しそうにはにかみ、「やったね」とか言っている。

「だから、もしもあなたが猫で。今の部屋を追い出されたりして行くところに困ったら、」
わたしのところに来てね。

「雨に濡れても風邪引いちゃうしね」
ナディは微笑むけれど、次に思い浮かべたのは今の自分の部屋だった。
先週の蚤の市で買ったオレンジの椅子と何も挟まれていない大きくて重たい銀の額縁が、未だ居場所を確保できずに適当に置いてある。
片付けできるかな。いや、なんでほんとに一緒に暮らすことを考えているんだろうわたし。

となりに聞こえないほどの小さな声でぶつぶつ何かを唱えているナディの横顔を見るベルの目は、溶けかけのボンボンショコラのようで寂しそうだった。
もうすぐふたりで電車を降りて、角のブーランジェリーでクロワッサンとカンパーニュを買って。カンパーニュはお店でいつも半分に切ってもらってふたりで分ける。
その後アパルトマンの隣りにあるカフェでナディは豆を買って帰るのだ。

僕は、本当はねナディ。
その後の言葉は、やっぱり言えなかった。

『僕が本当に居たい場所』

ベルが姿を消してから数日。
この日は貴重な青空で、どこの部屋も小窓を開放しているから花の香の風が通る。
陰影のきれいな決して広くない部屋の、小さな丸いテーブルの脇に置かれたオレンジの椅子。2つに切ってもらったカンパーニュが、テーブルには乗っていた。

「ベル。あなたの分もあるからね」
だからいつでもおいで。一緒に暮らそう。
オレンジブラウンの毛並み、チョコレートのボンボンみたいに丸い目をした猫が出窓の外のグリーンから顔を出したのは、その日の昼のことである。



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MIMU
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