アゴタ・クリストフ『悪童日記』堀茂樹訳、ハヤカワepi文庫
読書家の女性二人と本の話をしていたとき、わたしが「『悪童日記』をまだ読んでないんですけど、読むべき本なんでしょうね」と言うと、二人は「ええ、そうですね」とだけ答えた。答える前に短いほんの一瞬ためらった時間があり、答えるときの表情もどこか曖昧だった記憶がある。その『悪童日記』をやっと読んだ。ちょうど連日ロシアのウクライナ侵攻のニュースを目にしているときだし、ついにこの本を読むのにいい機会だと思ったのだ。
読む前に想像していたのは、「悪童」である子どもが戦火の中をいかに生き抜いたかというリアリズム小説だったが、読んでみるとかなり違っていた。「おばあちゃんの家に到着する」から始まる短い挿話の集まりで、語り手は双子の男の子たちだ。「大きな町」の戦火を逃れて、「小さい町」に住むおばあさんに預けられる。いつも主語は「ぼくら」で、二人は全く同じ個性のようだ。名前さえ出てこない。二人が別の行動をするのは物語の最後だけ。
二人はとても賢く、意志が強く、論理的で、感傷というものがほとんど感じられない。隣の家の女の子とその母が食べ物がなくて困っていると助けるのだが、そこに当然「同情」があるはずなのに、それがあまり感じられないのだ。ユダヤ人の靴屋が貧しい彼らが1足分の長靴を買うお金しかないと言うと、お金を受け取らず長靴2足やほかの履物をくれるのだが、それに対する反応も実に淡々としている。ドライなのだ。自室にいるおばあさんをのぞき見したり、下宿している外国人将校をのぞき見するのも、まったくドライ。性に関する場面を目撃したり、自分たちが体験してもドライ。迎えに来た母が目の前で死んでも、父親が地雷で死んでも、まったくドライ。かといって読者は不快だとは感じない。だが、だからといって「あっぱれな子どもたちだ」とも言えない。どう反応していいか、ちょっと戸惑う。ただ、戦争になってしまうと、いかに子どもたちが苦労するかはよくわかる。
彼らはまた、過酷な状況の中で積極的に自分たちを鍛えようとする。夜は二人で自主的に勉強したり、何があっても動かない訓練をしたり、生き物を殺すことにも慣れようとしたりする。お互いを殴ってみて、自分への暴力に対して強くなろうとする。大人びた話し方もでき、大人と交渉もできる。まったく子どもらしくない子どもになっていくのである。一種、異常な成長物語だ。
こんな小説だとは思わなかった。ユニークな作品なのは確かだし、背後に戦争の理不尽や悲惨さが表現されているのもわかるのだが。でも戸惑ってしまう。たぶん一番戸惑うのは「ぼくら」という双子があまりに一心同体であるところだ。それはまるで、子どもがひとりでは戦争という残酷な経験を生き延びることができないと言われているようだった。
自分が読み終えて、ふと読書家の知人が見せた曖昧なリアクションを思い出す。ああ、あの曖昧さはそういうことだったのかもしれないなと思った。