J. M. クッツェー『ポーランドの人』くぼたのぞみ訳、白水社
だいぶ前に読み終わって、すぐにまた再読した。その後もなんとなく心にひっかかっている。今年読んだ本(あまり多くないが…)の中でも印象的な本だ。
恋愛小説、と言っていいのだと思う。舞台はスペインのバルセロナで、裕福な中年の人妻ベアトリスがボランティアとして活動している音楽の団体で、あるとき招聘したのがポーランドの男性ピアニスト、ヴィトルトである。彼女としては、公演後に彼をディナーに招待して接待するという、いつもの仕事をしただけだったのだが、彼は一方的にひっそりと恋に落ちる。彼女の方ではまさかそんなこととは知らず、その後もヴィトルトの唐突で朴訥なアプローチに戸惑う。このピアニストに彼女自身は少しも惹かれていなかったのだ。だが、なぜか二人は短い間、別荘で休暇を過ごすことになる…。
だが、ベアトリスは夫ともうまくいっており、生活に何の不満もない幸福な妻である。つかの間のポーランド人との交わりも、その後すぐに忘れてしまう。何年もたって、ヴィトルトはポーランドで亡くなり、ある遺品が彼女に残されたと告げられ、取りに行くとそれはポーランド語で書かれた彼女に捧げる恋愛詩集だった。
物語は特にドラマチックな盛り上がりもなく、淡々と進む。二人が遠く離れて暮らしているし、二人とも成熟した大人で、ベアトリスには安定した家庭がある。特にベアトリスにとっては、ポーランド人に激しく恋心をかきたてられることもなかったのだ。それなのに、彼が死んで、残されたポーランド語の詩を英訳してもらって読むようになってから、遅まきながら彼女は心の中で彼に語りかけ始めるのだ。
なんでわたしはこの小説がそんなに気になるのだろう。それを今日までぼんやり考えていたのだけど、今でもよくわからない。
わたしは言語に興味があるので、二人が母語でない英語であまりスムースでないコミュニケーションをする様子が興味深かった。詩や翻訳に興味があるので、最後のポーランド語の詩と、その翻訳を頼まれた人の当惑ぶりも面白かった。けっきょくどんな言語よりも、その言語を器としてそこに込められた人間の思いの方がはるかに強いのだ。そういうことも考えた。でもそれだけではない。
たぶん自分も小説の二人と同じく、もはや若くなくて、どこかで死を意識しているからか。人生のそんな時点で、自分にそれほどまでに心を寄せてくれた人がいたということはベアトリスにとって新鮮な驚きだっただろう。その出来事が持つ意味を彼女も最後になってやっと考え始めるし、読者のわたしも考えてしまうのだ。恋愛小説ではあるけれど、恋愛を超えて、人と人のつながりの意味をごく素直に考えたくなる小説だったのだと思う。
英語が幅を利かせる現状に反抗して、クッツェーは英語で書いたこの小説をそのまま発表する前に、まずカスティーリャ語訳、それからオランダ語訳、カタルーニャ語、ドイツ語、日本語訳を出し、その後やっと英語で出版した。静かなる反骨の男だ。そして、この物語が持つ「外国語」の意味についても考えさせられる。
(うちの古いものシリーズは「ふいご」。買ったのはよく覚えていないがたぶんモロッコだと思う。飾りの模様が美しい。)