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ポール・オースター『幽霊たち』柴田元幸訳、新潮文庫

10年以上ぶりに読むポール・オースター。『幽霊たち』は短い小説だ。若い私立探偵が謎めいた依頼を受け、ある人物を見張って定期的に報告する。でも、依頼の目的はわからないし、その人物の向かいのビルの部屋から観察するものの、彼があまりに動きがないので報告することも特にない。そんなことが長いあいだ延々と続く。

登場人物には私立探偵が「ブルー」、依頼者が「ホワイト」、謎の人物が「ブラック」などの色の名前がついているので、寓話的な話なのだとわかる。何を寓話的に表したものなのか。ブラックはソローの『ウォールデン』を読んでいるし(なので、ブルーも読んでみる)、彼らがいる通りは昔ホイットマンが『草の葉』の活字を組んで印刷した場所らしい。ホーソーンの名も出る。あるとき、物乞いに変装したブルーがブラックと交わす会話の中に、それら作家たちのことを「幽霊たち」と呼んだりするし、この小説の題名も『幽霊たち』なので、たぶん〈書くこと〉についての寓話なのだろう……。

「書くというのは孤独な作業だ。それは生活をおおいつくしてしまう。ある意味で、作家には自分の人生がないともいえる。そこにいるときでも、ほんとうはそこにいないんだ」。

ブルーはブラックを見張る。取り立てて何も事件は起きないのに、見続けなくてはならない。その間にブルーは考える。彼はどういう人物なのか。彼を見ている自分はいったいこの部屋で何をしているのか。初めて自分について考え始めるブルー。

とても寓話的で象徴的な話なのに、面白いのはそこに挟まれる様々なエピソードだ。ブルーはブルックリン橋を建設した親子のこと、雪山で遭難して氷漬けになった父親と対面してしまう息子の話、ロバート・ミッチャムの映画、名もない少年を殺した犯人を追い続ける老警官の話など次々に思い浮かべるが、ベースになっているブルーたちの話が茫漠としているのに、これらのエピソードはとてもカラフルで具体的で、強い印象を残す。人間の人生とその人が見聞きしたエピソードの関係について考えてしまう。それらのエピソードこそがその人の魂のかたちを形成しているように思えてくるのだ。


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