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またひとつ花火が

 東海道線で西に向かう。
 子どもの頃、泊まりがけの海水浴は、いつもこの沿線だった。
 大磯、湯河原、真鶴。
 アメリカで暮らしていた友人夫妻が帰国して、今度は真鶴に暮らすという。ちょうどお祭りで花火があがるからと誘われて、久しぶりに真鶴の駅に降り立った。

 最後に来たのは、たぶん小学校の低学年だった。そう思いながら辺りを眺めてみたものの、駅舎にも駅前のロータリーにも覚えがない。様変わりしたのか、していないのかさえ分からないほど、長い年月が経っていることに、微かにたじろぐ。思い出したのは、まだ年若い祖母がかぶっていたつばの広い帽子が、駅舎を吹き抜ける風に飛ばされそうになったことだけだった。

 迎えに来てくれた友人の車に乗り、半島をぐるりと廻ってもらう。家々の並ぶ急な坂道を上り、上ったと思うと下りていく。小さな半島だから、気づけばもう突端に近づいている。木々の緑が急激に濃さを増し、空気が変わる。鬱蒼と茂る原生林に挟まれた坂道は外灯もなく、仄暗く静まっている。なんだか怖いくらいだね、と夫が言うと、友人夫妻も頷いている。ここは車でしか通らない、歩くのはちょっとね、と笑って言う。

 何かに追われるようにして林の中を通り抜けると、いきなり港だった。海を両手で抱くかのような小さな入り江に、たくさんの船が泊まっている。塗装の剥げた小さな漁船。遊覧船乗り場、船宿、民宿。

 海沿いの道には、ぽつぽつと祭りの屋台が並び、半被を着た男たちや普段着の女子供が、ゆったりとそぞろ歩いている。すれ違うたびに声をかけ合い、言葉を交わすのを見て、ここにいる人々の殆どが顔見知り同士なのだと分かる。わたし達だけが異物のように混ざり込んでいるような気がして、ふいに、どこか見知らぬ国に来たような感覚に包まれる。と、同時に、懐かしさがこみ上げる。

 いつかどこかで見た景色。

 強い既視感に戸惑いながら、車の窓に額をつけて海を眺める。覗きこむようにして道の端を見ると、すぐそこまで海が迫っていた。透きとおった藍色の水が、たっぷりとたゆたっている。

 あのときも、こんなふうに海を覗きこんでいた。泳ぎたかったのに、泳げなかった。飛び込みたかったのに、飛び込めなかった。


 小さな漁港に建つ民宿の前の道端に、わたしは座り込んでいた。足元にたゆたう海はどこまでも透きとおっていて、ひらひらと泳ぐ魚も、砂底に転がる石ころも、全部見える。見えてはいるのだけれど、四年生のわたしの背ではもちろんのこと、大人の男の人でさえ足がつかないほどに深かった。

 西伊豆の海は初めてだった。伊豆半島の西側には電車が通っていないので車がないと行きづらい。だから、祖母と母とわたしの三人で出掛ける海水浴は、東海道線沿線か伊豆急行の走る東伊豆の海ばかりだった。男手のない我が家には免許を持つ者がいなかったのだ。でもその年は、母の姉である伯母が、車で出かけるから一緒に行こう、と誘ってくれたのだった。

 わたしが四歳まで暮らしていた家と、伯母達の住む家は、歩いて十分ほどの距離だった。三つ年上の従兄とわたしは共にひとりっ子だったせいか、まるで兄妹のようにいつも一緒に遊んでいた。病弱で人見知りだったわたしは、従兄がいないと外に出かけられなかったし、従兄は自分の友だちの家にもわたしを連れていき、面倒くさがらずに仲間に入れてくれていた。母とわたしが世田谷に移り住み、それぞれが学校に通うようになると、幼い頃のように頻繁に会うことはなくなったけれど、それでも春休みや夏休みには従兄の家に泊まりがけで遊びに行った。

 伯父はさほど口数の多い人ではなかったが、会えば目尻に皺を寄せてゆったり笑い、大きな手のひらでわたしの頭をごしごし撫でてくれた。ちょうど働き盛りで仕事も忙しく、毎晩帰りも遅かったが、その夏は珍しく休暇が取れることになり、少し足を伸ばして西伊豆に行くことにしたという。
 伯母夫婦と従兄と、母とわたし。伯父の運転する大きなセダンに乗りこんで、着いたところは小さな入り江の海だった。

 両腕で海を抱くかのような入り江には、小さな漁港と砂浜の海水浴場が並んでいた。海沿いの道に建つ宿はほとんどが船宿か民宿だった。わたし達が泊まったのも漁港の外れにある民宿で、襖で仕切っただけの畳敷きの部屋がいくつかあるような普通の家だった。高校生の息子が二人いて、従兄はすぐに仲良くなった。午後になると、彼らは目の前の海で泳ぎはじめた。道端からざぶんと飛び込んで、アメンボウのようにすいすいと水面を進んでいく。それを見た従兄はたまらずに、水中眼鏡をぴたりとつけて、足からじゃぼんと飛び込んでいった。

 中学に入って一段と背が伸びた従兄は、ひょろひょろと痩せてはいたけれどスポーツ万能で、中でもスキーと水泳が得意だったから、伯母も母も笑ってみていた。が、まだ浮き輪を手放せないわたしは、その仲間に入れなかった。

 波のない澄み切った海はまるで天然のプールのように見えるけれど、入り江の先は大海原に繋がっていて、潮の流れが早くて強い。安全なのは砂浜のある海水浴場だけ。

 大人達に言われるまでもなく、臆病なわたしは黙って道端にしゃがみこみ、従兄達が泳ぐさまをじっと見ていた。傍らに立つ母に、暑いから部屋に戻ろうと促されても首を横に振り、海の中を覗いていた。なんてきれいな海なんだろう。この海で、あの魚のように泳げたらどんなに良いだろう。そう思いながら、ひとり道端に座っていた。

 背中から、高校野球のサイレンが聞こえてきて振り向くと、民宿の開け放たれた窓の中は薄暗く、母と伯母の姿は見えなかった。ちらちらと瞬くテレビの前に、肘枕をして横たわる伯父の姿が、薄ぼんやりとした影絵のように浮かんでいた。

 夜になると、伯父は背の低いグラスに氷をふたつみっつ入れてウィスキーを注ぎ、水で薄めて飲みはじめた。晩ご飯が終わったあとも、テレビを見ながらちびちびと飲んでいた。つまみは、家から持ってきていたコンビーフだった。フォークで崩したそれを、バターサブレにのせて食べる。物珍しくてじっと見ていると、伯父が「食べるか」とわたしに訊いた。頷いて、差しだされたそれを、そっと囓った。仄かに甘いバターサブレとコンビーフの塩気が口の中で入り混じり、なんともいえずに美味しかった。僕も、とねだる従兄の横で、少しずつ囓って大事に食べた。

 伯母と母が尽きることのないお喋りをする横で、伯父は新聞や本を読んだり、寝ころんでテレビを見たりするばかりで、あまり口を開かなかった。それでも、そこに伯父がいるだけで、なんだか安心な気持ちがした。父親とはそういうものなのか、と、妙に納得するような思いで、その大きな背中を眺めていた。ウィスキーを水で薄めたものを水割りと呼ぶことも、ご飯のおかずでもなくおやつでもない大人の食べ物があるということも、わたしはその時初めて知ったのだった。

 道端に座り込んで、深い海を覗きこんでいたその翌日、わたしは浮き輪を持たずに海に行った。海水浴場の浅瀬にうつぶせで浮かび、従兄の手を頼りにバシャバシャと水を蹴る。二日目は少しだけ手を離し、教わった通りに夢中で手足を動かした。三日目には、数メートル先に立った従兄目がけて、息を止めたまま、がむしゃらに水の中を進んでいった。射しこむ夏の光が、澄んだ海の中を明るく照らし、その先に、伸ばした従兄の手が陽炎のように揺れている。その手をつかんでぐいと引き寄せ、息を吐き出しながら立ち上がると、従兄が大きな声で笑っていった。ゴール!

 声変わりのはじまった、少し掠れたその声は今も耳の奥に残っている。目尻に皺を寄せて笑う伯父の顔も、バターサブレとコンビーフの味も、はっきりと覚えている。が、その従兄も伯父も、もういない。

 わたしが中学二年のとき、伯父は仕事帰りに事故に遭って亡くなった。乗っていたタクシーの運転手の無理な追い越しによるものだった。その翌年、スキー場で従兄が死んだ。すでに一級の資格を持っていた従兄は、ゲレンデの谷間に倒れている女性を見つけ、すぐさま助けに行ったらしい。が、そこにはボーリング工事で噴きだした有毒ガスが溜まっていて、滑り降りたとたんに倒れた従兄は、そのまま帰らぬ人となったのだった。

 最後に真鶴に来たのは、祖母と母と三人だったはずなのに、思い出したのはあの海のことだった。まだ年若い伯父と、屈託なく笑う少年だった従兄と過ごした、あの夏休みのことだった。

 そういえば、祖母と来たときは高台に建つ観光ホテルに泊まったから、この港には来なかった。ホテルには小さなプールがついていて、わたしは海にも行かず、日がな一日その冷たい水に浸かっていた。プールからあがると、海から吹きあげてくる潮風が冷たくて、がちがちと歯が鳴った。震えるわたしのからだを祖母がバスタオルで包み込み、笑いながらごしごしと擦ってくれた。その祖母も、もういない。

 いなくなってしまった人のことばかり思い出すのは、なぜだろう。
 車の窓に額をつけるようにして海を眺めながら、そう思う。既視感に包まれたまま、港をそぞろ歩く人々を眺める。海沿いの道を左に折れて、提灯が並ぶ商店街の坂道をあがっていくとき、夫が、なんだか不思議な町だね、とぽつりと言った。ここは他のどことも違う、と。その言葉が、すとんと胸の中に落ちて、わたしは深く頷いた。


 友人夫妻の新居は半島のてっぺん近くに建っていて、眼下に海を一望できる気持ちの良い家だった。広いテラスでシャンパンを開け、ひとしきりお喋りに花を咲かせたあと、近くのレストランへと場所を移した。

 大きな窓ガラスに向かって設えられた席に座ると、眼下にちょうど入り江が見える。色とりどりに飾り立てられた漁船が二艘、港の端に浮かんでいる。

 祭りは、あの船に御輿を乗せて運んでくることから始まるという。対岸にある神社から運んできた御輿は、翌日、丸一日かけて半島を練り歩き、日暮れてから又船に乗って神社に戻る。今日はその二日目だった。

 日暮れて、海と空の堺が溶けあう頃、二艘の船が動きはじめた。ゆっくりと、対岸の神社に向かっていく。入り江が夜に包まれていくにつれ、いくつもの提灯を灯した船が、燃えるように赤々と浮かびあがっていく。通りの縁に並ぶ人々の姿が、小さく、ぼんやりと、幻灯のように見えている。

 と、ぽーんと、花火があがった。ちょうど目の前に、大小の花が開いては消えていく。見あげるのではなく、視線の先で弾ける花火。ガラス越しに聞こえる、くぐもった音。眼下に目を向けると、相変わらず港は赤い灯に照らされて、船も人々も動きを止めたまま、一枚の絵のようにそこにある。

 ガラス越しに眺める花火や祭りの風景は、どこか現実感がなくて、なんだか不思議な感覚だった。港は人々の歓声や笑い声に包まれているはずなのに、その賑わいは聞こえてこない。まるで、ここではないどこかで行なわれている祭りを、遠巻きに見ているようで、なんだかもどかしい。

 ふいにわたしは、あの港に行ってみたいと強く思った。あの人垣の中に混ざって、赤く燃える船を間近に見たいと思った。花火を見あげる人々の中に、知っている顔があるように思えた。向う岸に帰って行く船に、伯父や従兄や祖母が乗っているような気がした。

 くぐもった音と共に、またひとつ花火が、ぽーんと、あがった。








 
 

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