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怒りが素の自分に近づけてくれる。怒ることの大切さ


最近、怒ることの大切さについて悶々もんもんと考えている。

  

私は怒るのが下手くそだ。自分の怒りに振り回されて他人の怒りに振り回されて、仕事でトラブルが起こったのを機に仕事を辞めて、今自分と向き合っている最中である。人生の夏休みを満喫中、ニート真っ最中である。

  

しかし、私も上手に怒れていた時があった。上手なのかは他人が決めることなので実際には分からないが、手応えを感じた時があった。

  

怒りには二つのパターンがあるように思う。良い怒りと悪い怒りだ。

  

良い怒りは心身の健康を保つ効果があり、悪い逆に心身を蝕む。


メンタルを整える系の自己啓発本を読むと、「自分軸」という言葉がよく出てくる。

この言葉を借りると、良い怒りは自分軸で怒れている時で、悪い怒りは他人軸で怒ってしまった時だ。

  

しかしこれではに落ちない。自分軸で怒るというのがどのような状態を指すのかをもっと具体的にしたい。

自分軸で怒るを深掘りしてみた。


  

良い怒りと悪い怒り

  

良い怒りと悪い怒りがどのような状態かを考えた。

良い怒り
上手くストレスを発散して心身を健康にする怒り。自分の怒りを理解し、適切に表現できている

悪い怒り
自分の本当の気持ちを表現できずにいる状態。溜め込んだ怒りを処理できず、時に思い通りに動かない相手へぶつけてしまう

上記が私が考えた怒りの定義だ。

  

心身の健康のために、怒る

  

長年、私は自分の怒りを我慢するのがクセになっていた。クセになり、習慣になり、無意識で行っており、我慢していることにすら気がついていなかった。

  

社会人になって数年経過したある日、「嫌われる勇気」という本を読んだ。アドラー心理学の「課題の分離」という考え方にとても共感した。

それまでは他人の要求や期待を先読みして、それに応えるように動くのがクセになってしまっていた。両親や兄弟との関係から、無意識にそうしてしまっていたのである。

  

他人に振り回されず、自分の意思で行動したい。

  

そう思った私はこの時から怒りを表現する練習を開始した。「怒り」という言葉を使っているが、要するに自分の気持ちを言葉や行動で表現するということである。

  

・自転車走行中にスマホのながら歩きをしてる人が道のど真ん中を歩いて道を塞いでいたら、自転車のベルを大きめに鳴らす(今までの私は自転車のベルを鳴らすのを遠慮して、歩行人に合わせて走行していた)

・集中して仕事している時に話しかけられたら、急ぎの要件でなければ少し待ってもらうよう伝える。

・ミーティングで毎回必ず発言をする。皆と反対意見になってしまっても堂々と意見する。

・やたら噛みついてくる人にあえて一瞬だけキレてみる。

・違うと思ったことは医者だろうが看護師だろうが役職者だろうが「違うと思う」とはっきり伝える。納得いくまでとことん話し合う(医療事務員として働いていました)

  

上記のようなことを実践した。そして相手がどう反応しようが、それは相手のものと割り切るよう努めた。最初は戸惑いが多かったが、少しずつ自分が自由になっていく感覚を獲得できた。

これが私の「良い怒り」の最初の成功体験だった。自分の怒りを表出しても思ったほど嫌われない。このマインドがあれば仕事でストレスを溜めることはほとんどないに違いない。そんなふうに思えた。

  

怒りを理解する

  

しかし世間はそれほど甘くはなかった。怒りを手の内に入れたと思っていた私だったが、ある言葉がきっかけで元の状態よりなお悪くなってしまう。

きっかけはとある男性の同僚に「君は口が悪い」と言われたことであった。

  

そうか、私は口が悪いのかと素直に受け取った。だが具体的にどこが悪いのかが分からない。確かに「課題の分離」では相手がどう受け取ろうとそれは相手の課題で、そこに執着しても意味はないことは学んだ。でもだからと言って、相手を傷つける発言をしていいというわけではない。どこがダメなんだろう。あこかな、ここかな?

言葉の受け取り方は男性、女性で結構違ったりする。屈強で強そうな男性こそ、意外とガラス細工より繊細なハートを持っていたりする。「君は口が悪い」と言った彼はまさにそんなタイプではないか。

  

そんなことをぐるぐる考え、仕事の忙しさに追われるうちに少しずつ自分を見失っていった。

  

元々は他人に合わせて行動することがクセになってしまっているため、気を抜くとすぐデフォルトに戻ってしまう。気づけば他人の顔色ばかりをうかがう、他人軸な私にすっかり戻ってしまった。

  

人は他人から発せられるエネルギーレベルを常に察知しているのか、エネルギーレベルが落ちるとある種の人々が寄ってくる。いじめっ子などがいい例かもしれない。

そのような人々からは距離を置くのが理想的だが、こちらが距離をおいても追いかけてくるのである。しかも私の顔を見ると目を輝かせ、遠くからでも嬉々として追いかけてくるので非常に困った。

  

仕事から離れ、自分と向き合い考えた。自分はなぜ又も深みにハマってしまったのか。

  

怒りは二次感情と言われるが、自分は本当は何を感じていたのか。

なぜ泣いてしまったのか。なぜイラっとしたのか。なぜもやもやしたのか。

  

そしてたどり着いたのは家族との関係で感じた感情だった。きっとここだろうなとは思っていたけど、本気で向き合ったのは初めてであった。

  

父は仕事へ、母は宗教へ意識が向かい、中学の時から弟ともほぼ別行動となったため話すこともあまりなかった。父の期待と母の期待は全く別のものであったが、それぞれの期待に応えようとした。

もっと私に興味を持って欲しい。もっとちゃんと見てほしい、私が興味を持っていることに一緒に興味関心を寄せてほしい。

  

私を無視するな!

  

これが私の怒りの種であった。言葉に落とし込んだのはこれが初めてである。

雑に扱われたり、返事がなかったりすると、未発散の私の「無視するな!」という感情が再燃するのだ。

  

ああ、理解するのはこういうことなのかと思えるようになった。

  

怒ることで素の自分に近づける

  

怒りを表現する技術を学んだ私だったが、自分の怒りを理解するという部分が決定的に欠けていたようだった。

自分の怒りの根源が悲しみなのか、寂しさなのか、虚しさなのか、調べる必要があった。

  

感情は感じ切らないと抜けられないとよく言われる。じゃあ感じ切るとはどういうことか?どうなったら感じ切ったことになるのか。ここで終わりという合図があればいいが、合図はない。

紙に感じたことを書きまくった。ノート何冊分にもなった。携帯のメモにも書いて文章にした。時に罪悪感を感じつつ、人にもぶつけた。でもすっきりしない。

  

自分の怒りを深く理解した上で何かしらの方法で表現することが、自分の為にも相手の為にも必要なのではないかと思う。

自分の怒りを理解する力、そしてそれを表現する技術を身に着けた時、怒りを手の内に入れられるのだ。

  

感じた怒りを人にぶつけるのは良くないので、ノートなどに表現することを薦められることが多いが、私はできれば怒りを感じさせたその人に向かって直接表現したい。

もちろん、ノートに落とし込むのもセットだ。感情を言語化しなければ理解にまで至らないからだ。

  

哲学者である中島義道氏の「怒る技術」という本の中で下記のような記述があった。

 中学三年生のときの女の担任の先生は怒る技術をそなえていた。日ごろは温厚そのもので、悪童たちにも「××ちゃん、どうしたの?」とやさしく声をかけて、こぼれそうな笑みをたたえて生徒に接している。しかし、いったん怒ったらすさまじい。さっきまでの顔はお面を剝いだように別の恐ろしい形相に変わり、語調も強く「△△、立て! なんで宿題忘れた!」と教室中にとどろく声で怒鳴り、ある生徒などぴょんと椅子から飛び上がるほどでした。

 そして休み時間になると、またにこにこ廊下を歩いている。その変化率の大きさによって、屈強な男子生徒たちに対しても威圧的ともいえる支配力を保持し、だからこそ彼らにナメられることなく、むしろ慕われていました。

出典:怒る技術 中島義道著

  

これだ!と私は思った。まだまだ修行中の身であるが、なんとなく分かるものがある。相手に対してコントロールされた適切な怒りを表現できたとき、ある不思議な現象が起きるのだ。

  

相手を好きになるということである。こちらから、無条件に相手を好きになれるのだ。

  

鼻につくような嫌味な言葉を発してくる相手に対しても、自分の怒りを適切に表現できたときは不思議と好きになれるのである。しかも、互いに得た共通体験によりある種の絆までできるような気がする。繋がりが切れることはない。相手との適切な距離感も把握することができる。


手の内に入れた怒りを表現できたとき、それが嘘偽りのない素の自分であるからではないかと思う。

  

特に私のような、デフォルトが他人の期待に応えるモードで動いている人は意識して習得すべき技術かもしれない。正しい怒りが素の自分を作り、素の自分で相手にぶつかることは「誠実さ」とイコールであると思う。

  

怒らないと他人に対して誠実になれないのだ。

  

であるからして、「君は口が悪い」と教えてくれた同僚には感謝している。感謝しつつ、これからも怒りの技術を磨くべく、ガラスのハートを持つ男子にも届くような表現を探していきたいと思う。



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