ゴトーを待ちながら
去年の6月、異国の地から一時帰国を果たした元同居人と再開した。
彼が東京を去るその日、僕らは吉祥寺にいた。やけに人が多かった。今生の別とは言わないまでも、変な感傷があった。
それから一年と数ヶ月、今度は数駅隣の高円寺で顔を合わせた。一緒に住んでいた場所は西武線の沿線だったのに、物事の節目は中央線で迎えている。
戯曲『ゴドーを待ちながら』はサミュエル・ベケットによって1940年代に書かれた不条理劇だ。
一本の木の下で2人の男が「ゴドー」を待つ。ただそれだけの物語だ。
実際に観劇をした事がないために詳しいことは書けないのだが、あらすじを読むとどうやら「何も起こらない」らしい。
2人の男が暇を持て余してあれこれとする様が劇になっているそうだ。
休日の高円寺の駅は人が多かった。夏の始まりを予感させる天気で、僕は蒸した暑さの中改札の前に立っていた。
てっきり彼は改札から出てくるものだと思っていたから、急に後ろから肩を叩かれて驚き、大きな声を出してしまった。
久しぶりの再会はマスクごしで、互いに少し歳をとった顔を見せ合うのは駅前の喫煙所まで待たなくてはいけなかった。
戯曲の中に「ゴドーは今日は来れないそうです」という台詞があるらしい。
2人は落胆するが、それでも待ち続ける。その理由は観客には分からない。
今日観た映画『ドライブマイカー』にはこの『ゴドーを待ちながら』が劇中劇として登場していた。
それが何を意味しているのか、自分には良く分からない。「不条理劇」と呼ばれるこの劇のように、映画もまた不条理であると言いたいのだろうか。
「まるで昨日のように思い出す」という表現は大げさに聞こえるが、実際にそうだったのだから仕方がない。久しぶりの再会のくせに、まるで一緒に住んでいた時のように楽しい時間が続く。
高円寺で別れてから数日後には御茶ノ水でまた会った。不思議とこれも中央線だ。
そこからしばらく歩いて、神保町、神田と渡り東京駅にまで行った。
すっかり日の落ちた日比谷公園で少し話した。
「また帰らなくちゃいけない。でも数年後には日本に戻ってくる」
僕らは、「それまではお互い自分を高め合って、次に会う時には胸を張っていられるようにしよう」と合意をした。
そんな彼の名は「後藤」。
日比谷公園の木の下か、高円寺の喫煙所の木の下か、はたまた井の頭公園の木の下か。
劇の中で「ゴドー」は結局姿を現さないらしい。
果たして、「ゴトー」はどうだろう。