臨時列車に揺られて
山手線が運休していて、仕方なくいつもとは違う電車を探した。電光掲示板には「臨時」の文字が写されていて、乗り慣れない色の列車に乗り込んだ。
すっかり日も暮れた遅い時間の車内は少し混んでいて、急に冷え込んだここ最近の陽気をやわらげるくらいには人がいた。
臨時列車に使用されていたのはボックスシートだった。向かい合わせで4人掛けの、窓際に座った。
普段よく見る横長のシートは、一つおきに席が埋まるが、ボックスシートでは斜めに席が埋まる。横並びとは違った、不思議な距離感が知らない乗客との間に生まれる。
なんだか懐かしいような、新しいような気持ちになった。まるで旅にでも出るかのような、一種の高揚感のようなものすらあった。
席が変わるだけで心境がこんなにも変化してしまうとは、つくづく単純な生き物だな、と心の中で笑った。
思えば、このシートに座るときはいつも、旅に出るときだった。
青春18きっぷを使って、西へ向かう列車も、このボックスシートだったのだ。
このシートで、しりとりをしたり、トランプをしたり、馬鹿話をしたり。友人との距離としてはこれ以上ないというほど心地よいこのシートが、好きなのだ。
そういえば、学校の行事で登山に行く時も、こんなシートだった。東京の西を走るその私鉄は、山に向かって進む。登りたくないという気持ちとともに、なんだか旅に出た気分で、今思えば嫌いではなかった。
他にも、思い出されるのは帰りの道のりであったりする。
どこかに行くということは、帰ることがセットになっている。
そして、旅の最後の記憶というのは決まって、このシートだったりする。
都内のターミナル駅に着くまでの、旅の終わりの時間。まるで短いアディショナルタイムのような、いつ終わりを迎えるか分からないまま、旅の記憶を振り返る時間。
電車を降りてから曖昧に別れるまでの、その直前の、まだギリギリ旅が終わっていないような、そんな時間が、4人掛けのシートの上で揺れる。
山の帰りのボックスシートも、悪くなかった。疲れ果てて、汚れた体のまま寝穢くシートに沈む。登り切ったという安堵と、気力も体力も使い切ったボロボロの自分を、大きなシートは優しく包んでくれた。
車窓からの景色が段々と自分の知っている場所に近づき、寝ぼけたまま電車を降りる。
「家に帰るまでが遠足です」とは言われるものの、その時点でもう旅は終わる。
なんでもない秋の日のなんでもない帰り道も、きっと誰かにとってはなんでもない列車のおかげで、少し彩度が上がる。
急激に下がった気温がまた日々を加速させるようでいて、明日のこと、明後日のこと、先の事ばかり考えさせられていた。
たまにはゆっくりと車窓からの景色でも眺めようか。
こんな日も悪くはない。