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春になると、私は一度死ぬ

 桜の名所に行ったその日、空は鉛色をしていた。人混みを避けるように歩き、足は棒のように疲弊している。私たちカップルはふらふらと吸い寄せられるように、たまたま目についたマンションの展示会へと足を運ぶ。

 そのマンションで販売している物件は、モデルハウス。エアコンと照明が全ての部屋についている、お得な物件である。

 その日にマンションを買う予定はなかったのに、「残り一件」「他にも購入を希望している人がいる」と営業マンに唆され、私たちは勢いでマンションを購入してしまった。

 価格は2,490万円。手数料込みで、おおよそ2,700万円。不動産なんて、思いつきと勢いで購入するものではない。

 けれど、私たちは買ってしまった。出会ってしまったのだ。

 ちょうどその頃、私たちは半年後に結婚を控えていた。どうやら私は、「不動産を勢いで買った」という理由で、夫の周囲から結婚詐欺師と疑われていたらしい。その事実を聞かされるなり、私の心にぽっかりと穴が開く。頭金、私だって出したのに。

 春になると、私は一度死ぬ。重度の花粉症のため、桜を見ても綺麗云々の前に鼻がさっぱり機能しないのだ。

 正直こちらからすれば、桜どころではない。そもそも桜を見るより、ティッシュで鼻を噛んだら花一匁。むしろ花より鼻だし、団子よりもティッシュが欲しいのである。

 そんな時に限って、バッグの中にティッシュが無い。ティッシュくらい、女の嗜みとして用意すべきではないだろうか。

 忘れるといつも、人目を盗んでフェイラーのタオルハンカチでそっと鼻元を隠す。不幸中の幸いともいうべきか、フェイラーのハンカチは色が鮮やかで柄も派手なので、鼻水の隠れ蓑としてちょうどいい。それにタオルハンカチは所詮、汚れても洗濯すればいいのだ。

 フェイラーの問題といえば、一枚あたりの値段が高いことである。限定デザインであれば、その時しか購入できない。そんな貴重なタオルハンカチで、鼻水をふく。鼻セレブ使うより、もしかしたら私はなかなかのセレブなのではないだろうか。

 そんなセレブ自慢をしたところで、所詮は庶民。本音を言うと、フェイラーのタオルハンカチで鼻を拭くことを、正直躊躇っている。鼻水はやっぱり、使い捨てのティッシュで拭きたい。

 そんな時、街角でポケットティッシュを配るお姉さんが、いつもより美人に感じる。無言で渡されるティッシュをサッと受け取り、人混みを避けてそっとチーンと鼻を噛む。この瞬間、たまらなく最高である。

 昨年の春、我が家の娘は保育園へ入学した。これから娘を預けて、仕事に集中できるはず。そう思ったのも束の間の話で、娘は保育園の洗礼=ウイルスをもらってきた。

 RSウイルス、溶連菌、手足口病、インフルエンザ。2024年はたくさんの菌を受け取り、その都度娘が高熱を出す日々が続く。

 実際に娘がウイルスをもらうまでは、正直ウイルス性疾患なんてインフルエンザ位しか知らなかったのに。

 世の中には、こんなにも多くのウイルス性疾患があると知って驚いた。溶連菌に至っては、総合病院で1週間入院する羽目に。

 点滴の管を通された娘は、ぐるぐるに巻かれた包帯で思うように身動きが取れずじまい。親も側にいなければならず、私は娘と共に4泊5日の入院生活を余儀なくされた。

 手足を左右にバタバタと動かし、思い通りにならない体に苛立ちを募らせる娘。私も正直、ウイルスを患った娘と、どのように接すればいいのかわからない。

 娘に話しかけても、泣くか寝るかどちらか。そもそも娘が入院した時の過ごし方など考えたこともないので、どう過ごしていいのかさえわからない。悪戯に時間が過ぎるのを、ただ待つばかりだった。

 疲れ果ててぐっすり眠る娘を見届け、「さあ寝よう」とソファーに寝そべるものの、あまりの硬さになかなか眠れず。ぐっすり眠れない日々に、訳もなく気力、体力も消耗していく。

 保育園へ預けることは、はたして正解なのか。ウイルスをもらっては頻繁に高熱を出しているにもかかわらず、娘は保育園で友達に囲まれていつも嬉しそうだ。

 なんでも娘は保育園で人気があり、「○○ちゃん(娘)と遊びたいという子が多くて、いつも予約待ちなんですよぉ」とのこと。

 どうやら保育園に通わせて正解か否かは、親の話が決める問題ではなさそうだ。4才の娘はまだ話せないものの、友達には恵まれているらしい。地獄と希望は、もしかすると隣り合わせなのかもしれない。

 毎年、桜の時期を夫婦で楽しめたらいいなと思い、結婚前に桜の美しいエリアにあるマンションを購入した。けれどいざ購入してみると、車の渋滞を億劫に感じるようになり、わざわざ桜を見に行くこともなくなった。

 花見の時期が過ぎるたびに、一体何のために桜並木のエリアにマンションを購入したのかについて自問自答する日々が続く。

 桜の季節になると、街には幸せそうなカップルと家族で溢れかえっている。昔は妊活が上手く進まなかったので、家族の集う花見が苦手だった。

 かといって、娘が生まれた今なら大丈夫かと言えば、そうでもなく。むしろ「そういえば、自分は花粉症だった」ということに気づき、今更ながら鼻をムズムズさせている。花粉症だからという理由で、何の罪もない桜に対して、嫌悪感を抱くこともしばしば。桜、すまない。君は何も悪くないから。

 美しい桜は数週間であっという間に散る。まるで、せわしない蝉の生涯みたいだ。蝉はまだ土の中で過ごす時間が長いけれど、桜の命は本当に短い。

 あんなに綺麗で人を魅了する癖に、なにをそんなに生き急いでいるのか。美しく咲き誇る桜を見るたびに、散る姿を想像して居た堪れなくなる。川に流れる無数の花びらは、勢いよく流れていく。あの花びらは、どこへ行くのだろうか。

 桜の季節になると、私は確かに一度死ぬ。重度の花粉症だし、家のローンだってあと20年残っているし。おまけに、娘はウイルスを保育園でもらってくる始末。

 けれど、流れゆく花びらを見ると、不思議と「また、ここからスタートだ」と思う。その死は終焉ではなく、きっと「再生」を意味するはずなのだと。

 今年の春もきっと、川に流れる花びらを無心で眺め続けることだろう。小さな娘の手を、そっと握りながら。

【完】


※こちらの作品は、第2回灯火杯にエントリーしています。

 テーマは春、書く人へエールを送るものということで「絶望と死の後に来る『再生=希望』」を表現しました。若干 #なんのはなしですか  感があります。

 今回のコンテストは、本田すのうさんも特別審査員を担当されるということで、より盛り上がりそうです。

 気になる方は、ぜひ参加してみてくださいね。

#第2回灯火杯

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