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教養とは、想定外の出来事に適切に対処する力である


「教養とは、想定外の出来事に適切に対処する力である」

これは佐藤優さんの『人をつくる読書術』という本のまえがき部分にさらりと出てくる言葉です。私としては、この主題で佐藤氏には思いっきりぶっとい本を書いてもらいたいくらいなのです。あいにくこの本はそれが主題ではありませんでした。それは単に私のわがままです。
本書は、読書を見つめ直す上でおすすめの一冊です。

私にとってこの言葉が初めて腑に落ちた教養の定義なのですが、どうしてだろうと、どうしてこんなに衝撃を受けたのだろうかと考えてみました。

それは、おそらく私が持っている教養のある人への偏見なのかもしれません。教養のある人は、教養というものを一つのお手本として考えているところがあるように私には思えます。

大学生としての教養
大人としての教養
社会人としての教養
ビジネスパーソンとしての教養
女性としての教養

ちなみに私にはどれもありません。

そんな私に、佐藤氏の言葉は斬新に響きました。

「教養とは、想定外の出来事に適切に対処する力である」

直感的になのですが、大学生としての教養、大人としての教養、社会人としての教養、ビジネスパーソンとしての教養、女性としての教養…

これらは全部が全部とは言いませんけど、想定外の出来事に適切に対処する力となりえないのではないか。と感じます。

だって、教養のある人に限って、私が想定外のことをしたとき適切に対処してくれません(爆)。

 暗黙の規範、自分たちが遵守すべきルールを破ったということに対する制裁なのでしょうか。じっさい教養ある人から眉をひそめたり、無口になったり、怒鳴ったという制裁が発動されそうなので、私のような教養とは無縁の無手勝流人間は、教養サークルに入れません。

これが「身につけておくべき」とか「身につけておきたい」という定言命法と一緒になると、なおいっそう私が恐れおののく理由となるのかな、と思いました。

身につける…そんな根性ありません。

ベートーヴェンからブラームスは生まれない

私の悪いくせで話が飛ぶのですが、人工知能の議論というのがいまいち根本のところで分かりません。私にとって人工知能とは、想定【内】の出来事に適切に対処するエキスパートとしか思えないからです。

何か想定外の事態が起きて、行動の枠組みそのものの前提が壊れてしまった場合、人工知能は驚くほど無力です。これを人工知能研究ではフレーム問題といいますが、人工知能研究が誕生してからすぐに、人工知能の決定的限界として指摘されました。

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要するに、ベートーヴェンの楽曲のクセをありったけ計算機に叩き込んだとしても、ベートーヴェンらしい(専門家でもベートーヴェンの未発表楽譜であると間違うような)楽譜を生成することはできますが、ベートーヴェンと必死で格闘したブラームスの交響曲はコンピュータには作り出せないわけです。

昨今、もう作曲はAIがすべてやる、というような頓珍漢な議論を目にする機会が増えました。たしかにそれは初音ミク風のとか、ゲームサウンド風のという前提の、つまり想定内の世界では成立するでしょう。

プラトンを一生懸命計算機に入れたら、プラトンっぽい哲学書をアウトプットすることは、AIの技術進歩のスピードを考えれば、すぐにでもできちゃいそうです。

でもそれはプラトンとは似ても似つかない醜悪なものでしょう。


みんな教養がう好きな人って、みんな同じようなこと言ってる。

私が教養サークルに入っていけない理由はここにあります。

それにしても、そもそも教養をもたなくてはいけないのか。
教養ある人、だれか聞いてみたい。

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