ZapiskiIzPodpol'ya_1_3
ドストエフスキーの『Записки из подполья』の第1部3節 第2〜4パラグラフ(翻訳の文庫本で見開き約1.3頁分くらいの量)を訳してみます。本題に入る前に、まず1点タイトルの訳について補足しておきます。私が読んだ新潮文庫版(江川卓 訳)だと『地下室の手記』となっていますが、今回手本訳に用いる米川正夫訳だと『地下生活者の手記』となっており若干翻訳にゆらぎがあります。本書に登場する「地下室人」はドストエフスキーを論じる文章でもよく登場しますが、出てくるたびに「あーね、地下室人ね」などと思いながら読んでしまうわけで、出典の注で翻訳のタイトルはいちいち確認してきませんでした。そのため、このゆらぎの存在は、実は今回訳してみるまでほとんど意識の彼方にありました。だいたい、私がこれまでよく読んできた本の多くは、『純理』だの『弁明』だの、既にタイトルの定訳があるものばかりで(いや、本当はゆらいでいるのかもしれないけれど、訳を比べるほど読んでいないのです、あ、いやもちろん『ツァラトゥストラ』とか『二年間の休暇(十五少年漂流記)』とかの有名なゆらぎの存在は認識していますよ)、本書のことを思い出すときには「ほら、地下室人のあれだよ」と言って、正確に思い出そうとせずごまかしてきました。そういうわけで一旦、本書『Записки из подполья』の直訳を確認しておきます。запискиは女性名詞запискаの複数主格で「書き付け、記録、報告」などの意、изは生格支配の前置詞で「〜より、の中から(内部からの移動、由来)」を表す、подпольяは中性名詞подпольеの単数生格で「地下室、穴蔵」などの意です。よって直訳としては「地下室からの報告」とでもなるでしょうか。通称としては「ザピスキ」と呼んでしまうと『死の家の記録(Записки из мёртвого дома)』と区別がつかなくなるので、まあ「パドポーリャ」とでも頭の中で変換しておけば、いくつかの訳にも対応できそうです。
では、以下に今回原文を参照したサイト並びに朗読動画のURLを貼っておきます。動画の方は、26分20秒あたりからが今回訳した箇所になります。
手本訳は先述のとおり、青空文庫にある米川訳とします。時々、新潮文庫の江川訳を持ってくるかもしれません。余談ですが、それに「素人が何を偉そうに」と言われそうですが、米川訳は岩波の『カラ兄』で読んで以来、全面的に信頼しています。あれは面白かった! やや古風で硬めの言い回しが、ドストエフスキーの世界観によくマッチしています(19世紀ロシア文学はこうでなくちゃ)。『罪と罰』(岩波文庫 江川訳)は、『カラ兄』を読む前に読んでしまっていたのですが、五大長編の残り(『悪霊』、『白痴』、『未成年』)は米川訳を選んで、手元に揃えています。『悪霊』は読了までもう少し、あと2冊は積読という状態です。(ちなみに、訳者で選んだとは言っても、『悪霊』、『白痴』は岩波文庫で手に入れやすかったから選んだという側面が大きいです。『白痴』は新刊でいまだ書店に置いてあるのでいうまでもなく。『悪霊』は、確か昨年時点では絶版していたのでアマゾンの中古で買いましたが、この間書店に行くと、復刊していました(ちくしょう、状態が良いのを買おうと思って定価よりも少し高めのものを買ってしまったではないか)。『未成年』は近所の古本屋で河出書房の全集の1冊が数百円で出ていたのを、訳者を見て「ラッキー!」と思って買った次第です。)
かなり前置きが長くなりましたが、以下本題です。
продолжаю:continue
спокойно:calmly
крепкими:strong
нервами:nerves
понимающих 造:understanding
известной 生:famous
утонченности f生:sophistication
наслаждений n生:pleasure
господа m生:gentlemen
при(+前):when, with, if
иных:other
казусах m複前:incidents、特殊事件
например:for example
ревут 三複:roar
быки m複主:bulls
горло:throat
положим:suppose
приносит 三単?:bring
величайшую:greatest
честь:honor
невозможностью f造:impossible
тотчас:at once
смиряются:resign
значит:so, then
каменная:stone
стена:wall
разумеется:of course
законы:law
природы:nature
выводы:conclusion
естественных:natural
наук:science
докажут:prove
произошел:happened
морщиться:wrinkle(しわ,妙案)、顔をしかめる
обезьяны:monkey
принимай:accept
сущности:essence
капелька:droplet, modicum(少量の何か?)
собственного:their own
жиру:fat, oil
должна:should
дороже <дорогой 比:expensive
ста тысяч:100,000
подобных:such
разрешатся <разрешить:resolve、許される、解決する、片付く
результате:result
конец:end
называемые:called
добродетели f:virtue、善行
обязанности f:responsibilities
прочие:other
бредни:nonsense、夢、幻想、たわごと
предрассудки m:prejudice
нечего делать:仕方がない
попробуйте:try
возразить:argue
помилуйте:pardon me、とんでもない、考えてもごらんなさい (<миловать 慈悲を垂れる、恩赦を施す)
закричат:scream
восставать:rebel
нельзя:cannot
спрашивается:ask
желаний n複生:desire
ль=ли
обязаны:have to
принимать:take
результаты:result
следственно:consequently
значит:therefore
Господи:(驚愕・意外・不満)ええ何とまあ!
дело:case
арифметики:arithmetic
почему-нибудь:なぜか
пробью:run、穿孔する、貫く
лбом <лoб m造:forehead
сил:force, effort
пробить:break through
примирюсь:accept、(+c ~)仲直りする
хватило:don't have enough
будто:as though, seemingly
вправду:実際に、本当に
успокоение:comfort、安らぎ
заключает:concludes、閉じ込める、中に入れる、(+что в себе)含む
единственно:only
нелепость:ridiculousness
нелепостей:absurdity(不条理)
сознавать:realize, be conscious
мерзит:measure
дойти:reach
путем <путь m造(造では前置詞的に使う):through、道
неизбежных:inevitable
логических:logical
комбинаций <комбинация f生:combination
отвратительных:disgusting
заключений:conclusion
вечную:eternal
тему f対:テーマ、主題
виноват:fault
ясности:clarity
очевидно:obviously
вовсе:at all
вследствие:due to、〜の結果
молча:silently
бессильно:helplessly
скрежеща:grinding(研削)、歯軋り
зубами:teeth
сладострастно:voluptuously(官能的に,なまめかしい態度で)
замереть:freeze、失神せんばかりになる、気が遠くなる
инерции f:inertia、惰性、不活発
мечтая:whishing, dream
злиться:get angry
предмета m:物、題目、対象
найдется:見つかる、ある
подмен m:取り替えること
подтасовка f:ごまかすこと、事実を曲げること
шулерство n:ごまかし、いんちき
просто:単に、あっさり
бурда f:濁ったまずい飲み物、訳のわからないこと
неизвестно:未知
改めて拙訳の全文を以下に。
(以下所感です。)
今回訳したのは「パドポーリャ」の中でも個人的に好きなパートです。こう言ってよければ、「科学批判」とも言えるものに着手し、地下室人から吹き出てくる毒っ気が勢いをもち始めるシーンです。「静かに続けよう」などと前置きしておきながら、だんだんヒートアップし、息継ぎもせず捲し立て、しまいには卒倒せんばかりで叫ぶ、ドストエフスキー節と言ってしまえば陳腐ですが、この作家の稀有な個性が光る場面のように思います。フロイトだったか、「アクセルとブレーキを同時に踏むよう」などとドストエフスキーを評したことがありますが、蓋し至言ですね。或いは、ソローキンの『青い脂』にはドストエフスキーのレプリカントが登場して、1作書き上げるシーンがありますが、他のトルストイやナボコフなど7体のレプリカントを差し置いて最速で執筆を完了させます。その時の様子として、ペンが手に焦げ付き、胸部から臓器が露出した様子が描写されますが、まさに彼の語り口がこうして生まれたのではないかと錯覚してしまうような、そういう語り口です。(ちなみに、この続きのシーンで、レプリカント「ドストエフスキー2号」の作品が披露されるわけですが、「醜悪な醜悪きわまりない実に醜悪きわまりない事件」などと時々文章が痙攣しています。そりゃ当然、アクセルとブレーキを同時に踏んでいるわけですから、マシンは、金属が擦れるあのイヤな音を放っているわけです。(もっともこの比喩は元来、文体についての言及ではありませんが。))では、この激烈なイメージを訳し表すにはどうすればいいのでしょうか。実は前回のツルゲーネフの時にも感じたのですが、ロシア語は意外と逐語的に訳しても日本語っぽくなります。英文和訳のテクニックに浸ってしまった私には、どうしても修飾語あるいは節を被修飾の前に持って来て、上品な雰囲気に納める誘惑に駆られるのですが、露文和訳、ことドストエフスキー文和訳に関してこれは馴染まないだろうと直感しました。しかも、彼の文章は、(特にテンションが上がってくると?)что,…что,…что,…としつこいくらいに(カントばりに?)節を繋げてきます。思想にペンがついてこず、もつれた舌は、そのまま足に絡まって転んでしまう、そんな勢い感は、これらの関係詞を跨いで訳すなんてことをした瞬間には、あっという間に萎れてしまうでしょう。そういうわけで、今回作成した訳はなるべくそのようなイメージを保存できるような語の配置にしてみました。
あと、前回のツルゲーネフとの違いといえば、「詩想」の問題です。前回は、風景画のような趣を持つ文章でした。ヤマナラシの葉の金属光沢がどんなものか分からなければ画像検索をかけて、イメージを膨らませたり、雨がふと止んだ隙に陽光が照るビジュアル的なイメージを記憶のうちに探ればよかったのです。「詩想」とはすなわち「“視”想」だったのです。それに対し、今回相手にするのは一人の男が独白する「”思”想」です。抽象性のレベル(いや、こんな語を使うと、表象あるいは感覚与件と概念あるいは理念といったものの間にデジタルな閾値を設けなければならなくなってしまうのですが)、これがひとつ違っています。したがってその対象をとらえるためには、文章の見た目が一人称的であるということに気遣う以上に、そのシニフィエが内蔵している論理構造を極めて慎重に取り扱う必要が出てきます。我々はニーチェが本書を読みショックを受けたときとは違って、後代の特権として、フェージャ自身のうちに秘蔵されていた反復性(ドゥルーズ的な意味で言う)に着目することができます。私が今回の翻訳で一箇所決定的に意訳を施した箇所があるのですが、それは著者本人も当時意識するべくもなかった(であろう)比喩によって表されています。これは学術的には明らかなルール違反でしょうが、私には知ったことはありません。これは道楽ですから!
……いやはや、私は少し出しゃばりすぎたようです。実のところまだあまりにも語り残したことは多いですが、また別の機会を伺うことにします。もうすでに、読者各位に於かれては、外国語とハイコンテクストなフレージングとで、この文章のジャンクさには飽き飽きしてしまったことでしょう。たかだかnoteの文章にこれほどまでの根気と集中を強いてしまったことに、大変恐縮します。ああ、発見されるだけの価値のある文章にまとめることができたなら……!
以上とします。🦚