ZapiskiIzPodpol'ya_1_3

 ドストエフスキーの『Записки из подполья』の第1部3節 第2〜4パラグラフ(翻訳の文庫本で見開き約1.3頁分くらいの量)を訳してみます。本題に入る前に、まず1点タイトルの訳について補足しておきます。私が読んだ新潮文庫版(江川卓 訳)だと『地下室の手記』となっていますが、今回手本訳に用いる米川正夫訳だと『地下生活者の手記』となっており若干翻訳にゆらぎがあります。本書に登場する「地下室人」はドストエフスキーを論じる文章でもよく登場しますが、出てくるたびに「あーね、地下室人ね」などと思いながら読んでしまうわけで、出典の注で翻訳のタイトルはいちいち確認してきませんでした。そのため、このゆらぎの存在は、実は今回訳してみるまでほとんど意識の彼方にありました。だいたい、私がこれまでよく読んできた本の多くは、『純理』だの『弁明』だの、既にタイトルの定訳があるものばかりで(いや、本当はゆらいでいるのかもしれないけれど、訳を比べるほど読んでいないのです、あ、いやもちろん『ツァラトゥストラ』とか『二年間の休暇(十五少年漂流記)』とかの有名なゆらぎの存在は認識していますよ)、本書のことを思い出すときには「ほら、地下室人のあれだよ」と言って、正確に思い出そうとせずごまかしてきました。そういうわけで一旦、本書『Записки из подполья』の直訳を確認しておきます。запискиは女性名詞запискаの複数主格で「書き付け、記録、報告」などの意、изは生格支配の前置詞で「〜より、の中から(内部からの移動、由来)」を表す、подпольяは中性名詞подпольеの単数生格で「地下室、穴蔵」などの意です。よって直訳としては「地下室からの報告」とでもなるでしょうか。通称としては「ザピスキ」と呼んでしまうと『死の家の記録(Записки из мёртвого дома)』と区別がつかなくなるので、まあ「パドポーリャ」とでも頭の中で変換しておけば、いくつかの訳にも対応できそうです。
 では、以下に今回原文を参照したサイト並びに朗読動画のURLを貼っておきます。動画の方は、26分20秒あたりからが今回訳した箇所になります。

 手本訳は先述のとおり、青空文庫にある米川訳とします。時々、新潮文庫の江川訳を持ってくるかもしれません。余談ですが、それに「素人が何を偉そうに」と言われそうですが、米川訳は岩波の『カラ兄』で読んで以来、全面的に信頼しています。あれは面白かった! やや古風で硬めの言い回しが、ドストエフスキーの世界観によくマッチしています(19世紀ロシア文学はこうでなくちゃ)。『罪と罰』(岩波文庫 江川訳)は、『カラ兄』を読む前に読んでしまっていたのですが、五大長編の残り(『悪霊』、『白痴』、『未成年』)は米川訳を選んで、手元に揃えています。『悪霊』は読了までもう少し、あと2冊は積読という状態です。(ちなみに、訳者で選んだとは言っても、『悪霊』、『白痴』は岩波文庫で手に入れやすかったから選んだという側面が大きいです。『白痴』は新刊でいまだ書店に置いてあるのでいうまでもなく。『悪霊』は、確か昨年時点では絶版していたのでアマゾンの中古で買いましたが、この間書店に行くと、復刊していました(ちくしょう、状態が良いのを買おうと思って定価よりも少し高めのものを買ってしまったではないか)。『未成年』は近所の古本屋で河出書房の全集の1冊が数百円で出ていたのを、訳者を見て「ラッキー!」と思って買った次第です。)

 かなり前置きが長くなりましたが、以下本題です。



Продолжаю спокойно о людях с крепкими нервами, не понимающих известной утонченности наслаждений.

  • продолжаю:continue

  • спокойно:calmly

  • крепкими:strong

  • нервами:nerves

  • понимающих 造:understanding

  • известной 生:famous

  • утонченности f生:sophistication

  • наслаждений n生:pleasure

それでは、快楽のあの繊細さを理解しない、図太い神経の人々について、静かに続けることにしよう。

拙訳

そこで今度は、快感のもつある種の繊細味を解しない神経の太い人間のことを、冷静に語りつづけるとしよう。

米川正夫訳

Эти господа при иных казусах, например, хотя и ревут, как быки, во все горло, хоть это, положим, и приносит им величайшую честь, но, как уже сказал я, перед невозможностью они тотчас смиряются.

  • господа m生:gentlemen

  • при(+前):when, with, if

  • иных:other

  • казусах m複前:incidents、特殊事件

  • например:for example

  • ревут 三複:roar

  • быки m複主:bulls

  • горло:throat

  • положим:suppose

  • приносит 三単?:bring

  • величайшую:greatest

  • честь:honor

  • невозможностью f造:impossible

  • тотчас:at once

  • смиряются:resign

そういう紳士諸君は、ある場合には、例えば雄牛のように喉の奥底から雄々しく声を上げ、それが仮に、彼らに最大の栄誉をもたらすとしても、既にもう述べたことだが、不可能ごとを前にすると彼らはあっという間に諦めてしまうのだ。

拙訳

こうした連中は、ある場合に際会すると、たとえば牡牛のごとくのど一杯に咆え散らして、そのために非常な名誉をかち得るには相違ないだろうけれども、しかし前述したごとく、彼らは不可能事にぶっつかると、すぐおとなしくなってしまうのだ。

米川正夫訳

Невозможность — значит каменная стена? Какая каменная стена?

  • значит:so, then

  • каменная:stone

  • стена:wall

不可能ごと、それはすなわち石の壁ではないか? するとそれは、どのような石の壁なのだろう?

拙訳

不可能事、――これは即ち石の壁なのか? では石の壁とはどんなものなのか?

米川正夫訳

Ну, разумеется, законы природы, выводы естественных наук, математика.

  • разумеется:of course

  • законы:law

  • природы:nature

  • выводы:conclusion

  • естественных:natural

  • наук:science

そう、いうまでもなく、それは自然法則であり、自然科学の結論であり、数学である。

拙訳

それはまあ、いうまでもなく、自然の法則であり、自然科学の結論であり、数学である。

米川正夫訳

Уж как докажут тебе, например, что от обезьяны произошел, так уж и нечего морщиться, принимай как есть.

  • докажут:prove

  • произошел:happened

  • морщиться:wrinkle(しわ,妙案)、顔をしかめる

  • обезьяны:monkey

  • принимай:accept

そうすると奴らが君にする証明、例えば、人間は猿から進化したという証明、そのことに顔をしかめることなく、そのまま受け入れなければならない。

拙訳

たとえば、人間は猿から進化したのだと証明されたら、もう顔を顰めたって始まらないから、そのまま頂戴しておかなければならない。

米川正夫訳

Уж как докажут тебе, что, в сущности, одна капелька твоего собственного жиру тебе должна быть дороже ста тысяч тебе подобных

  • сущности:essence

  • капелька:droplet, modicum(少量の何か?)

  • собственного:their own

  • жиру:fat, oil

  • должна:should

  • дороже <дорогой 比:expensive

  • ста тысяч:100,000

  • подобных:such

それにこんな証明、つまり、本質的に言って、君自身の脂肪の一滴が君の同類たちの十万滴よりも高価であるということ、

拙訳

また、自分自身の脂肪の一滴は本質的に見て、同胞の脂肪の数万滴よりも貴重であらねばならぬ。

米川正夫訳

и что в этом результате разрешатся под конец все так называемые добродетели и обязанности и прочие бредни и предрассудки, так уж так и принимай, нечего делать-то, потому дважды два — математика.

  • разрешатся <разрешить:resolve、許される、解決する、片付く

  • результате:result

  • конец:end

  • называемые:called

  • добродетели f:virtue、善行

  • обязанности f:responsibilities

  • прочие:other

  • бредни:nonsense、夢、幻想、たわごと

  • предрассудки m:prejudice

  • нечего делать:仕方がない

そして結果的に、すべてが、つまり善行や責任や他の無意味ごとや偏見といったようなものが、終いには解決されるという証明、それをそうとして受け入れなければならないのさ。なんたって、二掛ける二、それは数学なのだから。

拙訳

したがって、あらゆる善行も義務も、その他あらゆる偏見も世迷い言も、この結論を基礎として解決さるべきである、とこんなふうに証明されたら、もはや仕方がない、やはりそのまま受け取らねばならない。なにしろ、それは二二が四であり、数学なのだから、

米川正夫訳

Попробуйте возразить.

  • попробуйте:try

  • возразить:argue

さあ、是非とも反論してくれ給え。

拙訳

うっかり口答えでもしようものなら、それこそ大変だ。

米川正夫訳

«Помилуйте, — закричат вам, — восставать нельзя: это дважды два четыре!

  • помилуйте:pardon me、とんでもない、考えてもごらんなさい (<миловать 慈悲を垂れる、恩赦を施す)

  • закричат:scream

  • восставать:rebel

  • нельзя:cannot

「とんでもない」と彼らは叫ぶ、「反抗などできませんよ、二二が四なのですから!

拙訳

『とんでもない』とみんな叫び出すだろう。『反抗なんかするわけにはゆきません、これは二二が四なんだから!

米川正夫訳

Природа вас не спрашивается; ей дела нет до ваших желаний и до того, нравятся ль вам ее законы или не нравятся.

  • спрашивается:ask

  • желаний n複生:desire

  • ль=ли

自然はあなたの顔色を伺うことなんてしませんよ。あなたの欲望することや、あなたがその法則を好むとか好まざるとかまで、関係なしにやっていくのです。

拙訳

自然はきみの意見なんか聞きゃしません。自然はきみの希望がどうだろうと、自分の法則がきみの気に入ろうと入るまいと、そんなことは無関心なんです。

米川正夫訳

Вы обязаны принимать ее так, как она есть, а следственно, и все ее результаты.

  • обязаны:have to

  • принимать:take

  • результаты:result

  • следственно:consequently

あなたはそれをそうあるがままに受け取らなくちゃなりませんし、結局は全て自然様が成した結果なのです。

拙訳

きみは自然をあるがままに受け容れるべきで、したがってその結果をもすべてありがたく頂戴しなければなりません。

米川正夫訳

Стена, значит, и есть стена... и т. д., и т. д.».

  • значит:therefore

壁はつまり壁なんです……云々」と。

拙訳

壁はとりもなおさず壁なんですよ……しかじか云々』

米川正夫訳

Господи боже, да какое мне дело до законов природы и арифметики, когда мне почему-нибудь эти законы и дважды два четыре не нравятся?

  • Господи:(驚愕・意外・不満)ええ何とまあ!

  • дело:case

  • арифметики:arithmetic

  • почему-нибудь:なぜか

えいちくしょうめ、自然法則だの計算だのがどうして私に関係があるというのだ、私はなぜかそんな法則とか二二が四とか気に入らないというのに。

拙訳

ええじれったい、わたしにはなぜかこの法則や二二が四が気にいらないのに、自然律だの数学だのに、なんの係わりがあるというのだ?

米川正夫訳

Разумеется, я не пробью такой стены лбом, если и в самом деле сил не будет пробить,

  • пробью:run、穿孔する、貫く

  • лбом <лoб m造:forehead

  • сил:force, effort

  • пробить:break through

わかっているさ、私はそんな壁を自分のおでこでぶち抜けやしない、そうしようとする試みさえ打ち砕かれる始末だからな。

拙訳

むろん、わたしは自分の額でこの壁を打ち抜くことはできない。そんな力は本当に持ち合わせがないのだから。

米川正夫訳

но я и не примирюсь с ней потому только, что у меня каменная стена и у меня сил не хватило.

  • примирюсь:accept、(+c ~)仲直りする

  • хватило:don't have enough

だが、私は、そこに石の壁があって、自分に力が足りないからという、それだけの理由で、こいつと和解なぞしてやるものか。

拙訳

けれども、わたしはけっしてこの壁と和睦しやしない。なぜといって、わたしの前に石の壁が突っ立っていて、しかもわたしにそれを打ち抜く力がないという、ただそれだけの理由でたくさんなのだ。

米川正夫訳

Как будто такая каменная стена и вправду есть успокоение и вправду заключает в себе хоть какое-нибудь слово на мир, единственно только потому, что она дважды два четыре.

  • будто:as though, seemingly

  • вправду:実際に、本当に

  • успокоение:comfort、安らぎ

  • заключает:concludes、閉じ込める、中に入れる、(+что в себе)含む

  • единственно:only

そんな石の壁が本当に安らぎで、パンを与えてくれる大審問官か何かと思い込んで本気でありがたがっているようではないか。その理由はといえば、ただほんの二二が四というに過ぎないのに。

拙訳

こうした石の壁は本当に鎮静剤か何かで、じじつ平和をもたらす一種の呪文を含んでいるように、世間では考えられている。それはこの石壁が二二が四であるという、ただそれだけの理由にすぎないのだ。

米川正夫訳

それではまるで、そういう石の壁がほんとうに安らぎであり、ほんとうにそこに平和の保証めいたものが含まれてでもいるようではないか。

『地下室の手記』江川卓 訳、新潮文庫、p.25

О нелепость нелепостей!

  • нелепость:ridiculousness

  • нелепостей:absurdity(不条理)

全くばかばかしいことよ!

拙訳

おお、なんという愚の骨頂だ?

米川正夫訳

То ли дело все понимать, все сознавать, все невозможности и каменные стены;

  • сознавать:realize, be conscious

問題はあらゆる不可能ごとや石の壁、こういった全てを理解し、認識することだろうか。

拙訳

それに比べると、いっさいを理解し、いっさいを意識し、すべての不可能事や石の壁を達観しながら、

米川正夫訳

не примиряться ни с одной из этих невозможностей и каменных стен, если вам мерзит примиряться;

  • мерзит:measure

これら不可能ごとや石の壁のどれか一つとでも和解などしてやるものか!、たとえ諸君が仲立ちに入ろうともな。

拙訳

もし妥協がいまわしく思われたら、その不可能事や、石の壁のどれ一つとも妥協しないほうが、どれだけ堂々として立派かわからない。

米川正夫訳

дойти путем самых неизбежных логических комбинаций до самых отвратительных заключений на вечную тему о том, что даже и в каменной-то стене как будто чем-то сам виноват, хотя опять-таки до ясности очевидно, что вовсе не виноват,

  • дойти:reach

  • путем <путь m造(造では前置詞的に使う):through、道

  • неизбежных:inevitable

  • логических:logical

  • комбинаций <комбинация f生:combination

  • отвратительных:disgusting

  • заключений:conclusion

  • вечную:eternal

  • тему f対:テーマ、主題

  • виноват:fault

  • ясности:clarity

  • очевидно:obviously

  • вовсе:at all

だから、行けばいいさ、必然的な論理の結合を辿って、むかむかする結論まで。その結論というのは永遠のテーマの上にあるものだ、その石の壁とやらにどんな自分の責があるのか、という。しかし、再び明るみに出ていることといえばそれがちっとも自分の過失でもないことなのだ。

拙訳

どうしても避けることのできない論理的なコンビネーションの道を辿りながら、この石壁についてもなぜか自分に罪がある、などという永久不変のテーマに溺れて、思いっきりいまわしい結論に到着する(もっとも、自分に何一つ罪がないのは、ここでも火を見るより明瞭なのだけれど)。

米川正夫訳

и вследствие этого, молча и бессильно скрежеща зубами, сладострастно замереть в инерции, мечтая о том, что даже и злиться, выходит, тебе не на кого;

  • вследствие:due to、〜の結果

  • молча:silently

  • бессильно:helplessly

  • скрежеща:grinding(研削)、歯軋り

  • зубами:teeth

  • сладострастно:voluptuously(官能的に,なまめかしい態度で)

  • замереть:freeze、失神せんばかりになる、気が遠くなる

  • инерции f:inertia、惰性、不活発

  • мечтая:whishing, dream

  • злиться:get angry

じゃあどこに責があるかと言えば、無言のままのどうしようもない歯軋り、無気力のうちの恍惚とした忘我、腹を立てて向かっていく相手もいない幻想だ。

拙訳

その結果、無言のまま力ない歯がみをつづけ、腹を立てようにも、結局、相手がないのをぼんやり考えながら、蕩然と惰性の中に感覚を麻痺させてしまうのだ。実際、怒ろうにも相手がない。

米川正夫訳

что предмета не находится, а может быть, и никогда не найдется, что тут подмен, подтасовка, шулерство, что тут просто бурда, — неизвестно что и неизвестно кто, но, несмотря на все эти неизвестности и подтасовки, у вас все-таки болит, и чем больше вам неизвестно, тем больше болит!

  • предмета m:物、題目、対象

  • найдется:見つかる、ある

  • подмен m:取り替えること

  • подтасовка f:ごまかすこと、事実を曲げること

  • шулерство n:ごまかし、いんちき

  • просто:単に、あっさり

  • бурда f:濁ったまずい飲み物、訳のわからないこと

  • неизвестно:未知

対象が現れることはなくとも、ひょっとするとそこにあって、全く見えないだけかもしれない--これはつまりトリックの類、ごまかし、いんちきだ。濁った水のようにそれが何だとか、誰だとかさっぱりわかりやしない。だが、こういう全てのわからないことやごまかしを見ないようにしたって、全身が痛むのだ。わからなくなればなるほど、ますます痛みは増すのだ!

拙訳

或いは永久にそんなものは出て来ないのかもしれない。これは、いかさまカルタ師がやるような札のさし変えに類した手で、何かごまかされているのだ。これはもうなんのことはない、本当の溝泥だ、――何がなんだかだれがだれだか、まるっきりわからない。しかし、こうしたごった返しやさし変えにかかわらず、やはりある痛みを感ずる。そして、わけがわからなくなればなるほど、ますます痛みがひどくなって来るのだ。

米川正夫訳

改めて拙訳の全文を以下に。

 それでは、快楽のあの繊細さを理解しない、図太い神経の人々について、静かに続けることにしよう。そういう紳士諸君は、ある場合には、例えば雄牛のように喉の奥底から雄々しく声を上げ、それが仮に、彼らに最大の栄誉をもたらすとしても、既にもう述べたことだが、不可能ごとを前にすると彼らはあっという間に諦めてしまうのだ。不可能ごと、それはすなわち石の壁ではないか? するとそれは、どのような石の壁なのだろう? そう、いうまでもなく、それは自然法則であり、自然科学の結論であり、数学である。そうすると奴らが君にする証明、例えば、人間は猿から進化したという証明、そのことに顔をしかめることなく、そのまま受け入れなければならない。それにこんな証明、つまり、本質的に言って、君自身の脂肪の一滴が君の同類たちの十万滴よりも高価であるということ、そして結果的に、すべてが、つまり善行や責任や他の無意味ごとや偏見といったようなものが、終いには解決されるという証明、それをそうとして受け入れなければならないのさ。なんたって、二掛ける二、それは数学なのだから。さあ、是非とも反論してくれ給え。
 「とんでもない」と彼らは叫ぶ、「反抗などできませんよ、二二が四なのですから! 自然はあなたの顔色を伺うことなんてしませんよ。あなたの欲望することや、あなたがその法則を好むとか好まざるとかまで、関係なしにやっていくのです。あなたはそれをそうあるがままに受け取らなくちゃなりませんし、結局は全て自然様が成した結果なのです。壁はつまり壁なんです……云々」と。えいちくしょうめ、自然法則だの計算だのがどうして私に関係があるというのだ、私はなぜかそんな法則とか二二が四とか気に入らないというのに。わかっているさ、私はそんな壁を自分のおでこでぶち抜けやしない、そうしようとする試みさえ打ち砕かれる始末だからな。だが、私は、そこに石の壁があって、自分に力が足りないからという、それだけの理由で、こいつと和解なぞしてやるものか。
 そんな石の壁が本当に安らぎで、パンを与えてくれる大審問官か何かと思い込んで本気でありがたがっているようではないか。その理由はといえば、ただほんの二二が四というに過ぎないのに。全くばかばかしいことよ! 問題はあらゆる不可能ごとや石の壁、こういった全てを理解し、認識することだろうか。これら不可能ごとや石の壁のどれか一つとでも和解などしてやるものか!、たとえ諸君が仲立ちに入ろうともな。だから、行けばいいさ、必然的な論理の結合を辿って、むかむかする結論まで。その結論というのは永遠のテーマの上にあるものだ、その石の壁とやらにどんな自分の責があるのか、という。しかし、再び明るみに出ていることといえばそれがちっとも自分の過失でもないことなのだ。じゃあどこに責があるかと言えば、無言のままのどうしようもない歯軋り、無気力のうちの恍惚とした忘我、腹を立てて向かっていく相手もいない幻想だ。対象が現れることはなくとも、ひょっとするとそこにあって、全く見えないだけかもしれない--これはつまりトリックの類、ごまかし、いんちきだ。濁った水のようにそれが何だとか、誰だとかさっぱりわかりやしない。だが、こういう全てのわからないことやごまかしを見ないようにしたって、全身が痛むのだ。わからなくなればなるほど、ますます痛みは増すのだ!


(以下所感です。)
 今回訳したのは「パドポーリャ」の中でも個人的に好きなパートです。こう言ってよければ、「科学批判」とも言えるものに着手し、地下室人から吹き出てくる毒っ気が勢いをもち始めるシーンです。「静かに続けよう」などと前置きしておきながら、だんだんヒートアップし、息継ぎもせず捲し立て、しまいには卒倒せんばかりで叫ぶ、ドストエフスキー節と言ってしまえば陳腐ですが、この作家の稀有な個性が光る場面のように思います。フロイトだったか、「アクセルとブレーキを同時に踏むよう」などとドストエフスキーを評したことがありますが、蓋し至言ですね。或いは、ソローキンの『青い脂』にはドストエフスキーのレプリカントが登場して、1作書き上げるシーンがありますが、他のトルストイやナボコフなど7体のレプリカントを差し置いて最速で執筆を完了させます。その時の様子として、ペンが手に焦げ付き、胸部から臓器が露出した様子が描写されますが、まさに彼の語り口がこうして生まれたのではないかと錯覚してしまうような、そういう語り口です。(ちなみに、この続きのシーンで、レプリカント「ドストエフスキー2号」の作品が披露されるわけですが、「醜悪な醜悪きわまりない実に醜悪きわまりない事件」などと時々文章が痙攣しています。そりゃ当然、アクセルとブレーキを同時に踏んでいるわけですから、マシンは、金属が擦れるあのイヤな音を放っているわけです。(もっともこの比喩は元来、文体についての言及ではありませんが。))では、この激烈なイメージを訳し表すにはどうすればいいのでしょうか。実は前回のツルゲーネフの時にも感じたのですが、ロシア語は意外と逐語的に訳しても日本語っぽくなります。英文和訳のテクニックに浸ってしまった私には、どうしても修飾語あるいは節を被修飾の前に持って来て、上品な雰囲気に納める誘惑に駆られるのですが、露文和訳、ことドストエフスキー文和訳に関してこれは馴染まないだろうと直感しました。しかも、彼の文章は、(特にテンションが上がってくると?)что,…что,…что,…としつこいくらいに(カントばりに?)節を繋げてきます。思想にペンがついてこず、もつれた舌は、そのまま足に絡まって転んでしまう、そんな勢い感は、これらの関係詞を跨いで訳すなんてことをした瞬間には、あっという間に萎れてしまうでしょう。そういうわけで、今回作成した訳はなるべくそのようなイメージを保存できるような語の配置にしてみました。
 あと、前回のツルゲーネフとの違いといえば、「詩想」の問題です。前回は、風景画のような趣を持つ文章でした。ヤマナラシの葉の金属光沢がどんなものか分からなければ画像検索をかけて、イメージを膨らませたり、雨がふと止んだ隙に陽光が照るビジュアル的なイメージを記憶のうちに探ればよかったのです。「詩想」とはすなわち「“視”想」だったのです。それに対し、今回相手にするのは一人の男が独白する「”思”想」です。抽象性のレベル(いや、こんな語を使うと、表象あるいは感覚与件と概念あるいは理念といったものの間にデジタルな閾値を設けなければならなくなってしまうのですが)、これがひとつ違っています。したがってその対象をとらえるためには、文章の見た目が一人称的であるということに気遣う以上に、そのシニフィエが内蔵している論理構造を極めて慎重に取り扱う必要が出てきます。我々はニーチェが本書を読みショックを受けたときとは違って、後代の特権として、フェージャ自身のうちに秘蔵されていた反復性(ドゥルーズ的な意味で言う)に着目することができます。私が今回の翻訳で一箇所決定的に意訳を施した箇所があるのですが、それは著者本人も当時意識するべくもなかった(であろう)比喩によって表されています。これは学術的には明らかなルール違反でしょうが、私には知ったことはありません。これは道楽ですから!
 ……いやはや、私は少し出しゃばりすぎたようです。実のところまだあまりにも語り残したことは多いですが、また別の機会を伺うことにします。もうすでに、読者各位に於かれては、外国語とハイコンテクストなフレージングとで、この文章のジャンクさには飽き飽きしてしまったことでしょう。たかだかnoteの文章にこれほどまでの根気と集中を強いてしまったことに、大変恐縮します。ああ、発見されるだけの価値のある文章にまとめることができたなら……!

以上とします。🦚


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