[1分小説] 哀|#言いそびれた『ありがとう』
眞と別れて、この秋で5年が経つ。
同じ大学を卒業して1年半が経つ頃、
私から別れを切り出した。後悔はしていない。
でも、彼はとても誠実でいい人だったと、今でも思う。
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夏が影を潜め、秋が本格的に日常を覆う頃だった。
眞の部屋の空気が、妙に冷たかったことを覚えている。
私が靴を履いていると、背後で嗚咽が聞こえた。「貴恵、行くなよ」
「他人の気持ちは分からないんだよ、分かっているつもりなんだよ」
いつだか彼がそう言っていたことを、その時ふいに思い出した。
「もうここには来ないわ」
十数分前に、ポツリと、でも頑として私は言い放った。
そう言われた眞の気持ちを正しく理解するなんて、当時の私には到底できるはずがなかった。
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交際当時、彼にこう話したことがある。
「あなたにとっての素直な発言は、過激な発言なのよ」
眞は、お世辞を言うことはもちろん、
物事をオブラートに包んで言うことすらできない人間だった。
だからこそ、私への愛情が偽りのないものだと、
信じられたのだけれど。
当時、彼の言動のひとつひとつが、
常に私の目に新鮮な驚きをもって映った。
― 人は、自分以外の誰かに対して
こんなにもまっすぐでいられるのか。
彼は常に、私に溢れるまま愛情をぶつけてきた。
それは私には真似できないことだった。
しかし、その幸せなはずの事実は、
次第に私に負担としてのしかかってくる。
・
大学卒業後、私たちは新入社員として、
別々の会社で働きはじめた。
お互いに忙しく、余裕なんて微塵もなかった頃である。
「週末だけは、一緒に過ごしたい」
そう主張する眞の言い分を聞き入れたものの、
自分の住む都内から千葉のはずれまで毎週通うのは、体力的にきつかった。
そして次第に、
それはただの"努力義務" になっていった。
その結果が、週末ごとのケンカの嵐である。
もう、やめよう。そう思った。
・
眞は、いつだって相手に直球の言葉を投げるくせに、自分がそれを受け取るのには慣れていない―。
これから別れようとする相手の中に新たな発見をした自分が、間抜けだなと、思わず苦笑したことを覚えている。
その日、私はいつも通り彼のマンションを訪ねて、
突然別れを切り出した。
それは提案ではなく宣告だった。
「別れて欲しいの」
私が滔々と話しを切り出すと、
彼はこれまで見たことのない動揺を露わにして、
すがるように言葉を投げてきた。
「貴恵、行くなよ」
でも私の心は決まっていた。
「もうここには来ないわ」
リビング兼ベッドルームの1Rを出ると、
眞が腕を掴んできた。
振り払って、電気の消えたままの玄関で靴を履く。
後ろから、嗚咽。
「私の棚のものは、全部捨てていいから」
共用スペースの廊下に出ると、その台詞を最後に、眞の家のドアを一方的に締めた。
・
その後、眞は転勤で他県へ越したと、大学時代の友人から聞いた。
もう彼と会うこともない。
でも、もし可能なら―。
誠実な愛を与え続けてくれた彼に、
言いそびれた「ありがとう」だけは、きちんと伝えたかった。
そんなことを、今でも心の片隅で思っている。