01_ナルキッソス_ J.D.サリンジャー『バナナフィッシュにうってつけの日』読解
J.D.サリンジャー『バナナフィッシュにうってつけの日』読解をマガジンで連載していきます。こちらが第一回目の記事です。タイトルのはじめにある番号順にお読みいただくと、より分かりやすくお楽しみいただけると思います。
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Q.01 シーモアが死んでしまうのはなぜか?
「バナナフィッシュ」の後半は、「もっと鏡見て See more glass」というシビル・カーペンターの言葉から始まる(21)。ひとつめの疑問の答えは、このひと言に尽きるだろう。すなわち、シーモアは鏡を見る者だから死んだのだ。
サリンジャー研究者の竹内康浩氏によれば、「バナナフィッシュ」は、もともとは現在知られている作品の後半部分のみ、シビルが「もっと鏡見て See more glass」という部分から後ろだけだったのだという(B)。前半は編集者の意向で後から付け加えられたのだそうだ。
ならば、後半部分だけを読んで、作者がもともと表現しようとしていたことを考えてみるのも、間違いではないだろう。
「もっと鏡見て See more glass」といった後、シビルはさらに、母に二度「Did you see more glass?」と尋ね、若い男、すなわちシーモアのところへ行って「モット・カガミ・ミタ? see more glass?」(22)と問いかける。
本来の完成稿の冒頭に、四度繰り返されるこの謎めいた言葉こそが、本作のキーワードだ。
サリンジャーは多くの作品を、有名な神話をモチーフに書いている(詳しくは各作品読解にて)。
鏡を見た若い男が死ぬ神話、といえばナルキッソス。泉の水面に映った自分の姿に恋をして、そこから動けなくなり餓死してしまう、あるいは水に落ちて死んでしまう美少年の物語。ナルシシズムという言葉の由来だ。
では、ナルキッソスはなぜ死ぬのか。
ユングやユング派の心理学・神話学の研究者、エーリッヒ・ノイマンは、これを〈自我肥大〉という言葉で説明している。子どもが成長し、自我を形成する過程などで、一時的に精神的なバランスが不安定になり、自意識や自己愛が膨れ上がることがある。若者に多い肥大しすぎた自己愛はときに、ナルキッソスのような生命を脅かすほどの危機をもたらすという(Q)。
後から付け加えられた前半部分には、リルケを今世紀唯一の大詩人だとする記述がある(14)。これもヒントのひとつ。リルケは、ナルキッソスについての詩を書いている。いわく、「そこの水のなかに現れ 確かに私と似ているもの/そして泣きぬれた姿で 上を向いて ふるえているもの」「彼の運命(さだめ)は 自分を見つめることだった」「彼はもはや存在することができなかった」(『リルケ詩集』富士川英郎訳、新潮文庫_153-155)。
一般に、分身=ダブル=ドッペルゲンガーを見るのは死の予兆と言われる。多くの分身小説が、主人公の死や破滅という形で終わるのは、良く知られていることだろう。鏡を見る男=シーモア・グラスもまた、「存在することができな」くなることを定めとしてつけられた名。
神話で、ナルキッソスが水に映る自分に恋をするのは、女神アフロディーテに自分しか愛せなくなる呪いをかけられたから。ミュリエルにはアフロディーテのイメージが重ねられている(詳細後述)。
むろん、作品全体からは、戦争による精神的なダメージがシーモアの自殺につながっていくと読めるが、それは、編集者の助言で前半が付け加えられたあとに際立ってきたテーマ。もともとは、ナルキッソスを書こうという発想から始まった作品ではないだろうか。
ところで、本作には、T.S.エリオット『荒地』の一節「記憶と欲望を混ぜ合わし」(25)が引用されている。
『荒地』のエピグラフには、シビュラについての一文が引かれており、「バナナフィッシュ」に登場する少女シビルの名がここから取られていることも、しばしば指摘されること。シビュラは、ギリシャ神話において、神託を預言する巫女。
だから、巫女の名を持つ少女が「See more glass もっと鏡見て」というのは、シーモアに向かって「あなたは死ぬ運命にある」という神託を告げているのと同義といえるだろう。
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J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。