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16_魂の売女_ J.D.サリンジャー『バナナフィッシュにうってつけの日』読解
J.D.サリンジャー『バナナフィッシュにうってつけの日』読解をマガジンで連載しています。前の記事を未読の方は、もしよろしければ、01からお楽しみください。
(過去記事の加筆再掲です)
Q.16 シーモアが妻を魂の売女と呼ぶのはなぜか?
ミュリエルは母親に電話で、夫シーモアが自分を〈一九四八年度のミス魂の売女 Miss Spiritual Tramp〉(柴_15)と呼ぶのだと話す。常識的に考えるなら、愛する妻を呼ぶにはふさわしくない、受け取り方によっては侮辱ともとれる言葉で、娘をそう呼ばれた母親が憤慨するのも当然だ。
シーモアはなぜ、妻に対してこんな言葉を使ったのだろうか。今回は、この謎について考えてみたい。
16-1 双面の女神
シーモアがナルキッソスであることは、[01_ナルキッソス](上記リンク)で述べたとおり。本作で、ミュリエルには、ナルキッソスに自分しか愛せなくなる呪いをかけたギリシャ神話の美・愛・性愛の女神アフロディーテが重ねられている。アフロディーテはギリシャ・ローマ神話における究極の女神のひとり。「ズーイ」ではベッシ―がアフロディーテに重ねられており(詳しくは「ズーイ」読解にて)、神話をもとに作品を構想するサリンジャーがアフロディーテを意識していたことも確かだ。
「バナナフィッシュ」の後で書かれた「大工よ」のタイトルにもなっているサッフォーの詩では、花婿が「アレスさながらに」と表現される。ここではミュリエルの花婿シーモアがギリシャ神話の軍神アレスと重ねられているわけだが、アレスもまた、アフロディーテの恋人のひとりである。(ちなみに、後述のハムレットにもアレスのイメージが重ねられているといわれている)
「バナナフィッシュ」ではミュリエルも〈バナナフィッシュ〉の一匹で、このイメージは〈うお座〉の魚にも結び付く(豊穣神話・豊穣占いに起源をもつ占星術もまた、シェイクスピアやサリンジャーが多用するモチーフ)が、うお座の絵柄で表される二匹の魚のうち、片方がアフロディーテだとされる神話もある(Wikipedia)。
ミュリエルに重ねられている女神アフロディーテは絶世の美女で、複数の恋人を持ったとされる。また、『キャッチャー』に登場するフィービーの別名、月の女神ディアナ(アルテミス)は、貞節な処女神だが、激怒すると相手を容赦なく殺す残忍さをあわせ持つ。
山口昌男によれば、神話の世界では、聖性が高い神々ほど双面性が際立ち、美しく純粋であるほど、逆方向の残酷さ・凶暴さ・奔放さもあわせ持つ者が多いという(『文化と両義性』、岩波現代文庫)。これは、シェイクスピア作品にみられる錬金術的な対立物の一致や、片方に揺れた後は、必ず反対側への揺り戻しが起こるという道化的なバランス感覚にも通じるもの。シーモアと道化の関係は下記参照。
16-2 『ハムレット』「尼寺へ行け」の意味
シェイクスピアの『ハムレット』でも、道化的なバランス感覚、対立物の一致が語られる。例えば、「一方の目には笑みを、もう一方の目には涙を浮かべ、(中略)/歓喜と悲哀を等しく秤に振り分けて」(22)。あるいは、「王を食った蛆虫を餌に魚を釣り、その蛆を食った魚を人が食うかもしれない」「王様が乞食の腹の中をお通りあそばすこともある」(185)という貧富や貴賤の一致。ポローニアスの「わしのように年を取ると/つい取り越し苦労をしがちだが、/こうなると若い者の無分別といい勝負だな」(77)というつぶやき、ハムレットがポローニアスにいう、お前だってカニのように後ろ向きに這えれば、俺と同い年くらいにはなれるだろうからな」(91)という老若の一致。あるいは、ハムレットが現王で義父のクローディアスに向かって「さようなら、母上」といい、「父上だ」と返す義父に「母上です。父と母は夫と妻、夫と妻は一心同体、だから母上」(187)という父母や男女の一致。
これは「バナナフィッシュ」で、シーモアがシビルの黄色い水着に青を見て、相反する色が混ざり合い、緑になることと同じ(下記参照)。
そして、『ハムレット』で、先王でありハムレットの父である亡霊は、元妻でハムレットの母(王妃)について、かつては「貞淑の鑑と見えた妃」が弟で現王のクローディアスと再婚したことを、「なんという堕落だ」(58)と嘆く。これを受け、息子ハムレットは、「私が何をしたというの」(165)と自らの罪を認識できず戸惑う王妃に、現王との再婚は「(自らに)娼婦の烙印を/押す」(165)ことだと責める。
同時に、ハムレットは、純粋無垢な恋人に「わが魂の偶像/美の化身たるオフィーリアへ」(85)という恋文を贈りながら、「運命の女神は淫売だからな」(93)と軽口をたたき、「美人は貞節か?」「美しさは貞淑を女衒に変えてしまう」「今は立派な実例がある」と母を重ね、「尼寺へ行け」という有名なセリフをいう。当時、尼寺では売春が行われていたことから、このセリフを「売春婦にでもなれ」と解釈する研究者もいるという(Wikipedia)。ハムレットはオフィーリアの父ポローニアスに「魚屋」と呼びかけているが、魚屋には女郎屋の意味もあるという(『100分de名著 シェイクスピア『ハムレット』河合祥一朗)。劇中劇でも「運命の女神、心なき女郎め!」(107)と繰り返される。下記で述べた通り、魚は堕落した娼婦に通じるイメージだ。
王妃が「ハムレット、ここにおいで、私のそばに」というのに、ハムレットが「いえ、母上、こちらにもっと強い磁石があります」とオフィーリアの方を向く(135)場面では、二人の比較、ハムレットが母の胸から恋人の膝へ移動する様子が象徴的に描かれている。第五場は、気がふれたオフィーリアについて、王妃が「会いたくありません」と拒絶するセリフから始まり、ホレイショ―に「お会いになったほうがいい」と諭されて(193)二人が向かい合う。狂気に陥ったオフィーリアを前にして、王妃は鏡を見るように「罪とはこういうものか。私の病んだ心には/些細なことのいちいちが大きな禍の前触れに思える」(194)と自らの不安定な胸の内を自覚する。同作において、王妃とオフィーリアはともに、ハムレットにとっての究極の女神、ユングのいうアニマであり、母と義娘の分身関係。
同じくシェイクスピアの『お気に召すまま』では、「美しい女は滅多に貞節じゃないし、貞節な女はひどいブス」(22)「身持ちがよくておまけに美人だったら、砂糖にハチミツかけるみたいなもん」(118)だから、美人は身持ちが悪いはず、という価値観が語られる。
シェイクスピア作品にも神話からの引用が多いので、「尼寺へ行け」も上位の女神ほど高い聖性と俗性を併せ持つという神話の法則を念頭に置いて書かれた可能性が高いと思われるし、少なくともサリンジャーはそう読んでいただろう。
神話やシェイクスピア作品、それに倣うサリンジャー作品において、未熟な若者の特徴は、二極の価値観に揺らぐ精神状態であり、片方に揺らいだ後は必ずもう片方への揺り戻しがおこる。これについては下記参照。
ハムレットがオフィーリアに「心からお前を愛したこともある」といった直後に「お前を愛したことなどない」と前言を翻すように、「愛がつのるとき、些細な不安も恐れとなり/些細な恐れの極まるとき、愛も大きく育つもの」(140)と語られるように、未熟で精神的に不安定な若者は、自らの内にある愛や、相手から受ける愛に確信が持てず、しばしば不安や嫉妬に駆られて、究極の女神が女郎・娼婦に見えてしまうのだ。
16-3 致命的な女
シェイクスピアの『オセロー』でも同じ。オセローが妻デズデモーナを「素晴らしい女、美しい女、かわいい女!」(173)といい、同時に「売女・淫売・悪魔」と罵る(177・178・211)。妻への愛が深いからこそ、悪魔のささやきに耳をかしたとき、憎しみや嫉妬もまた逆方向へと大きく振れる。結果、オセローは妻を殺してしまう悲劇に至る。
「バナナフィッシュ」でミュリエルが身に着けているのが、「白い絹の化粧着」(11)だけだというのは、姿としては娼婦的なみだらさを、白は汚れない純粋さを、つまりミュリエルの両面性を象徴する。白い絹の化粧着に象徴される純潔と、スカートのシミに象徴される汚れを併せ持つミュリエルは、『オセロー』で純潔な精神=白い肌を持ちながら、汚れや堕落=甘い果実につながる苺の刺繍のあるハンカチを落とすデズデモーナと重なる。
甘い果実については下記参照。
オセローは、妻デズデモーナの中に純潔の白と汚れの黒の両方を見て「これほど愛らしくこれほど致命的な女はいない」(221)と嘆く。
サリンジャーの初期短編「他人」でヴィンセントの彼女(現実には「元」彼女、今では「他人」の妻なのだが、文中ではあえて「元」がついていないところも読解のポイント、詳細は改めて)の名前は〈ヘレン〉だが、この名は、ギリシャ神話の樹木崇拝にかかわる女神〈ヘレネ―〉が語源だという(Wikipedia)。ヘレネ―といえば、トロイア戦争の原因となったといわれる絶世の美女(樹木信仰はシーモアが木に対してした奇妙な行動の原因、トロイア戦争は「テディ」で使われたモチーフ、詳細後述)。
「他人」で、ヘレンについて、「この顔立ちと体型と声は致命的だ。こんな美に耐性のある男なんてひとりもいないだろう」(104)と絶世の美女であることが強調されているのもそのため。神話ではまさに、〈致命的(英文未確認ですがおそらく)〉な美しさであるというそのことが、男性を狂気に導き、文字通り命を奪う理由になるという考え方がここにはある。
ハムレットにとってのオフィーリア、オセローにとってのデズデモーナ、シーモアにとってのミュリエル、ヴィンセントにとってのヘレンは、究極の女神、ユングがいうところのアニマ。美しさ・純粋さが際立っているほど、身持ちが悪くひどい汚れを併せ持ち、美しさはときに男性を死に追いやるほどの毒に転じる。
16-4 聖俗一致
サリンジャーは『ナイン・ストーリーズ』の「コネティカットのひょこひょこおじさん」でエロイーズという名前の堕落した主人公に「尼さんにでもなろうってんならともかく」(53)といわせ、「ドーミエ」でアベラールとエロイーズの恋愛について語っている。エロイーズは尼でありながら、聖職者で教師のアベラールと恋に落ち子を身ごもった実在の人物。聖性と俗性を併せ持つ女性の象徴。また、「愛らしき」も、アニマの聖俗両面性が描かれた作品だ。
『ロミオとジュリエット』は、主人公二人のどこまでも純粋な恋愛を、ロミオの友人マキューシオやジュリエットの乳母らが道化役となって低俗な性愛表現で茶化し、聖俗のバランスをとりながら進行していく物語。『キャッチャー』には、ホールデンが『ロミオとジュリエット』を読んでいる尼さんと出会い、聖職者と同作について語り合うのは、「いささかばつの悪いことだった。ほら、つまりあの戯曲はところどころでけっこう性的な感じになるし」(188)という場面がある。
対立物の一致、なかでも〈聖俗一致〉は、サリンジャーにとっても重要なテーマのひとつで、初期短編「エディに会えよ」の妹にもみられる。鏡の前で赤い髪(意味は下記参照)を整えるこの主人公は、表面上は妻を持つ男性と付き合う身持ちの悪い女性でありながら、内面には純粋さをあわせ持つことが仄めかされる双面の存在。主要な登場人物が善悪の両面性を併せ持ち、それを鏡写しで表現する手法は、この頃から試みられていた(詳細後述)。これが、シーモアの実像と鏡像への分裂表現につながっている。
善と悪、聖と俗などの二面性を、物語の中であえて別々のキャラクターとして登場させるパターンも多い。神話における天の女神イシュタルと冥界の女神エレシュキガルのように、例えば『キャッチャー』ではジェーンとサリーが、「バナナフィッシュ」ではシャロン・リプシャツとシビルが対比されており、「シャロンをきみだと思うことにしたのさ」(25)という言葉で二人が分身関係であることが示される。
シーモアにとって最高の女神であるミュリエルは、この両方の性質をあわせ持つ人物。これは、ユング派の研究者が原初の象徴的母親像=アニマには必ず、善い面と悪い面を併せ持つと述べることとも呼応する(G)。内面で聖と俗が揺らいでいることが、ミュリエルが足を組んだり片足に体重をかけたりする、未熟なバランス芸となって現れている。
16-5 獣になること
『テンペスト』でゴンザーローが語る楽園論では、女は「ひたすら純粋無垢」「楽園の民は結婚もしないのか?」「するもんか、遊び暮らしてるんだから、淫売と悪党ばかり」(63)という。このセリフからは、純粋さを失っていない女性は本能の領域にいるから、人間的な理性や法で縛られた結婚や貞節といった観念からは遠く、その分だけ奔放だという考え方が読み取れる。聖と俗を見分けるのは、理性や知性を持つ人間だからできること。本能的な感覚で生きる楽園の民にはその区別はない。
「バナナフィッシュ」後半で、シビルに「女の人はどこ?」と訊かれて、若い男は、「美容院かもしれない。毛をミンク色に染めてもらったりして。あるいはお部屋でね、かわいそうな子供たちにあげるお人形を作ってるかもしれない」(23)と答える。
「ミンク色」に毛を染めるのは、人間的な理性の領域から、獣的な本能の領域へ移行すること。『テンペスト』で語られる「結婚」という法的概念を持たない「楽園の民」になることと同義。「ひたすら純粋無垢」である代わりに、貞節という観念を持たない存在になること。獣になることは、聖俗一致の境地へ至ること。
フロリダが楽園であることは既に述べた通り。とすれば、名前を持たぬ若い男=シーモアはアダム、女の人lady/girlはエヴァ。『お気に召すまま』で「女ならだれもが持ってるくらくらするような罪のかずかず」と語られるように、楽園の女性は知恵の実りんごやバナナを食べ、甘い誘惑に負けて、食欲や情欲へ男を誘い掛ける罪深い存在。ミュリエルは、シーモアにバナナを食べよと誘惑する蛇として、マニキュアを塗った指を前後に振る。『リチャード二世』で、「どんなイヴに、どんな蛇に唆されて」(138)と語られるように、両者は本質的には同一のもの。甘い果実も娼婦も、過度に求めることは、肉体的な快楽と精神的な堕落に結び付く。ミュリエルもまた、シーモアにとってのバナナであり、それは致命的な女だということだ。
16-6 二人のマリア
ミュリエルは、精神的には娼婦であるが、実際に浮気をしているわけではない、少々俗っぽく、シーモアを好きなのは、かつてラジオスターだった天才だからというミーハーな動機もあるものの、基本的にはシーモアを愛している。戦争へ行ってしまった恋人を待たずに、他の男性と結婚する女性も多かった当時、ミュリエルはシーモアが戦地から帰ってくるのを待っていた一途な女性。
聖母マリアを思わせる「ブルーのコート」(18)を持っていて、子どもに人形を作る思いやりを持つ、純粋で美しい女性であり、同時に、マグダラのマリアのような娼婦性も持っている。
異端派信仰では、マグダラのマリアを神に仕え、宗教上の儀式として神聖な売春を行ったとされる聖なる娼婦と考える宗派もあるという。〈Spiritual〉は、聖職の、宗教的なという意味を持つ言葉。だから、ミュリエルを指す〈Miss Spiritual Tramp〉という言葉は、聖なる娼婦という意味にもとれる。
また、異端派ではイエスの復活に立ちあったマグダラのマリアはイエスの妻だったと伝えられているという(参考文献下記)。罪を犯したマグダラのマリアをこそ、イエスは赦し、愛するという考え方もあるということだろう。
『オセロー』ではデズデモーナについて「雪よりも白くアラバスターの像よりもなめらかな/あの肌を傷つけるのもよそう」(220)と語られる。アラバスター・雪華石膏は、『マグダラのマリアと聖杯 雪華石膏の壺を持つ女』(マーガレット・スターバード、和泉裕子訳、英知出版、2005年)という書名が示す通り、宗派によってはマグダラのマリア=聖杯を示す表象。
同作で、デズデモーナは貞節な妻だが、夫に殺されるすこし前、一瞬だけ「ロドヴィーゴ―って素敵な人ね」(202)と他の男性に目を奪われる。そして、それに罪悪感をおぼえているかのように「何だか目がかゆい」(203)と訴えたのち、殺されてしまう。これを〈精神的な浮気Spiritual Tramp〉ということもできるだろう。
『オセロー』のデズデモーナ=「バナナフィッシュ」のミュリエルは、純潔=白と、汚れ=娼婦性=黒を併せ持つ究極のアニマ。それは、聖母マリアとマグダラのマリアの重なった姿。〈宗教的売女 Miss Spiritual Tramp〉であり、『キャッチャー』のタイトルにもなっていて、サリンジャーが描き続けた聖杯伝説にも結び付く。
シーモアがイエスに重ねられていることは前述のとおりで、彼の妻ミュリエルは聖母マリア(これについては次回)であると同時に、マグダラのマリアでもある。
マグダラのマリアは伝統的な宗教絵画で緑の衣装をまとい、赤い布をかけていることが多い。これは、ミュリエルが話す「グリーンのドレス」と、シーモアが流す血に重なるだろう。
イエスが血を流し、死んで復活した際にそばにいたマグダラのマリアは、イニシエーションを経て、汚れを浄化し、成長して復活したイエスにとっての第二の母。グリーンの衣装は復活の際に聖俗がイエスの中で包摂・統合されたことの象徴ともなっているのだろう。
ユング心理学において、アニマは男性の無意識の中にある女性的な人格のこと。オセローが勘違いで妻を殺したように、相手への愛が過剰すぎて、逆に不安や嫉妬も膨れ上がり、悲劇へ至る現象に、妻(相手)が実際に貞節かどうかという事実はほとんど関係がない。すべてオセローという永遠の少年の内面の問題で、自分を愛して死んでしまうナルキッソスと何ら変わらない。それをいかに克服するかが、シェイクスピアから受け継いだサリンジャー作品の一つのテーマ。
克服の方法として、「ズーイ」で、兄は妹に、やさしいだけではなく、凶暴性を持つイエスをこそ肯定すべきだと諭す(236)。これは、イエスがマグダラのマリアを妻として愛したという思想と一致するだろう。
『キャッチャー』で、イエスを裏切ったユダをイエスは罰しなかったはずだとホールデンが語るのも、聖性が高い者ほど双面性持つ、あるいは、自らのうちにある汚れや悪を認め、克服・包摂した者ほど高い聖性を身に着けられるという思想がサリンジャー作品にあるがゆえだ(参考:上記リンク[03_赤毛のユダ]と下記)。
『NS』におさめられた他の短編やグラス家サーガでは、自分の中にある汚れや悪を断ち切るのではなく、自分の一部として認め、包摂したうえで、それを克服し、精神的に成長していくべきだという思想が語られていく。
むろんこれは、サリンジャーが異端派信仰に傾倒していたという話ではない。サリンジャーは、自身が描こうとするオイディプス・コンプレックスやそこから発生する精神分裂・倒錯などの現れを、シェイクスピアを経由して、ユングのいう集合的無意識や太古から語られてきた神話の元型に見いだし、自作に活かそうとしていた、そのことが興味深いと思うのだ。
J.D.サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。
J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。