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10_バカは誰か?_ J.D.サリンジャー『バナナフィッシュにうってつけの日』考察


J.D.サリンジャー『バナナフィッシュにうってつけの日』読解をマガジンで連載しています。前の記事を未読の方は、もしよろしければ、01からお楽しみください。

Q.10-1 大勢のバカどもとは誰か?

 『リア王』で、〈道化fool〉は、狂気に陥ったリアを、「王様狂って、いないいないばあ/とうとう阿呆の仲間入りThat such a king should play bo-peep/And go the fools among.」(54)と茶化す。シェイクスピア作品では、狂気に陥ることは、鏡を見て自分といないいないばあをすること、ナルキッソスになること、さらに、道化・阿呆・foolになることとイコール。
 下記でも述べた通り、道化カーニバルの起源は太古の豊饒祭だといわれているから、道化の起源は豊饒祭の主人公であるオシリスら、神話の英雄・永遠の少年・未熟な若者ともつながっている。

 道化のバランス芸は、未熟者・愚者・バカ者・foolの精神的な不安定さや足元の揺らぎを、アクロバット芸は、下記で述べたような地に足がついていないがゆえの未熟者特有の身軽さを、身体能力と笑いの芸術へ昇華させたもの。

 道化が纏うまだら模様の衣装は、相反する価値観に迷って思考がまだらになっていることの表れで、シビルが着ている黄色と青の水着、あるいはホールデンが着ているリバーシブルのコート。それは此岸・現実世界と彼岸・虚構世界に片方ずつ足を踏み入れているということでもあり、道化が冥界の案内人だといわれることとも結びつく。道化がしばしば二人組で現れるのは、彼らが半人前で、引き裂かれた存在だから。二匹で描かれるうお座の魚と同じだ。
 道化のイラストは伝統的に、鏡を持っている姿で描かれる(U・V)。だから、「シーモア・グラス」という名前には、そもそも道化性が内包されている。鏡を見て実像と鏡像に分裂し、自己愛と自己嫌悪の間で揺れ動くナルキッソスは道化、未熟な愚か者なのである。
 『キャッチャー』やシェイクスピアの『ハムレット』が太古の豊饒祭をモチーフにしていることは、前回述べた通り(下記)。

 豊饒際における未熟な若者=道化は、翌年の豊饒を願って大地にばらまかれるいけにえであり、大地は精神の象徴、豊穣は精神的な充実の象徴でもある。
 バフチンがドストエフスキー論で述べた、文学におけるカーニバル化は、シェイクスピア作品・サリンジャー作品では、狂気に陥ること、足・脚を引きずる者になること、道化になることと同義。(ゴダールの『気狂いピエロ』や、ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』や、ピンチョンの〈ヨーヨーダイン〉もこの系譜。これを語りだすときりがないので、詳しくは別途まとめます)。「バナナフィッシュ」で狂気に取りつかれているシーモアもまた、〈道化fool〉である。
 
 「バナナフィッシュ」で、シーモアはタトゥーを「大勢のバカどもa lot of fools」に見られたくないという。この〈fool〉もまた道化。後半でシーモアが名前のない〈若い男〉と呼ばれるように、彼は当時アメリカのいたるところにいた、一般的な帰還兵の代表。シーモアもまた、大勢のバカどもの一人だ。
 イエス・キリストもまた道化であるといわれる。これと同様に、サリンジャー作品において、最も聖性の高いものこそが最も道化的な、愚かに見える振舞いをする(詳しくは「序章」読解にて)。誰よりも愚かで滑稽な者は、ある瞬間に道化的なアクロバット芸で聖者へと反転する可能性を秘めている。
 『キャッチャー』のホールデンの滑稽な振る舞いはしばしば道化的だといわれるし、「序章」ではグラス家の兄弟・両親・先祖ら一族がみな道化として描かれている。サリンジャーは、デビュー作「若者たち」から「ハプワース」まで、主要な登場人物を道化として描き続けている(詳しくは各作品読解にて)。
 サリンジャー作品は、表面的にはホールデンはイノセントで他の大人たちはインチキ、シーモアは聖性を帯びた特別な存在で、シーモア以外は愚か者という風に受け取りたくなる書き方がされていて、誤解されることも多いように思う。けれど、シーモアもホールデンも、自分だけは特別だと思うナルキッソス的な未熟さを抱え、内面ではイノセントでありたい、聖なる存在でありたいと願いながら、気づけば周囲に流されて、愚かでインチキな行動をとってしまい、そんな自分への自己嫌悪と自己愛に日々揺らぎ続けるごく普通の人の代表なのではないだろうか。

 「バナナフィッシュ」には、静かなオーシャン・ルームでピアノを弾く聖なるシーモアと、うるさいバーにいる俗っぽいミュリエルの対比が確かにある。けれど本作において、シーモアとミュリエルの夫婦は、聖餐の皿にのせられた二匹の魚、対で現れる道化のペア、互いが互いの鏡像関係、下記で述べた豆の片割れ同士で、神話やシェイクスピア作品の夫婦と同じように一心同体。最終的に目指されているのは、俗の排除ではなく聖俗の一致である(このテーマについては後述)。

 グラス家の兄弟たちがワイズ・チャイルド、賢い子どもだといわれることも、あらゆる子どもが幼児神・賢者であることの表現(下記参照)として読める。ならば、彼らは特別だが、その特別さは誰もが持つ〈普通の特別さ〉なのであり、この矛盾こそがナルキッソス・foolの心を引き裂く根本的な問題なのだ、という言い方も可能だろう。

 以降のグラス家サーガで、シーモアは聖なる存在として語られていくが、「ズーイ」の結末にあるように、太ったおばさん=どこにでもいる普通の人こそが、聖なる存在であるというのがサリンジャー作品の思想。あなたの隣にいる人、あるいは鏡に映るもう一人のあなたこそが〈道化・愚者 fool〉であり同時に〈聖なる存在〉。それは、誰もが迷いを抱えている魚であり、同時に魚をキャッチする漁師・救世主であることと同じだ。

Q.10-2 シビルがビーチ・ボールに座るのはなぜか?

 シビルが「膨らませた巨大なビーチ・ボールの上に、海の方を向いて落着かなげに腰かけている」(21)というバランス芸も道化の玉乗りであろう。
 さりげなく描かれているだけのビーチ・ボールにまで意味を見出すのは、深読みしすぎと思われるかもしれない。けれど、「ハプワース」で「ジャグリングの練習はさぼらないように!」(212)と記されるなど、一連のグラス家サーガや、「若者たち」(にやにや笑い=道化のデルロイ〈ウィリアムの親友=分身〉がピーナッツ〈意味は『キャッチャー』読解参照〉を投げている)「ドーミエ」「笑い男」「テディ」にみられる道化のジャグリングやバランス芸の描かれ方、サリンジャー作品におけるシェイクスピアからの影響を鑑みれば、ただのビーチ・ボールにも意味を見出す方がむしろ自然な気がしてくるのだ。
 シェイクスピアのグローブ座の旗印は天球(globe)を担いだヘラクレスだったという。これは、神話の円環、シェイクスピア作品にしばしば登場する〈運命の車輪〉(マクベス81など)への連想にもつながる。道化による玉乗りの巧拙は、自分の運命をうまく操れるかどうかを表す、ゆえに、未熟な道化はジャグリングの練習をして、自らの運命を上手にコントロールできるようになるべきなのだ。そしてそれは、〈落下〉している誰かを上手に〈キャッチ〉できるようになること、誰かの〈聖杯〉になることにほかならない(『キャッチャー』読解参照)。
 「バナナフィッシュ」では、シビルが巫女として、シーモアの運命を転がす案内役を担う者。「落着かなげに」というのは、この時点ではまだシーモアの運命が定まっておらず、陸=此岸=現実世界に留まるか、海=彼岸=鏡像世界へ向かうかの迷いの渦中にいる、足元のぐらつく永遠の少年=道化であることを示しているのだろう。

Q.10-3 ミュリエルが指輪を外しているのはなぜか?

 シェイクスピアの『リチャード二世』では、戦争が迫る中、ヨークが従者に、戦費調達と引き換えに「この指輪を持ってゆけ」(80)といって指輪を手放す。これは、輪に象徴される世界の均衡が崩れ、破壊と混沌に包まれようとすることを意味する。
 『ハムレット』で主人公が「この世の箍(関節)が外れてしまった Out of joint./ なんという因果だ、俺が生まれてきたのは、それを正すためだったのか」(68)と嘆くのも同様。輪を止めていた箍がはずれてしまうことは、神話やシェイクスピア作品において、世界が崩壊すること、悲劇が訪れることと同義であり、ハムレット=英雄はそれを正すため(に死ぬため)にこそ生まれてくるのだから、ハムレットの嘆きももっともだ。
 だから、「バナナフィッシュ」前半にさりげなく描かれたミュリエルの「指輪はバスルームに置いたままだった」という記述も同様に、シーモアの正気を保つ箍がはずれ、精神が混乱に陥っていることと読める。この指輪は、世界の調和、神話の円環、シェイクスピアがたびたび描いている運命の輪であり、シビルが腰かけているビーチ・ボールの球体にも結びつく。
 さらに、「バナナフィッシュ」で、『ちびくろサンボ』の「虎があの木の周りをぐるぐる回った?」「ああ、いつまでたっても停らないんじゃないかと思ったね」(27)という記述をはじめ、サリンジャーが繰り返し描いた神話の円環へとつながっていく。これについては下記参照。

 訳者松岡氏は、『ハムレット』に記された現王でハムレットの象徴的父クローディアスのセリフ、「わが国の関節がはずれ、解体したと思ってか Our state to be disjoint and out of frame」(23)と、息子ハムレットの「この世の箍(関節)が外れてしまった Out of joint.」(68)が対になっていると指摘している。「箍」と訳せば円環を思わせるし、「関節」と訳せば、オシリス神話でオシリスをいけにえとして八つ裂きにして、大地に還すイメージにつながる、同作のポイントとなる一節。シェイクスピアは、この両方の意味を込めてこの一節を記したはず。精神が分裂すること、バラバラになり、崩壊し、神話のなかで英雄が象徴的に死ぬことにつながる表現は二度繰り返されることは、下記で述べた通り。

 リルケが人生を円環に例えるときには、円環が完成されないからこその美しさが見出される。「成長する輪の中で私は私の生を生きている/たぶん私は最後の輪を完成することはないだろう/でも 私はそれを試みたいと思っている」(13)。

 このテーマは、下記とあわせて読むことでより深くお楽しみいただけます。こちらもぜひご覧ください。

つづきはこちらから。ぜひご覧ください。

J.D.サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。

J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。

■参考文献
U_『道化の民俗学』山口昌男、ちくま学芸文庫、1993年
V_『道化と錫杖』ウィリアム・ウィルフォード、高山宏訳、白水社、2016年

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