見出し画像

03_NYの広告マン_ J.D.サリンジャー『バナナフィッシュにうってつけの日』解説


 J.D.サリンジャー『バナナフィッシュにうってつけの日』読解をマガジンで連載しています。前の記事を未読の方は、もしよろしければ、01からお楽しみください。

Q.03-1 シーモアはいつ鏡を見たのか?

 シーモア・グラスという名前の男が主人公であるにもかかわらず、「バナナフィッシュ」の作中に、シーモアや他の誰かが鏡を見る場面は一度も出てこない。巫女シビルが、鏡を見たか、と繰り返しているだけ。水際にはいるものの、ナルキッソスが見た泉とは違い、シーモアがいるのは海辺。そこに彼の姿は映らない。
 ミュリエルの母が電話越しにいう「例の窓の一件」(15)という記述から、窓ガラスに映った自分の姿を見て、シーモアが窓に何かした、例えばガラスを割るようなことをした可能性はあるが、あくまでも可能性に留まる。
ホテルのエレベーター、廊下、または部屋に鏡があり、シーモアが死ぬ前にそれを見た可能性はあるが、それを仄めかす記述はない。

 サリンジャー研究者の竹内康浩氏は、本作の後半で、主人公が一度も名前で呼ばれることはなく、「young man 若い男」としか記されていないことを指摘している。「Seymour」という綴りは、後から付け加えられた前半でのみ、彼の名前として登場する。後半では、シビルによる「see more glass? もっと鏡を見る?」という問いかけとして、音は同じだが、意味と綴りの異なる言葉として、繰り返されているのに過ぎない(B)。
 サリンジャー作品では、名前にも意味が込められている。だから、もともとはそれだけで完成とされていた後半で、シーモアが「若い男」とだけ呼ばれているとしたら、サリンジャーは当初、あえて彼を名前のない男として設定したと考えるべきだ。

 名前の欠如は、彼が現実には存在していないこと、虚像=鏡像であることを示しているのではないだろうか。
 『キャッチャー』で、ホールデンが神話の英雄のように、現実にいながら異世界的な空間へ移動し、冥界めぐりをする際に名前を変えたことは下記で示した。「バナナフィッシュ」のシーモアも同じように、鏡像世界に入り込み、名前をうしなって「若い男」になっているのではないだろうか。

 巫女が「more もっと」といっているのなら、若い男=シーモアはこの時点で既に鏡を見た後、あるいは、鏡を見ずして鏡を見ている状態なのではないだろうか。
 もともと、現代版ナルキッソスとして構想した「若い男」の物語に、前半を付け加え、名前を与えることになった際に、巫女の神託「シー・モア・グラス」をそのまま彼の名前とした、と仮定して読みすすめてみるのもありではないだろうか。
 では、鏡を見ずして鏡を見ている状態とは何か。それは、水に映った自分の鏡像に心を奪われて動けなくなってしまったナルキッソスと同じ状態。現実の世界に心を開き、地に足をつけて物事を正しく認識する正気や理性を失い、鏡像、すなわち狂気や本能的な衝動に乗っ取られてしまった精神状態を意味する。これは、前半でミュリエルの母が、「シーモアは完全に自制力を失ってしまう可能性がある」(15)という表現とも符合する。

Q.03-2 NYの広告マンが電話を独占しているのはなぜか?

 前半で、ミュリエルは、夫シーモアについて「マディソン街にお店を出してる」「婦人帽のお店」の親戚ではないか(18)と尋ねられたと電話で話す(18)。
 サリンジャー作品において、〈帽子〉が頭や脳の異常、狂気状態を表すことは、下記で述べた通り。(シーモアの狂気については後述)

 また、始めてホールデン・コールフィールドが登場する、『キャッチャー』のもととなった短編のタイトルは、「マディソン・アヴェニューのはずれでのささいな抵抗 Slight Rebellion Off Madison」。マディソン・アヴェニューは、1920年代から広告産業の代名詞として使われており、富裕層を対象とした高級ブランド店が立ち並ぶ通りでもあるという(Wikipedia)。この短編が書かれたのは戦前の1941年(戦争が激化したため雑誌掲載は1946年まで伸びた)。ニューヨーク育ちのサリンジャーが、作家活動の初期から、マディソン・アヴェニューという通りの名を短編のタイトルに使うほど意識していたことは間違いない。

 初期短編「ロイス・タゲット」には「宣伝係などというのは氷屋と似たようなものだ」(137)という表現がある。広告マンが宣伝で生み出すイメージ、高級ブランド品に付加する価値、そこから生みだされる金銭は、多くの場合、幻想、イリュージョンであり、時間がたてば氷のように溶けてしまう実体のないもの、というほどの意味だろうか。
 もう少し踏み込むなら、『キャッチャー』「逆さまの森」「最後の休暇」「イレイン」など、サリンジャー作品では、氷や凍てつく寒さは、神話の英雄が入り込む冥界・彼岸・異世界・無意識の世界などを意味する。
 でも、本作でシーモアらが滞在しているリゾート地フロリダは、彼らの自宅があるニューヨークよりも温暖な気候。これも先に種明かしをしてしまうなら、「バナナフィッシュ」において、フロリダは楽園・天国として描かれており、サリンジャー作品では、天国と地獄は一瞬で反転可能な彼岸、ということになるのだけれど、この詳細は後述する。
 ここではざっくりと、下記で示した神話の円環の図で、円環の上側、神話の英雄=主人公シーモアがもともといた世界、電話の向こうのニューヨークが此岸。それに対して、下側が温暖な楽園フロリダ(氷の世界や地獄に反転する可能性を秘めた)彼岸・異世界というイメージでとらえていただけると分かりやすいのではないかと思う。

 また、サリンジャー作品において、直接会話に対し、電話や手紙などを通した間接会話は、冥界・彼岸や(集合的)無意識を通じたコミュニケーションを意味する(この詳細も改めて)。
 だから、本作冒頭の「ホテルにはニューヨークの広告マンが九十七人も泊まり込んでいて、長距離電話は彼らが独占したような恰好」という表現は、シーモア、ミュリエル、シビルが宿泊しているホテルおよび海岸一帯が、冥界・彼岸=イリュージョン=虚像世界=鏡の中の世界=無意識の領域であることを示していると思うのだ。

Q03-3 シビルが砂のお城を踏みつけるのはなぜか?

 シビルの母親であるカーペンター夫人は、「ママはホテルに戻って、ハベルさん(Hubbel)の奥さんとマティーニを飲んでくるからね」と言い、母親から解放されたシビルは、「水に浸されて崩れた砂の城(castle)を踏みつけるために足を止め」てから、シーモアのもとへ向かう(22)。
 この「ハベル」「崩れた砂の城」というキーワードは、『聖書』のエピソードのひとつ、〈バベルの塔 Tower of Babel〉の崩壊を指しているのではないだろうか。Hubbelはスペルが変えられているが、see more からSeymourへの変更と同程度で許容範囲。「ハベルさん」という名前は、初期短編「ブルー・メロディー」にも登場し、ここでもやはりバベルの塔の意味を読み取れる(スペル未確認、詳細は「ブルー・メロディー」読解にて)。

 バベルの塔とは、自分たちの力を過信した人間が、神に届く高い塔を建てようとする。それが神の怒りにふれ、人間の傲慢さを戒めるため、神が塔を崩してしまう。それ以来、人々が話す言語も民族によってバラバラになってしまった、という物語。
 シーモアが戦地ドイツから送ったリルケの詩集についての、ミュリエルと母親との会話、「でも、あれはドイツ語ですよ!」「なんなら翻訳を買うとかなんとかして読んだらいいじゃないかって」「まあ、ひどい」(14)というやりとりは、バベルの塔にある、言語が異なるためにコミュニケーションがままならない様子の表現。「エズメ」には、英語にフランス語を混ぜる場面があるし、「序章」では、語り手バディが九か国語を話せると述べ、イタリア語やフランス語など、複数の言語が作中に散りばめられている。これらも同様のモチーフと読める。
 また、シビルが「パパが明日ヒコーキで来るの」(23)という場面で、シビルは「airplane」を「nairiplane」といい間違える。これも言葉の音と意味が崩れる予兆。(このテーマの続きは「エズメ」読解にて)
 
 同じ空間にいながら言語が異なるためにコミュニケーションがままならないことは、精神の荒廃を招く。これはエリオットの『荒地』でも描かれたテーマ(5雷神の言葉「ヒーロニモーはまた気が狂った」の部分_K)。
 言語の城の上にこそ、考え方や世界観は構築されるものだから、バベルの塔=言語の城の崩壊は、その人(ここではシーモア)の内面的な世界観の崩壊、幼いころ、物心がついてから現在までに構築してきた自意識が崩れることの象徴と読める。
 バベルの塔の神話は、前回見たイカロス神話のテーマを、規模を拡大して語ったもの、ともいえる。イカロスがある一人の青年の過剰な自信とその失墜を描いた物語だとすれば、バベルの塔は集団で力を合わせた人間たちの、神に挑もうとする過剰な自信と、その崩壊を語った物語。自分(たち)の力を過信し、傲慢になって天ばかり目指していると、死や破滅の危険があると戒め、地に足の着いた大人になれと諭す話。
 「バナナフィッシュ」で、シビルは巫女として、崩れた砂の城を踏むことで、肥大して実像と鏡像に分裂し、正気を失って狂気に乗っ取られたシーモアの自意識や自我がまもなく崩壊するであろうこと、主人公が死ぬ運命にあることを預言しているわけだ。

 バベルの塔を通して、マディソン・アヴェニューの高層ビルのイメージと、前回(下記リンク)みた、エレベーターでの急上昇が結びつく。空へ突き上げるようにそびえたつスカイスクレーパーは、本作において、イカロスの翼同様、永遠の少年の過剰な自信や傲慢で未熟な精神が、太陽=神=天へ向かって積み上げ、挑もうとする意志の象徴。つまり、バベルの塔。

 傲慢な心が建てたニューヨークの摩天楼=広告的イリュージョンに満ちた拝金主義は、蜜蝋でできた翼や砂の城と同様、やがて神の意志によって溶かされる=巫女に踏まれて崩れ去るかもしれない。ここには、広告産業やニューヨークでの都市生活に潜む精神の荒廃(『キャッチャー』でphonyと呼ばれたものであり、エリオットの『荒地』にも通じるテーマ)を戒める意味も読み込めるだろう。
 さらに、自分の大切な人の命や生活を守るためといった大義名分はあっても、同時に金銭的な豊かさや支配欲を満たす行為に通じる侵略戦争に対する批判の意味もあるだろう。マディソン・アヴェニューが生みだした広告手法は、シーモアが従軍し、彼の精神的な崩壊の大きな原因になっている第二次世界大戦への士気高揚にも大いに利用されたはず。
 サリンジャーは、太古から受け継がれた神話の教えと、自分の戦争体験、当時、アメリカに数多くいた帰還兵たちが抱える精神的な問題を重ね、独特の方法で表現しているのではないだろうか。
 そんなの深読みしすぎでしょ、と思われるかもしれないけれど、ピンチョンも「エントロピー」でマディソン街を同じ意味で使っている。ピンチョンについて語りだすと収拾がつかなくなるのは明らかなので、今は指摘だけにとどめますが、いつかまとめます。

 このテーマは、下記とあわせて読むとより深くお楽しみいただけます。こちらもぜひご覧ください。

つづきはこちらから。ぜひご覧ください。

 J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。


いいなと思ったら応援しよう!