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13_天邪鬼と狂気_J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』考察


こちらのマガジンでは、J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を、聖杯伝説的な側面から読み解いています。前の記事を未読の方は、もしよろしければ、01からお楽しみください。

マガジン_06 から、神話学者のジョーゼフ・キャンベルが『千の顔をもつ英雄』で示した英雄の旅の項目に沿って読み解いています。項目については下記[06_聖杯伝説の構造]をご覧ください。

英雄の旅【イニシエーション】1 試練の道

Q.13-1 ホールデンが同じ人を褒めたりけなしたりするのはなぜか?

 ホールデンはスペンサー先生の行動に対して「とんでもなく汚いやりくちだ」(22)「僕は先生を永遠に許さないだろう」(24)と反発する。一方で、先生が「君を助けたいと思うんだ」ということに対しては、「先生は本気でそう思っていたんだ。それはよくわかってた。(中略)先生に対して悪いなという気持ちが突然すごくこみあげてきた。」(28)と語り、後半ではスペンサー先生のことを「なかなかいい人なんだよ」という(284)。
 ストラドレイターのことも、内実はだらしない(50)と批判しつつ、フレンドリーで気前がいい(48)ことは認めている。サリーの俗っぽさを批判したすぐあとに、彼女に結婚を申し込む(223)。カール・ルースを変態だとののしりながら、「知能指数が高い」「この男にはときどきすごく教えられることがあるんだ」(231)とも述べる(247)。
 アントリーニ先生についても、投身自殺したジェームズ・キャッスルを抱き上げて医務室へ運んだ(295)キャッチャーの資質を持った人物として語るが、(不可抗力とはいえ)眠っているときに額を触られたことに驚いてその場から逃げ出してしまう。ホールデンは後からこの出来事を振り返り、「そのとき僕はゲイっぽいちょっかいを出されたと思ったわけだけど、本当にそうだったのかな? そういうことってなかなか真相が見極めにくいんだよね」(330)と考える。アントリーニ先生が額を触る仕草は「エズメ」などでも書かれた、キリスト教で精霊の力が宿るよう祈る按手や洗礼の仕草にも読めて両義的だ。

 人びとに対する印象の揺らぎもまた、ホールデンの未熟さの象徴、神話における英雄に課された試練。片方に揺らいだ後は必ず反対側への揺り戻しが起こる、愛情が深いほど憎しみも強くなる、というやじろべえのような動きが常に起こる。これは、語られる人物の実際の優劣ではなく、彼らを見る側、ホールデンの方の精神的な揺らぎの表現。
 この愛憎に揺らぐ感覚は、ストラドレイターを憎んでいるにも関わらず、ストラドレイターの行動を逐一チェックせずにはいられないアックリーの心情(44)や、フィービーを好きだからこそ意地悪をしてしまう少年(278)にも通じる。典型的かつ幼稚な天邪鬼。アックリーと話しているとサディスティックな気持ちになる He always brought out the old sadist in me)(41)、フィービーが泣くところを見て嬉しかった(350)と語るように、愛憎はホールデンが冒頭で着ているリバーシブルのコート同様たやすくひっくり返る。
 
 アントリーニ先生宅を飛び出した後は、雑誌を読んで「真剣に」「自分は癌」で「余命せいぜいあと二カ月というところだろう」と「落ち込んでしまった」(332)と語ったすぐ後で、クリスマスでにぎわう街に「なかなかいい気分だった」(334)といい、フィービーとの楽しい思い出を回想し、また次のページでは、「僕にはもうこの通りを向こう側まで渡り切ることができないんじゃないか」(335)と落ち込む。ホールデンのなかに、おそらくはもともとあった躁うつ的な傾向も、物語が進むにしたがって、悪化していくように見える。Q.12や「バナナフィッシュ」読解でも見たように、シェイクスピアに倣うサリンジャー作品では、精神的な浮き沈み、愛憎の急上昇と急降下が精神を蝕む。
 ホールデンがフットボールの試合のような二項対立の勝敗ゲームを拒絶するのは、彼自身が内面的な二項対立の揺らぎに苦しむ未熟者であるからだ。躁うつ的な思考や振舞い、過剰に饒舌なのに大切なことには一切触れない頑なさ、水を出したり止めたりするようなしぐさはその表現といえるだろう。

Q.13-2 ホールデンがハムレットについて語るのはなぜか?

 ホールデンは、サリーの芝居の趣味や、男友達とのやりとりを心の中で批判したすぐ後に、サリーに求婚する(211-224)。この場面は、『ハムレット』で、ハムレットがオフィーリアに「心からお前を愛したこともある」と語った数行後に、「お前を愛したことなどない」(123)と言い放つ場面を想起させる。
 『キャッチャー』で、ホールデンは1948年公開のサー・ローレンス・オリビエ監督・主演の映画『ハムレット』について触れているから、サリーとの場面を『ハムレット』と重ねて読んでも良いだろう。

 ホールデンは映画について、「とびっきりハンサム」なオリビエが「歩いたり決闘をしたりするのを眺めているのは最高だった」が、「DBが話してくれたハムレット像とオリビエとはぜんぜんあっていなかった。オリビエは頭がこんがらがった気の毒な青年というよりは、どっかのお偉い将軍みたいに見えた」(198)と語る。
 ホールデンにとって、『ハムレット』で重要なのは主人公が「頭がこんがらがった気の毒な青年」であること=狂気に陥っているという点。ハムレットは「気違いに戻らなくては」(『ハムレット』シェイクスピア、松岡和子訳、ちくま文庫_134)と、わざと現王と王妃の前で狂気に陥った演技をすることで復讐の機会を狙うわけだが、ハムレット本人も自覚できないままに、演技の狂気と本当の狂気が混ざり合っていくのがひとつの読みどころ。
 ホールデンが映画について、わざわざ「フィービーが気に入ったただひとつの場面は、ハムレットが犬の頭をとんとんと撫でるところだった」(199)と述懐するのは、狂気におちいった状態が、04でみたように神話やシェイクスピア作品において〈頭(の異常)〉や〈獣〉として表現されることが多いからだろう(詳細下記参照)。

 さらに、サリンジャー作品において、狂気に陥ることはオルフェウスになって冥界へくだることとも結びつく。オルフェウスは冥界の入り口で、三つの頭を持つ怪物の犬で冥界の番犬、ケルベロスに会う。「バナナフィッシュ」と合わせて読めば、ハムレット、オルフェウス、ホールデン、シーモアがいずれも狂気に陥った人物として描かれていることがわかる。(シーモアはオルフェウスでもある。詳しくは「バナナフィッシュ」読解にて)
 神話やシェイクスピア作品、それらに倣うサリンジャー作品においては、英雄=主人公は、異世界・彼岸・無意識の深淵を旅しているとき、基本的に正気(意識)を失って一種の狂気のなかにいる。大人としての理性を失って本能的な獣の領域に入ったり、子どもの頃の精神状態に戻ったりしている。さらに、バフチンがカーニバルといったもの、いつもの街が祝祭空間になっていること、日常から非日常へ切り替わっていることともイコール。
 放校になり、行き場を無くしてクリスマスの祝祭ムードに包まれたニューヨークの街を歩き回るホールデンも、一種の狂気のなかにいる。
 シェイクスピアの『オセロー』では、「月が普段より地球に近づくと/人の心が狂うという」(228)と書かれ、『夏の夜の夢』では月の女神フィービーの別名ティターニアが支配する森での夢のような一夜が描かれる。『キャッチャー』でも、フィービーという名の妹が物語の要になっている点も、に陥っていることの象徴ととれる。
 
 ハムレットは「to be or not to be」に象徴されるように、優柔不断で、彼が復讐を決断できず、先延ばしにしたことが悲劇を招く、ゆえに復讐劇としては優れているとはいえないという『ハムレット』批評もあるようだ。しかし、少なくとも、サリンジャー読解から遡って考えるなら、『ハムレット』は、主人公が優柔不断であること、二項対立に迷う姿をこそ味わうべき物語だ。
 『ハムレット』の、オズリック「ひどく暑うございますので」ハムレット「いや、とんでもない、ひどく寒いよ。北風だし」オズリック「ごもっとも、かなり冷えてまいりました」ハムレット「しかし、なんだか蒸し暑いような気もする。僕の体質のせいかな」オズリック「まったく蒸し暑くてかないませんな」(249)という、天邪鬼なハムレットと、なんにでも追従する従臣の滑稽なやりとりにも、状況や立場によって、たやすく揺らぎ惑わされる、弱く浅はかな人心がよく現れている。

 あるいは、『お気に召すまま』で、ロザリンドとシーリアが、オーランドーについて、「髪の毛まで真っ赤な嘘の色してる」(123)「ユダの髪よりいくらか茶色がかってるけど。きっとキスだって裏切り者のユダのキスと同じだわ」(124)と悪口をいった直後に、「ほんとのこと言うと、あの人の髪はいい色よ」「素晴らしい色よ、髪の毛はああいう栗色に限るわね」「それにあの人のキスは聖餐のパンの舌ざわりのように神聖だわ」(124)と褒める場面も、同様の表現だ。
 
 こういった揺らぎ、優柔不断さは、サリンジャー読解、そしておそらくは一部のシェイクスピア読解をも困難にしている要因のひとつ。主人公がある人や物事をほめたたえ、その直後に真逆のことを言うため、読者は混乱し、行動が矛盾している、キャラクターが一貫していない、といった評価がいわれたりもする。
 しかし、サリンジャーやシェイクスピアが参照し、キャンベルが解説している神話の文脈では、良いのか悪いのかの価値判断ができずに二極で揺らぐ精神状態こそが、未熟な若者=楽園を追放された英雄が乗り越えなければならない試練。サリンジャーはそれをシェイクスピア作品から学び、自作に活かしているのではないだろうか。

つづきはこちらから。ぜひご覧ください。

J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。

J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解11~20のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。


■参考文献
『謎解きハムレット』河合祥一朗 ちくま学芸文庫、2016年
 


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