02_蝋は好き?_ J.D.サリンジャー『バナナフィッシュにうってつけの日』考察
J.D.サリンジャー『バナナフィッシュにうってつけの日』読解をマガジンで連載しています。前の記事を未読の方は、もしよろしければ、01からお楽しみください。
Q.02-1 シビルが「蝋は好き?」と尋ねるのはなぜか?
ユング派の研究者フォン・フランツや河合隼雄は、過剰な自己愛から若くして命を落とすキャラクターを、神話の元型のひとつ〈永遠の少年〉として説明している(P・T)。(ユングの元型とは、集合的無意識の領域にある古今東西の人々に普遍的な象徴や類型のようなもの)
永遠の少年は、若く、強く、美しいが、精神的に幼く、自分の能力に過剰な自信を持っており、夢見がちで、刹那的で、慢心ゆえに無茶をして、若くして命を落とす傾向にある。急激な上昇を試みるものの、突然の落下により、墜落して命を落とし、母なる大地に呑み込まれてしまう。ゆえに大人になることができない(P)。『キャッチャー』のホールデンが永遠の少年であることは下記で指摘した通り。
「バナナフィッシュ」におけるシーモアの子どもじみた振る舞いを、永遠の少年と重ねる研究はすでにあるが、未熟な性格を指摘するだけにとどまっているようだ。重要なのは、シーモアが永遠の少年であるという、その初期設定自体に、主人公の死の理由があるということ。作者がそこを起点に作品を構想していること。
ナルキッソスと並び、永遠の少年を描いたもうひとつの神話といえば、イカロス。自分の能力への過信と傲慢さゆえに太陽に近づきすぎ、蜜蝋できた翼が溶け、落下して命を落とす少年の物語だ。
「バナナフィッシュ」にある、「蝋は好き? Do you like wax?」「大好きだね Very much」(28)というシビルとシーモアの謎めいた会話は、イカロスの翼を暗示しているのではないだろうか。蜜蝋の翼は、偉大な太陽=神(=象徴的父)の前ではたちまち溶けてなくなってしまう危うい自我の象徴。シーモアが日焼けを恐れ、色白の肌をバスローブで隠している(20)のは、ひとつにはイカロスにとっての太陽=神を恐れているからと読める。
シビルが「パパが明日ヒコーキで来るの」というのに対し、シーモアは「そうだな、そろそろ来てもいいころだな、きみのパパも。ぼくもね、もう来るだろうもう来るだろうとしょっちゅう思ってたんだ。しょっちゅうだよ」(23)と答える。巫女シビルのパパは、神託を授ける神。永遠の少年イカロスの翼を溶かして海へ突き落す存在が、空から間もなくやって来ることを、シーモアはすでに感じ取っていた。どうやら今日がそれに「うってつけの日 perfect day」であるらしいことを、ここで悟っている。
サリンジャー作品にみられる、ユングおよびユング派の研究者からの影響については、例えば「大工よ」にはブーブーからバディに宛てた手紙の中に「ユングの流れを汲む立派な精神分析の先生に会っています」(16)という表現が出てくること、「ズーイ」で、ズーイがチューリッヒという地名を出しながら、フラニーの夢分析をして見せる場面が明らかにユングの物まね(181)であることを挙げておく。サリンジャーの元奥さんが、後にユング派の研究者となったのも有名な話で、サリンジャー作品のいたるところにユング派からの影響がみられる。これについては別途まとめる。
Q.02-2 シーモアがエレベーターに乗るのはなぜか?
永遠の少年の膨れ上がってはしぼみ、舞い上がっては落ちることを繰り返す不安定な自意識は、神話や物語において、急上昇と急降下を繰り返す翼・飛行機・鳥といったモチーフとして現れる。若者特有の、良くも悪くもエネルギーに満ちた、ふわふわと軽やかで地に足がついていない、浮遊感・高揚感に満ちた精神状態。『ピーター・パン』などのディズニー作品や、宮崎駿監督の映画作品などを思い浮かべると分かりやすいのは、それらに子どもが大人へと成長する過程を描く物語が多いからだろう。
『NS』の「エスキモー」や、戦前(1944年)発表の短編「ふたりの問題」でも登場人物が飛行機工場で働いていたという設定になっており、サリンジャーはこの頃から永遠の少年を飛行のイメージを使って表現しようとしていたようだ。
だから、「バナナフィッシュ」で、シーモアが自殺する前にホテルのエレベーターで五階へと上がるのは、イカロス、永遠の少年が墜落死する直前の、急上昇の表現だと思うのだ。
「バナナフィッシュ」だけを読んで、エレベーターに永遠の少年の急上昇を読み取るのは、少々強引な印象を持たれるかもしれない。けれど、『キャッチャー』で、ホールデンは「エレベーターで上にやられたり下にやられたりしなくちゃならない」(220)ことに嫌悪を示し、「ズーイ」では、バディが手紙で「エレベーター・シャフトに落ちた小さな子供」について言及し(85)、ズーイは母に対して、「気分転換にエレベーターにでも乗ってきたらどうだい?」(155)と言い放つ(この意味は各作品読解にて)。
初期短編「他人」では、戦死したヴィンセントを共に悼んだ後、ヴィンセントの元恋人ヘレンが、生きて帰国したヴィンセントの友人ベイブに、「『上』のベルを鳴らしてちょうだい」「『下』のベルはこわれてるの」という(112)。このセリフには、戦死したヴィンセントが〈下=地獄〉ではなく〈上=天国〉へ行くことへの願いが込められている(詳しくは「他人」読解にて)。
エレベーターは、サリンジャー作品において、ひとつの重要なモチーフ。二十世紀前半にニューヨークで生まれ育ち、次々に摩天楼が建っていくのを目の当たりにしたサリンジャーは、エレベーターを、永遠の少年の精神性を表現する道具として意識的に選び取っている。「バナナフィッシュ」でも、それがさりげなく使われているのである。
つづきはこちらから。ぜひご覧ください。
J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。
■参考文献
P_『影の現象学』河合隼雄
T_『永遠の少年』M-L・フォン・フランツ