父の背中と私の仕事
話が前後するけれど、私は父に大きな借りがある。
アメリカでの大学生活の最後の1年間お金が底を尽きてしまい、何とかお金を工面してもらえないかと泣きついたのだ。
アメリカの大学を卒業したら日本に帰って事業を手伝う。会社への投資と思って卒業するまでの1年間だけ面倒を見てください。
と頭を下げた。これまでのアメリカ生活へ父からの金銭的な援助は一切なく助けを求めたのは初めてだった。
父は事業を経営していた。息子のいない我が家、父は私に会社を継がせようと思っていたらしい。27歳で結婚することになった時の父の第一声は、
お前は社長の座をあきらめて結婚するのか?
だった。これは娘の父親としては異例な反応だったと思う。世の中の父親の多くはさっさと結婚してくれる娘の報告を喜ぶものだ。しかも相手は日本でトップの大学を出たエリートだった。
結婚した私は数年後に離婚して渡米した。父が補助してくれた費用で無事大学を卒業し、アメリカで就職が決まった。ほぼ同時にアメリカ人のボーイフレンドとの結婚の報告にいったら父の大反対にあったのだ。
反対された時は全く気が付かなかったのだが、父にしてみれば、
大学を卒業したら数年アメリカで働いて日本に戻って会社を継いぐはずじゃなかったのか?それなのにアメリカで結婚するとは話が違うじゃないか?
という怒りだったのだと思う。
そのことに気がついたのはそれから数年たって父が義弟(妹の伴侶)に会社を手伝ってくれないか?と頭を下げた時だった。父はついに私のことをあきらめたのだ。
私の方はと言えば、大学卒業したら日本に帰る約束なんぞすっかり忘れ果てて(本当に忘れていた)アメリカ生活を満喫していた。
大反対を受けたボーイフレンドとは結局婚約解消になったが(父の反対が原因ではない)シングルになった生活もまた楽しかった。私が仕事に遊びにとアメリカで充実した生活を送っている間、急激な円高不況に見舞われ父の事業は縮小していった。かなり苦しい思いをしていたはずだが、そんなことは全く知らない親不孝な娘だった。
父は私が小学生の時に会社を興した。
上場企業の会社員だった父はある日会社を辞めてしばらく無職を続けたあとに小さな会社に就職し、ほどなくして自分の会社を始めた。いきなり無職になった時は大変だったと何度も母に言われた。転職した小さな企業から大きなサラリーが出るわけもなく我が家の経済は困窮していた。そんな時に父は会社を立ち上げるというばくちを打ったのだ。
事業は何とか軌道に乗りだしたが、我が家の家計は常にギリギリのところで回っていた。自営業ってそんなものだ。本当に安定して会社が拡大していくまで創業から少なくとも10年はかかる。
中小企業の経営者に休みはない。夏休みには長くて2泊3日で近場の箱根や伊豆に家族旅行が精いっぱいだった。休暇の途中で会社に緊急事態が発生して急遽家に戻ってきたこともある。土曜日出勤は当たり前だった。日曜日だって働くことがよくあった。
そんな父の姿を見て育ったので、会社なんてやるもんじゃないといつも思っていた。会社員は楽ちんだ。定期的にお給料が出て、有給休暇や急病の時のバックアップなど自営では考えられないメリットがある。
それでも時々大企業の歯車になっている自分、そして熱意をもってやっている仕事ではないことに嫌気がさし、自分で事業を立ち上げようかなと考えることもあった。たいていの場合は会社員の気楽さが勝ってしまって、事業を始めようなんてたいそうなことはすぐに忘れてしまっていた。
義弟が後継者として父のもとで働き始めてから10年たった時に父が病気で倒れた。末期のがんで父は84歳になっていた。
病院嫌いな父はギリギリまで病院に行かず、かかったときは完全に手遅れだった。余命6か月から1年と言われた段階でも横浜から東京まで毎日会社に通っていた。それでもどうしようもなく体調が悪化し入院を余儀なくされた。
入院して2日目に会社で客に会う約束をしているからどうしても会社に行きたいと担当医を説得した。外出許可をもらい新橋の病院から日本橋の事務所まで出かけて行った。それが父の40年以上通い続けた会社への最後の出社となった。
その1か月後、宣告されていた余命よりもずいぶん早く父は他界した。会社へ行くことができなくなった父にとってもはや生きる意味はなくなっていたのかもしれない。
私は父が無理をおして病院から会社へ行く姿に心底感動した。
そもそも80代になっても毎日会社へ出勤していたこと自体がすごい上に、余命宣告を受けても会社へ通い続けるバイタリティ。人生の最後の瞬間まで自分が情熱をもって続けてきた仕事があるというのは素晴らしいことだと思った。
父の背中を見て自営業はまっぴらと思っていた私は、父の死にざまをみて会社を立ち上げる準備をしている。昔から性格が似すぎていてぶつかることばかりだった父から、最後にとても大切なことを教えてもらったのだ。
情熱を注げないわりにはペイがよくて手放せなかった現職(テクノロジー業界のアナリスト)とは全く違った分野で、自分が好きで愛情を注げる仕事。アメリカの大自然のすばらしさを私のやり方で伝える仕事をしていこうと思っている。
この仕事をこの世を去る最後の瞬間まで続けていけるような事業に育てていきたい。冬の寒空の中、病院からタクシーに乗って最後の出社を成し遂げた父のように。
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