Mikako

29年前日本での離婚がきっかけで米国へ留学シリコンバレーで就職し定住。これまでのいきさつを綴ってます。本業はITアナリスト。アウトドアのブログ:https://mikakohoshi.org/ くまの思い出ノート: https://note.com/livingonboat

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29年前日本での離婚がきっかけで米国へ留学シリコンバレーで就職し定住。これまでのいきさつを綴ってます。本業はITアナリスト。アウトドアのブログ:https://mikakohoshi.org/ くまの思い出ノート: https://note.com/livingonboat

マガジン

  • 恋愛あれこれ

    アメリカに移住してみて経験した恋愛バナのまとめです。

  • アメリカで働く

    アメリカで就職活動、企業で働くこと、仕事への考え方をまとめています。

  • アメリカが教えてくれたこと

    アメリカに来て驚いたことや学んだことをまとめています。

  • だから私はアメリカへ渡った

    青天のへきれきだった夫の離婚したい宣言からアメリカへ移住するまでのいきさつをまとめています。

最近の記事

不安だらけだったシングルアゲイン生活を乗り切ることができた理由

38歳の夏から夫に出会う42歳の夏までの4年間をシングルとして過ごした。デートもしたし付き合った人たちもいたけれど長続きはせず、ステディな相手に出会うことはなかった。 シングルのほうが気楽でいいし、一人の人に縛られたくないという人もいると思う。でも私は長期で安定した付き合いを続けていきたいいわば犬派。犬はいつでもどこでも飼い主と一緒にいたいわけで、いつも一緒じゃなくてもいいけれど同じ家に帰ることができる相手が欲しいタイプなのだ。 そんな私が4年もの間シングル生活を乗り切る

    • 29年目の夏

      29年前の8月15日、日本からサンフランシスコに到着した。 このノートに書き綴っているけれど、アメリカに来たのは人生を仕切りなおすため。完全崩壊した離婚の痛手から立ち直るために新しい環境に身を置きたかった。(離婚のいきさつはこちらから) 分厚い雲に覆われたサンフランシスコに降り立ってから29年もたったのだ。いろいろなことがあったけれど一つ言えることはこの国に来て本当によかった!ということだ。日本に帰りたいと思ったことは一度もない。 あのまま日本で結婚生活を続けていたらど

      • シングルアゲイン

        ロバ(もとボーイフレンド)と別れて最初の年は、彼と頻繁に会って食事や映画に出かける事が多かった。私たちは完全に友達関係に戻ってゆき、付き合っていたよりもいごこちのよい関係になっていった。冬には一緒にスキー旅行にもいった。私たちは恋人同士や夫婦ではなく、友達や兄弟としての関係であることが自然だったのだと思う。 それでもシングルの生活はきつかった。一人になって一人でご飯を作って食べるって自分には合ってないなと思った。煩わしいから一人の方がいいとシングルを貫いている友達たちがうら

        • ロバとの別れ

          結婚しないなら別れる、と押し切ってついに結婚の約束をさせお互いの家族に報告までした私たちは、その後結局別れることになった。一緒に暮らし始めてから1年近くがたっていた。   別れることに決めた原因はいろいろあるけれど、最も大きなこと、そしてここまで来るずっと前にプライオリティを置くべきだった問題はセックスレスだった。   ロバ(ボーイフレンド)と私は根本的にセックスの相性が悪かった。これはもう最初からわかっていたことだった。多分彼も感じていたのか求めてくることはあまりなかった。

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        • アメリカで働く
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        記事

          悲劇が変えてくれること

          私は今悲しみのどん底にいる。この悲しみは28年前に経験した突然の離婚と同じくらいの深い悲しみで私の人生での悲劇トップ2に入る。 大切な家族だったわんこのくまが突然虹の橋を渡った。朝まで普通に生活していた(ように見えた、少なくとも私には)が翌朝には橋の向こうに行ってしまった。もうすぐ13歳という高齢ではあったのでいつかくるとは覚悟はしていたけどこんなに突然だとは想像もしていなかった。 くまがいなくなって私の世界は180度変わってしまった。 犬でしょう、おおげさ。と思う方も

          悲劇が変えてくれること

          父の背中と私の仕事

          話が前後するけれど、私は父に大きな借りがある。 アメリカでの大学生活の最後の1年間お金が底を尽きてしまい、何とかお金を工面してもらえないかと泣きついたのだ。 アメリカの大学を卒業したら日本に帰って事業を手伝う。会社への投資と思って卒業するまでの1年間だけ面倒を見てください。 と頭を下げた。これまでのアメリカ生活へ父からの金銭的な援助は一切なく助けを求めたのは初めてだった。 父は事業を経営していた。息子のいない我が家、父は私に会社を継がせようと思っていたらしい。27歳で

          父の背中と私の仕事

          結婚なんて不安定なことに頼っちゃダメ

          一緒に暮らすのは嫌だけど別れたくない。 こんな優柔不断な男とはきっぱり別れた方がいい。我慢の限界に達した私は別れる決意を固めた。 これには彼も驚いた様子だった。まさか本当に別れようとしているとは思ってなかったようなのだ。私の行動力を甘く見てもらっては困る。仕事でもプライベートでも行動する力(excecution skills)は私の最大の武器なのだ。 これが功を奏したのか、はたまた無理やり押し切ったのか、ついに一緒に暮らすことを承諾した。別れるよりは一緒に暮らした方がい

          結婚なんて不安定なことに頼っちゃダメ

          中途半端なボーイフレンドとの関係をどうしたものか

          新しい会社での生活は順調に進んでいった。学ばなければならないことは相変わらず山盛りだったし英語の苦労も絶えなかった。でも同僚たちはほとんどがいい人達だったし(意地悪なのが一人いたけど)みなでワイワイ会議室でお昼ご飯を食べたり、外に食べに行ったり。誕生日会も毎月あって部署の仲間が集まってその月の誕生日の人をまとめて祝った(アメリカ式どぎつい色の甘ーいケーキで祝う)まるで日本での会社生活が戻ってきたみたいで会社に行くのは楽しかった。 人生順調に進んでいるなあと感じるとともに、ふ

          中途半端なボーイフレンドとの関係をどうしたものか

          コネクションが大事なアメリカ就職事情

          アメリカで就職活動し今度は企業に入って採用するプロセスを見てきた経験からアメリカの就職で大事だなって思ったのは 仕事探しには自分のネットワークを最大限に生かすべき ということだ。 求人募集へ応募しても履歴書がよほどキラキラと輝いていないかぎり採用側の目に留まるのは難しい。アイビーリーグなど超一流大学を卒業してキャリアを順調に積み上げているような人たちの履歴書はキラキラ光って採用者側の目に留まりやすい。うちの会社でもMITでダブルでマスターデグリーを持っていてセミコンダク

          コネクションが大事なアメリカ就職事情

          通勤渋滞地獄から週1日のリモートワークへ

          ドットコムブームがさらにひどくなってアパートから会社への通勤は至難の業だった。距離にして片道約約67キロ。カリフォルニアの高速道路の制限速度はだいたい100キロなので普通に走れば1時間かからない計算になるが、そんな日はほぼなかった。毎日毎日渋滞を乗り越えて会社へ向かう。ひどいときは片道2時間くらいかかるときもあった。 自転車通勤もやってみた。アムトラックという電車の駅がアパートから自転車で約10分くらいの距離にあった。そこからサンノゼまで電車で行くことができた。自転車は列車

          通勤渋滞地獄から週1日のリモートワークへ

          シリコンバレーでの修行が始まる

          私はエンジニアではないし、テクノロジーに特に興味があるわけでもなく、シリコンバレーに支社があるテクノロジーのリサーチ会社に就職が決まったのは運のなせるわざだ。ドットコムブームで住んでる場所がたまたまシリコンバレーに近かったし大量に資金が投入されているドットコム系の会社の求人が多かったので就職先として狙ってはいたけれどまさかテクノロジー専門のリサーチ会社で働くことになるとは思っていなかった。 テクノロジーの知識がものすごく低い段階での就職だったので、超特急で知識を身に付けなけ

          シリコンバレーでの修行が始まる

          グローバルな職場に感動!

          シリコンバレーでの勤務が始まった。職場は基本的にいい人が多くこの会社で働くように説き伏せてくれたイギリス人が直属の上司になった。Cさんと呼ぼう。会社を紹介してくれた唯一の日本人のKさんもとても良い人で職場をぐるっと一回りして様々な人を紹介してくれた。 会社の本社は東海岸にあり私の勤務先はサンノゼの支社だ。ここの支社だけで400人くらい働いていたと思う。当時の世界各地の全従業員数は4000人くらいだったと思う。それが現在では17000人に膨れ上がった。買収を繰り返して拡大した

          グローバルな職場に感動!

          仕事がキター!就労ビザサポート付き

          就労ビザをサポートしてくれる就職先がなかなか見つからなく焦り始めているときに友達を通じてオンラインバンキングのスタートアップが人を探しているという情報が入った。早速面接に向かう。 20代の日本人男子が作った会社だった。彼が大学生の時に始めたオンライン決済システムの事業に大手からの投資が入った。これから事業が拡大するというタイミングだった。頭の切れる日本人の男の子。私よりも一回り以上若いのに社長ってすごい! 大学生の時に始めたオンライン決済はアダルト系の売買のために開発され

          仕事がキター!就労ビザサポート付き

          就労ビザはサポートできないからそのつもりで、と社長に言われた

          ポータルサイトでの仕事が始まって2か月くらいたってから、社長に呼ばれた。 就労ビザ(H1-Bビザ)を申請するのが大変でエンジニア以外のサポートはしないこと、ゆえに私のビザサポートはできない。 私の仕事ぶりについて、ポータルのマーケは向いてないと思う。 この2点を単刀直入に告げられた。 とてもショックだった。この会社からビザサポートしてもらうつもりでいたのに、サポートの道が閉ざされてしまった。ということはアメリカに残れないということ。 そしてポータルのマーケのこと。確

          就労ビザはサポートできないからそのつもりで、と社長に言われた

          在米日本人向けポータルサイトでの仕事が始まった

          仕事探しで痛感したのはネットワークの大切さだ。公募していてもそこからインタビューまでたどり着けるのはほんの一握り。ものをいうのは”誰かの紹介”。これはどこの国でも共通事項だと思う。 ある時日本人の友達から、アメリカ在住の日本人向けのポータルサイト(ヤフーなどのように様々な情報や機能がまとめてあるトップページを持つサイト)でマーケのスタッフを探している、という情報をもらった。 さっそく彼女に紹介してもらってオフィスを訪ねた。 アップルのスティーブジョブズが住んでいたパロア

          在米日本人向けポータルサイトでの仕事が始まった

          大学卒業後に1年間働くことができるプラクティカルトレーニングというありがたい制度

          留学生のためのお助け労働許可制度、プラクティカルトレーニング アメリカでは、留学生が働くことはほぼ禁止されている。特例として学校内の図書館やカフェなど一部での仕事は許されているが、基本は働けないと考えた方がよい。 ただし大学を卒業したあと1年間の猶予つきで取得した学部に関連した職業に限り仕事をすることができる制度がある。これはプラクティカルトレーニング(Practical Training)という制度でアメリカで就職を希望する留学生にとっては本当にありがたい制度だ。 こ

          大学卒業後に1年間働くことができるプラクティカルトレーニングというありがたい制度