『アルケミスト』と『それは在る』―大いなる知恵は同じことを伝えてくる
『アルケミスト 夢を旅した少年』(パウロ・コエーリョ著)を読んだ。ようやく読むときが来たんだなという印象だ。
友人がメルマガでアルケミー(錬金術)という言葉を使っていて、この本の存在を思い出し、買ったけれど読んでいなかったのをひっぱりだした。すべてはベストのタイミングでおこる。まさにその通り。
たぶん去年読んでいたら、今読み取ったことは表層でしか理解できなかっただろう。今も表層だろうけれど、それよりもっと浅い、スピリチュアルなファンタジーぐらいに受け取ったかもしれない。
『それは在る』を読んだ今だから、少年の旅の経験が象徴しているものが分かる。
砂漠での少年と彼の心との対話はまさに、今の自分と思考との対話と同じだ。思考にとらわれず真我に触れるために思考をスルーする。それを訓練のようにやってきたけれど。少年は心の声を聴き続けた。やがて心は友となった。
四六時中、思考はかたりかけてくる。それは外側で起きていることをドラマ化する自我の罠。悪、とすら思っていたけれど。
思考が生まれてくるところは真我の真空地帯。であるなら、思考は真我の入り口でもある。思考は敵ではなかったのだ。
キリストの荒野での修行のイメージとも重なる。彼はこの間に悪魔を追い払う。そしてその悪魔とはつまり自我のドラマに引き込もうとする思考の象徴。
少年が砂漠で対話した心もはじめは同じように自我のドラマにとどまらせようとする悪魔と同じだった。でもずっと聞き続けたら心は静かになった。
そういうことが起こるのか。
冬至の直前に、この自我のドラマを手放す旅の長いファーストステップが締めくくられたのかもしれない。