HSPという概念に縛られないこと。囚われないこと。
昨年辺りからこのHSPと言うワードをよく耳にするようになり、私自身もこの気質に当てはまることが分かった。それによって今までの生きづらさの理由が明確になり、色々なことが腑に落ちて、私はとてもすっきりとした。そして、その対処法や過ごし方のコツなどを考えるようになり、このnoteでも何度か書いている。
それから1年ほど経って思うことがある。私は、Stand.fm(通称スタエフ)という音声アプリを利用しているのだけれど、そこで出会う人の中には、HSPの方がとても多く見受けられる。5人に1人はこの気質に当てはまるのだから、当然なのかもしれない。そして私は中でもHSS型HSPという分類で、こちらは20人に1人の割合らしい。これは刺激探求型な繊細さんなので、好奇心旺盛のこのタイプの人には、より楽しみやすいツールなのかもしれない。
スタエフの中に居ると、あちこちでHSPをプロフィールに書いている方を見かけ、何となく仲間意識のようなものが湧く。特により少ないHSS型ともなると余計にだ。
けれど、ここに落とし穴があると気付いたのはつい最近のこと・・・。
同じくHSPの友人との話題の中で気付かされたのだけれど、人には十人十色、色々なタイプの人が居るのだから、HSPだって皆同じではない。似たような繊細な感性を持っては居るのだろうけれど、100%同じではない。人によって、得意部分と苦手部分がある。
結論から言うと、HSPだからと言って、誰の気持ちも察することが出来る能力があるのではない。ここを勘違いして、察してもらえると思ったら痛い目に遭う。
HSPの人にも色々な人が居る。ましてやこれは、チェック項目を自分で診断するものであって、病気でもないし障害でもないので、医師の診断ではなく、あくまでも自己診断だ。ある人が自分はHSS型HSPだと名乗っていても、自分と同じタイプとは限らない。人の性格なんて、そんな一部の気質だけで成り立っているものではなく、生きて来た環境や今置かれている状況によっても、その気質の出方は違う。
人の気持ちを察する能力がHSPではない人に比べて長けているはずだけれど、そこを過信してはいけないし、変な仲間意識で相手に期待してもいけない。
あくまでも人は人。自分は自分。合う人とは合うし、合わない人とは合わない。相手の方がHSPの気質を持っているからと、気を使い過ぎて私は痛い目にあったのだけれど、それは私の不徳の致すところだ。相手はなんとも思ってはいないかもしれない。
自分の特性としてHSS型HSPの気質があると知ることで、自分の生きづらかった部分には理由付けが出来てラクになった。母から、「あんたは育てにくい子」と言われたことも今では納得出来る。その点では参考にして良いと思うけれど、対人関係にこれを持ち込むのは違うような気がしている。例えば、HSPあるあるみたいな話で、私だけではないんだ、これはこの気質のせいなんだ、と共感した時は楽しい。けれど、だからどうだと言う話でもなく、HSP同士で徒党を組みたい気持ちにもならない。何故ならHSP同士でもきっとラクではないから。
ちなみにこの気質は、遺伝ではないらしいけれど、どこまで科学的に証明されているのかな?少なくとも私の母はHSPではないだろうけれど(笑)
私自身はこれを最大の長所と受け止めて、人の気持ちに寄り添える優しい人でありたい。