長岡天満宮☆記憶の中で鈍色だった京都に初めて鮮やかな光が降り注ぐ
先日、京都は長岡京市にある長岡天満宮に行ってきました。
菅原道真が左遷される際、かつて在原業平と遊んだこの地に立ち寄り、自作の木像をお祀りしたのが創立と言われています。
創立年月は不明ですが、京都における先の戦争(=応仁の乱)で兵火に罹り社殿が消失し、明応7年(1498)に再建した記録があるとのことー
長岡京という土地柄日本の歴史とも大きな関わりのある長岡天満宮。
実は私の個人的な歴史とも関わりがあったりします。
この地を舞台とした陰と陽との物語が開幕!?
なんて🤭
(参拝した日:2025-1-8)
🔶天神さんとのご縁
実は長岡京には個人的な因縁・・・もとい縁があります。
10年以上前に他界した父方の祖母が長く住んでいました。今でも父の兄弟などの親戚が居住しています。
昨年、父の郷里である兵庫県豊岡市へ青春18きっぷを利用して旅しておりますがー
私が生まれる前に祖母はこの豊岡から長岡京へ居を移しており、私にとって長岡京、ひいては京都は長らく「祖母の住む地」でした。
祖母が存命中、長岡天満宮には何度も来ました。
成人する年(もちろん二十歳で成人する時代ですっ)に振袖で着たこともあります。
最後に訪れたのは、記憶にある限り祖母が亡くなった年ではないかと。
そうなると十数年ぶりの参拝となります。
地元では「天神さん」の愛称で親しまれている長岡天満宮。
私の親戚も、そして祖母もそう呼んでいました。
この記事でも以降は天神さんとお呼びしたいと思います。
🔶本殿に参拝☆成人する歳に振袖で上ったあの階段
天神さんの最寄り駅は阪急京都線 長岡天神駅。
京都までは父の運転する車で来ていたので、この駅はほとんど使ったことがありません。
徒歩10分ほどで天神さんに到着。
正面大鳥居を階段の下から仰ぎ見ます。
大鳥居を別アングルから。
大きな脚部が印象的ですね。
描かれているのは紅白の梅と金銀の枝。
天神さんはキリシマツツジの名所として有名です。
今はまだ地中で英気を蓄えているところ。
見頃の4月になると小路の両端が真紅に染まります。
ところで天神さん、階段が多いです。
いくつもの階段を上り、ご本殿に到着です。
この本殿横にも駐車場があり、混んでいない時はその駐車場まで車で連れてきてもらっていました。
そのため下から階段を上がって来た回数はそれほど多くありません。
ですが成人する年はお正月に来たため、本殿横の駐車場は満車。
初詣客で大いに賑わう中、振袖に履き慣れない草履で下から階段を上りました。けっこう大変だった想い出。。笑
そういうわけで成人する年も参拝したにも関わらず、ずいぶん久しぶりのお参りとなってしまいました。
しっかり手を合わせます。
(・・・ご無沙汰してしまいました。あれから色々ありました)
さて本殿に向かって右手側が駐車場ですが、左手側を見ると・・・
長岡稲荷に続く階段です。
天神の杜の中、静かで厳かな雰囲気です。
お参りを終えて別の階段を降りー
降りてきた階段を振り返ります。
次は境内の東側に広がる八条が池へ回ってみましょう。
🔶八条が池☆キラキラ輝く水面・青い空・白い月
八条が池は寛永15年(1638)に八条宮智忠親王によって築造されました。
外周が1kmに及ぶ溜め池です。
風の強い日。
波立つ水面が陽の光を浴びて輝いています。
後述しますが京都は私にとって色彩のない街でした。
記憶の中の天神さんも暗い鈍色。
一昨年、たまたまSNSで天神さんを撮影した写真を見て、こんなに美しいところだったのかと驚いたんですよね。
十年以上ぶり。
初めて一人で来た天神さん。
美しさに笑ってしまいます。
水上橋を渡ります。
八条が池は中央参道で二分されています。
再び中央参道へ戻り、その向こう側へ行ってみます。
池の上にせり出す建物は錦水亭という懐石料理店です。
こちらの代名詞は「たけのこ料理」とのこと。
父は豊岡の田舎に山を所有しており、春になると墓掃除を兼ねて山へ行き、食べきれないほどのたけのこを掘ったものです。
それも今は昔、たけのこ料理なんて久しく食べていないなぁ。
さて、長岡京ではほかにも行きたいところがあります。
天神さんはそろそろお暇しましょう。
帰りしなに見ると、大鳥居の横に白い月が浮かんでいました。
ありがとう天神さん。きっと、また来ます。
🔶「陰」の時間が溶け、初めて京都に色彩を見る
久々に訪れた天神さんの美しさに感動しつつ、ところどころダークな影が横切っていること、お気づきですよね。
ここからは家族のダークな話しです。
陰と陽の「陰」の部分とでも申しましょうか。
「陽」だけで充分!
という方はここまでにしてください。
あ、ここまででも「スキ」を押して下さってもちろんかまいませんよ。立ち去り際にぜひ笑
京都は父方の祖母の住まう地でしたが、その祖母がなかなかの曲者でした。
田舎の地主に嫁いだものの、夫が戦死。
父含む四人の子どもたちを女手一つで育てた苦労人でもあるのですが。
旧家のプライドがあり、鹿児島の離島出身の母を嫁としてなかなか認められなかったんですよね。
父も正直アレなもので、両親の中は険悪。
そのことを知っている祖母はまだ幼稚園生くらいだった私に
「あんたがおらへんかったら、二人を別れさすのに」
と直接言うような人でした。
呼びかけても返事をしてもらえないこともしょっちゅうで。
返事がないからと何度も呼びかけていると「うるさい」と言われてしまう始末。
「いらない子扱い」をひしひしと感じていたので、祖母のことが本当に苦手でした。
祖母をはじめ父の兄弟も京都に住んでいて、兄弟仲の良い彼らはしょっちゅう集まっており、私もよく京都に連れていかれたものです。
けれど私は本当に京都が苦手でした。
京都に行くと思うと、お腹が痛くなるくらい。
天神さん含め、記憶の中の京都の景色は本当に鈍色なんですよね。
十数年前に祖母が亡くなり、一昨年父が亡くなり、初めて一人で来た天神さん。
ようやくその美しさを見ることが出来ました。
そこで、今まで思い至らなかったことに一つ気づいたんです。
京都以外の風景は、なんて鮮やかに記憶に残っているんだろう、って。
祖母に対する感情はただただ「苦手」で会いたくない人でした。
亡くなって会うことがなくなり、すべての感情は薄れ「無」に近いです。
対する父はと言うと、DV、女遊び(この言葉には抵抗がありますが)、タバコを1日200本吸う超ヘビースモーカー(1カートンです。話すと皆に驚かれますが本当です。ちなみに私も母も喘息持ちです)、仕事後は毎晩閉店時間までパチンコ屋に入り浸り、、その他諸々。
気性が荒く、燃え盛る炎のような人でした。
同じ屋根の下で暮らした20年間を思い返すと、「苛烈」という表現が浮かびます。
でもどの瞬間も、記憶の中の光景は本当に色鮮やかです。
母が父の暴力から逃げて、私を連れてシェルター(当時は「◯◯の家」という駆け込み寺のような感じでした)へ向かう時でさえ、バスの窓から見えていた街路樹の緑が美しかったことを覚えています。
振り返るとすべては美しい夢だったような光景。
祖母にとって私はいらない子で、だから私の中の京都に色彩がないのだとしたら、両親にとって私は少なくともいらない子ではなかった。
両親に対して思うところは色々ありますが、世界に美しさを見つけられる私に育ててくれたことには感謝しています。
🪷🪷🪷
ところで長岡京で天神さんとは別に行きたかったところ。
それはスーパーです。
長岡京で一番記憶に残っているのは天神さんではなくスーパーなんです。
祖母の家に行くと、私たちは「お仕えする」ポジションで、祖母の気に入るような料理を作らないといけませんでした。
私は子どもだったので、主に作っていたのは母ですが。
私も手伝っていて、まずはスーパーに行って食材の買い出しをすることからスタートでした。
一番よく行った小さめのスーパーはなくなってしまったのか、場所が分からず。
次に記憶に残っているイズミヤに行きました。
辛い記憶に彩られた長岡京。
小説やドラマだと、誰かの忘れていったボールの転がる人のいない公園なんかが出てきそうじゃないですか?
でも現実はイズミヤです。
リアルだなぁ。
って、我が事ながら思います。
ずいぶん長くなってしまいました。
ここまでご覧くださり、本当にありがとうございます!!
時々、本当にすべては夢だったんじゃないかと思う時があります。
けれど時々、色々なことがリアルな現実感を伴って蘇ります。
きっと私の思い違いも含まれていて、誰の中にも見えない心があったでしょう。
多くのことが混沌としたまま時間の中に溶け、一部は死者が黄泉の国へ持っていってしまいました。
さて、いま現実的に対処しないといけないのは、以前から書いている母の介護のことです。
去年の6月に骨折、入院からの施設入所しましたが、2週間ほど前、外出して2時間ほど自宅で過ごしました。
次は外泊に進みます。
そのために居宅のケアマネさんを探し、介護ベッドと酸素の機材を入れる必要があります(母は24時間、鼻から酸素を入れていて、要介護4です)
施設の方々とのやり取りも活発化しています。
現実は待った無し!
がんばらないとなぁ。
そんなわけでnoteはマイペースに。
相変わらず次の予定は未定ですが、また様子を見に来ていただけると嬉しいです😃
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