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強くなくてもいいけど

『お前、泣かなくなったよな』
小学校5、6年の頃、給食当番をしており、おかずを盛り付けていた時に、クラスの男の子から言われた。
『昔は、はさみが使えないとかですぐ泣いてたのに』
『はさみが使えない』は、不器用が故に綺麗に紙を切れない、という意味だ。ちなみに、26歳になった今もそんなに得意じゃない。カッターなんて、特に。今日なんて、段ボールをカッターで開封する際、手前にカッターを引いたせいで、親指にうっすら傷がつきました。危ない。
今、それ言う?というのが率直な感想だった。周りの人も聞いてたし。それなりに恥ずかしかった。肝心なおかずは何だったかはすっかり忘れたし、そもそも汁物担当だったのか、デザート担当だったか、それすらも朧げだが、彼からそう言われたことは覚えている。困った私は、はあ、とやる気のない返事をするしかなかった。おかず大盛りサービスするくらい、しておけばよかった。

当時通っていた小学校は、1クラスのみで、6年間クラスメイトが変わらない。よって、卒業まで同じ教室で過ごす。私は当時からそんなに異性と積極的に話す方ではなかったが、彼は、私のことを、1年生の頃と比べて、泣かなくなった、と成長を感じてくれていたようだ。実際、高学年になると、すぐ泣くことはなくなった。それなりに悩みはあったけど、泣くほどではなかった。
ここでふと、とんでもなく恐ろしいことに気がつく。

大人になった、今の方が泣き虫なんじゃない?

最近泣いたのは、今月頭。人間関係で悩み、家族にLINEで気持ちをぶつけ、車の中でひとり泣いた。こうなると、私は堕ちるとこまで落ちる。もう這い上がれないような気持ちになる。
しかし、翌日、私は死んでもいなかったし、気を失うこともなかった。また、いつもの日常を過ごすだけだった。仕事がたまたま休みだったため、ひたすら家の中でダラダラ過ごし、夕方に家を出、おろしたての服を着て、ひとりで鎌倉パスタを食べた。外食しても、好きな服着ても、満たされない。気持ちは沈んだまま。何とかしたかった。死にたいと思うことを当たり前にしたくなかったし、前向きでいられる時間が長い方が、やはりいい。何とかしたかった私は、本屋へ寄り、『心療内科が教える 本当の休み方』という本を買い、読むことにした。ここに、今の自分を変えられる方法が書いてあるに違いない。

2、3日かけて読み終え、読み終えるとともに、自分がどんな風に休みたいかがクリアになってきた。本作品は、簡単に説明すると「人には人の休み方があって、自分にあった休み方をするのが大事」といった内容が記載されている。なぜストレスは溜まるのか、なぜそのストレスが解消できないのか、も明記されていて、うつ病、とまでいかなくても、なんか最近、やる気ないな、と悩んでいる人にもおすすめしたい。体を動かすことがストレス解消になる人もいれば、誰かと会うことで満たされる人もいる。私は、家族や友人と過ごす時間も好きだが、クリエイティブなことをしている時間が、ストレス解消につながるし、変な言い方になるけど、「みなぎる」のだ。
そのひとつとして、noteの投稿がある。なんで1か月も期間が空いてしまったんだ、書きたいなら書けばよかっただろ、と思う。
ここ最近のnoteの投稿は、「ZINEに載せるための投稿」になっていた。今回は、noteを開設した当時のように、今の感情をそのまま書いている。noteにはおそらく載せない。載せるために書かない。そんな時もあっていいだろう。文章を書くことが好きだ。だったら、書こう。書きたいことがある、という、とても幸せな現状を、ホカホカのうちに抱きしめて、温もりを感じながら、書きたいことを書く。これが、私の、休み方だ。

休み方もろくにわからず、泣けばスッキリするわけでもないのに暗い車内で泣く。小学校の頃の自分がその事実を知ったら、がっかりするだろう。よく、SNSで自身の誕生日の投稿をする際、「〇〇歳ってもっと大人だと思っていた」という文章を添える人がいるが、私こそ、まさにそれだ。26歳って、もっと大人だと思っていた。自分の機嫌を自分で取り、そんなに泣かず、泣くとしても、美しい景色とか、心温まる映画でしっとりと涙をこぼすのが、大人だと思っていた。もしかして、11、2歳の頃の方が、大人だった?

そんなことはない、と思いたい。当時と今では、置かれている立場や環境が違いすぎる。私の心は、色々な人と関わったり、失敗を繰り返したり、社会に揉まれたりしながら、どんどんすり減っていった。ここで鍛えられるどころか、臆病になっていった。世の中の人間が、どれだけ強いか、その相場はもちろんわからないし、自分が特別な人間だとはあまり言いたくない。しかし、ちょっとでもキツい言い方されたり、自分が言われたくないことを言われたりするたびに、もうだめだ、と本気で思ってしまう。頭が真っ白になる。言葉がすらすら浮かばなくなる。小学校の頃、下敷きを曲げて、歪ませて遊んだいた。頑丈な下敷きは、何度歪ませても元に戻るのだが、曲がった跡がくっきり残ったのが、今の私だ。癖がついてしまった。傷つく、癖。
癖を治すのに、どれくらいの時間を要するか。もう少し、年を重ねたら、図太くなれるのだろうか。強くなりたい、と思うことが増えたが、強くなれなくても、曲がったままでなく、しなやかに、すぐに元に戻れる人間になりたい。
そのためにやらなくてはいけないことは山のようにあるが、小学校の頃の自分を思い返して、あることに気がついた。弱い自分というレッテルを、剥がしてもいいのでは?自分は打たれ弱く情けないという思い込みをやめてみる。小学校の自分は、今ほど自分が非力だと思わなかったはずだ。強い人間ではないけど、そこまで弱くない、と念力を唱えるだけで、背筋が伸びていくように感じる。

泣かなくなったな、と変化に気づいてくれる人は、貴重な存在だった。当時は6年間、みんな同じ教室で過ごしていたから、自然とそんな変化に気づくものだが、あの時のように、ずっと同じ時間を共有する人は、他にいるかな。強いていうなら、職場の人達だろうか。私は、今でもポンコツだが、客観的に見たら、できる仕事が増えた。毎日、業務に追われているため、「あなた、しっかりしてきたね」と褒めてもらえる機会は、そうそうない。ただ、たまには、自分で、そう褒めてあげたい。
30歳になった私が、26歳の頃を振り返り、「みどちゃん、泣かなくなったね」と声をかけてあげられるように、できることを、ひとつずつ片付けていくのみだ。


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