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攻略できないから無理ゲーなんだ(この世は所詮ヴァーチャル)


橘 玲『裏道を行け ディストピア世界をHACKする』

 先日買った橘玲の『裏道を行け ディストピア世界をHACKする』を一日で読み終えてしまった(この記事は、2022年5月7日に別ブログに投稿したものを転載、加筆修正したものです)。現在、仕事がそれほど忙しくないとは言え、中身があまりに薄いというか、これまでの焼き回し感が非常に強い。一応は前作の『無理ゲー社会』の続編のようだが、発展性が全くなく、お得意のネタを披露しただけの自己満足にすぎない。

 現代のこの社会は多くの者にとって、理不尽な親ガチャで生まれ、攻略不能の無理ゲーであるという筆者の主張はその通りであると思う。それは言葉は違えど『言ってはいけない』シリーズの頃から一貫している。しかし『言ってはいけない』シリーズの頃はまだ、綺麗事で覆い隠された残酷な現実を直視し、それを覆い隠そうとする気持ちの悪いエセ民主主義の不毛性を(告発とまではいかないが)暴露し、社会に向けて少しはまともで建設的な提言をしようと努力していたような気がする。ところがこれは、「裏道を行け」とは言うが、誰のために言っているのであろうか?

 彼はまず、金も能力もない非モテのために、恋愛工学と称して心理学などを駆使しナンパの技術を完成させ成功した(そして彼らにとっての最大の「成功」である「性交」しまくった)自称Pick Up Artist (PUA)という男たちの例を挙げる。(この非モテ、アメリカでは incel インセルと呼ぶらしい。これは involuntary celibate: 非自発的禁欲主義者の略で、アメリカでは、このインセル達が女性に相手にされないことで社会に恨みを抱き引き起こす無差別殺人が頻発し、大きな社会問題となっている。これはもはや日本にとっても対岸の火事ではなく、昨年(2021年)8月に起きた小田急線無差別刺傷事件などは所謂インセルによるものである。)だが、もちろん彼らPUAの最終目標は他者との精神的な深い繋がりなどでは全くなく、ただただナンパ→手っ取り早いセックスにすぎない。そのために彼らが相手にする女性の多くは自尊心や自己肯定感の低い、メンタルを病んだモデル、風俗、水商売などの女性達であり、その手練手管は極言すれば人の弱味に付け込んだ汚ないやり方であり、それが幸福な結婚生活や心身ともに充実したパートナーシップに結びつくはずがないのは火を見るよりも明らかであろう。(私は何も、風俗、水商売などの女性達とでは幸せになれないなどと言っているのではない。そこのところ、宜しく。)

 恋愛工学のお次は金融工学である。彼は、宝くじを引き当てるよりも低い確率で天才的な数学的才能を持って生まれた者が、金融工学で信じられないほどの資産を形成しビリオネアとなった天才たちの例をあげる。しかし、コンピューターと高度な数学を駆使し、巨額の資金を投資することで薄い利ザヤでも莫大な利益を上げるような、今さら感満載のヘッジファンドの話など、そこそこ裕福な者にとってさえ夢物語であり、理不尽な親ガチャで能力にも財産にも恵まれず生まれついた数多くの「下級国民」にとって、どれほどの参考になるというのだろうか?バカにするのもイイ加減にしろという声が返ってきそうである。

 そしてお次は、これも今さらの自己啓発運動。その起源に関する薀蓄や今では手垢にまみれたマズロー心理学の講釈を垂れた後、彼は、内実は洗脳カルト宗教やスピリチュアルにすぎない自己啓発運動で迷える罪無き、いやむしろ罪と煩悩にまみれた民を騙し、洗脳し「充実した生きがい」に導き、大成功をおさめ大金持ちとなった者たちの例を挙げる。そして最後に、今はやりのVR、拡張現実、メタバース、人間のサイボーク化などの話を始める。これが「何を今さら」の極め付け、本当にそんなこと思ってんの? と言いたくなるほど議論の浅い代物。

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 (ここから少し長い脱線になるが)この辺は映画が最もお得意とするテーマであろう。昔から面白く示唆に富む作品が無数にある。巷ではあまり評価は高くはないが映画紹介ということで(「マトリックス」などのあまりに有名なものを取り上げても仕方ない)私の好きな映画から二つほど紹介する。一つはブルース・ウィリス主演の『サロゲート (2009年)』、もう一つは『惑星ソラリス』の原作者スタニスワフ・レムの『泰平ヨンの未来学会議 (1971年)』を映画化した『コングレス未来学会議 (2013年)』というもの。そのどちらも今もてはやされているVR、拡張現実、メタバースなどの行き着く先がまさに暗澹たるディストピアでしかないことをすでに描き切っていて秀逸である。

 『サロゲート』は、脳波で遠隔操作する理想化された自分の身代わりロボット=サロゲートが、現実世界で仕事をし、社会生活を営み、恋愛し、セックスまでする(セックスの直接的描写はない)という映画。人間は家で寝そべりながらそれを脳内で疑似体験するだけ。つまりセックスする場合、実際にセックスするのは人間そっくりのロボット同士であり、人間はロボットから送られた電気的信号を脳内で再構成し、すべてを現実さながらにリアルに感じ取るのである。つまり本人は本物のムチムチの女を相手に本当にセックスをしている気分になるのであるが、実際には相手は醜悪な老婆かもしれないのである。向こうにしても同じことで、こちらが筋骨隆々としたイケメンに見えているが、実際には80過ぎのヨボヨボの薄汚ないじじいなのである。相手が魅力的な若い女性に見えているが実際はババアというならまだマシで、ミニスカートでムチムチのその若い女のサロゲートを操っているのが、実際には中年のメタボの変態親爺ということもあり得る。これは吐き気を催しそうであると同時に、哲学的に掘り下げてみると非常に面白い問題にも発展しそうであるが、よくよく考えてみると、結局、夢の中でエッチなことをして夢精するのと大差ないのではないかとも思える。(じゃあ女性の場合はどうなんだ、ということであるが、夢精は女性の場合は稀であるとされているが、最近の研究によると、睡眠中にオーガズムに達する所謂「夢イキ」はごく一般的なことであり、約40%の女性が経験しているという。ただ、普通の夢同様、起きた頃にはほとんど忘れてしまっているだけらしい。)

 話がセックスに偏ってしまっているが、それはもちろん私がスケベおやじであるからだが、それだけではなく、人間のセックスは単なる動物の繁殖行為とは異なり、社会的精神的または政治的な面すら含めてあらゆる面で優れて人間的な営みであるからだが、いや、やっぱり、私がドスケベおやじであるからだが、まぁ、これからの人間の未来社会の鍵の一つであるVRやら拡張現実やらメタバースの本質が夢精や夢イキと大差ないというのであれば何とも情ない話だが、その程度のことで済むなら逆にほっとする。しかし果たしてそうだろうか?そうではあるまい。快楽、利便性、嫌な現実からの逃避という理由であまりにも容易く、直接的に五感で体験する世界を譲り渡し、それが常態化してしまえば、何か取り返しのつかない重大な結果に繋がってしまうのではないかという気がする。

 もちろんこの現実と云えども100%生の現実などというものはあり得ない。人間が見たり感じたりしているそれは人間の五感によって切り取られた現実の一部でしかなく、たとえば視覚にしても聴覚にしても、その可視領域や可聴領域は非常に僅かな範囲にすぎない。しかも、その僅かなものすら、現実を素直に反映したものではない。脳が勝手に物理世界に存在しない匂いとか色とか音という、脳科学や心理学、神経科学などでクオリアと呼ばれるものを生み出し、それを使って再構成、再創造したものにすぎないのである。(あなたは考えてみたことがあるだろうか?深い鬱蒼とした森の巨木が倒れても、それを音として聞く認識主体がいなければ、激しい空気の振動は存在しても、音などは存在しないことを。)

 つまり、この現実自体が究極のところ脳が生み出したVRであり、それを科学やコンピューターによって少しばかり拡張したところで何の問題があろうか?むしろ人類の発展のためもっともっと開発し利用すべきであると考える人も多いであろう。私にしても、VR、拡張現実などのすべてが危ない、すべて禁止せよなどというつもりは毛頭ない。社会に役立つものなら役立てればよいし、切実な需要に応えられるなら応えるべきだと思う。実際、映画の中でサロゲートを開発した科学者は「私のような足が弱い者でも生き生きと活躍できるような社会を作りたかった」という趣旨のことを述べている。だが、映画の中の現実はそれにとどまらず、サロゲートはあらゆる人間に普及し、人間は自分の家にずっと引きこもってサロゲートを操る端末のベッドに寝そべったままで、実際に通りを闊歩し、オフィスで仕事をし、バーで酒を飲みながら友人や恋人と談笑するのはすべてサロゲートという社会になってしまった。そしてサロゲートに反対する集団がサロゲート立ち入り禁止の人間解放区を設立するのだが、、、その後はネタバレになるので、興味のある方は自分の目で実際にご覧頂くとして、話を戻すと、

 この現実自体が、脳が生み出した仮想現実ではないかと言われれば、まさにそうなのだが、問題はその「現実」を誰が見せるのか?ということである。

 我々を取り巻くこの世界は、荒っぽく言えば、感覚や知覚を通して入力された情報を脳内で処理し、自らの都合の良いように作り上げた仮想的なものに過ぎない。では、処理される前のありのままのその姿とは一体どういうものなのか?古来さまざまな賢人や哲学者が、人間の感覚フィルターの背後に何か人間には捉えようもない世界が実際に実体的に存在することを想定してきた。例えばカントはそれを「物自体」と呼んだ。それは今のところ、これほどの科学の進歩にもかかわらず、人間の認識の遥か彼方にある。いや、そんな筈はない。科学が進歩すればするほど我々は世界の真の姿に肉薄し、やがては人間はその真の姿に到達するに違いない、と仰る方もおられるであろう。遠い未来にはそうかもしれない。だが残念ながら現在のところ人間はこの世界の中で芋虫のようなものである。いやいや、何を言う?!現に我々人間はさまざまな技術を駆使し、物質の究極の仕組みや数十億光年彼方の宇宙の深奥を垣間見ることすらしているではないかと言うであろう。確かにそうである。しかしそれとて人間の感覚に捉えやすいように可視可したり変換しているのであって、それ以上のものでもそれ以下のものでもない。私が言いたいのは、芋虫にとっては、その僅かに感じ取れる世界が、そして身をよじらせて僅かに動ける世界がその世界のすべてであり、それ以外の世界など存在しないのと同様に、人間にとって知覚し観測し得るこの世界の在り様がすべてである、ということである。ここで問題なのは「芋虫にとっての人間の世界」が人間にとっても、論理的に可能性として存在するはずである、ということだ。しかし残念ながらそれは原理的に可能性として存在しているのであって、決して現実または実体とはならない。なぜなら人間にとっては、世界のこの在り様がすべてであり、他の存り様は存在しないからである。

 そうすれば、芋虫にとっての人間に相当する人間にとってのⅩは存在するだろうか?また、存在するとして、おそらく人間よりも高次な存在であるそのⅩの世界もまた、人間同様、あるがままの世界をⅩなりに映し出し再構成した独自の世界にすぎないのだろうか?断定は出来ないが、ただ確実に言えることが一つだけある。人間の認識の遥か彼方にある「あるがままの世界」と呼び得るものが存在するとして(というより、この話はそれが存在することを前提としている。もし存在しないとなれば、話はとんでもなくややこしくなってしまい、私の手には追えない)、そしてその人間よりも高次な存在もまた、人間同様この「あるがままの世界」と呼び得るものの中に生まれた存在であれば、程度の差こそあれ、人間同様その世界はその「あるがままの世界」の一部であり、その認識も有限であるということである。そのXは人間よりも進化した存在であろうが、しかし人間同様、それが内面(としか呼びようがないが)に写し出す世界は、その「あるがままの世界」の一部でしかない。もしそうでなければ、それは世界すべてを写し出し(ということは、そこに世界そのものが丸ごと存在するに等しいということ)、その上、その世界を知覚し認識する主体がそこにつけ加わる、ということであり、部分が全体を超える存在となってしまい、我々人間の論理に収まらなくなってしまうからである(少々荒っぽい議論で申し訳ないが)。

 今から約138億年前、量子論的真空の揺らぎにより、この宇宙は突然生まれた(らしい。誰も見たやつはいない)。あるいは、宇宙の膨張率を表すハッブル定数というものがあり、それは現在1メガパーセク(約326万光年)あたり毎秒67.74kmとされているが、テキサス大学の物理学教授である小松英一郎氏らの研究チームは2019年に「重力レンズを用いた高精度な宇宙観測の結果から、ハッブル定数は82.4だと判明した」との論文を発表。それで計算し直すと、宇宙の年齢は138億年より24億年も若い114億年ということになるらしい。いずれにせよ、遠い遠い昔、この宇宙は突然生まれた。そして現在からおよそ46億年前に地球が誕生したと言われている(もちろん誰も見たやつはいない)。それから約10億年後、何やらもぞもぞ動くものが表れた。そいつは明らかに周囲の物質が属する物理法則とは異なる仕方で蠢いている。蠢いているだけではない。明らかにどんどん二つに割れて増殖している。普通の物は、例えば岩でも石でも、二つに割れていったらどんどん小さくなっていって、最後には粒子となり環境中にバラバラに雲散霧消(完全に消えるわけではないが)してしまう。ところがこいつはどんどん分裂していっても小さくならない。と言うことは、その過程で周囲のものを補充しながら分裂しているに違いない。普通の物質はそんな奇妙で器用な振る舞い方をしない、と言うより、出来ない。それは明らかに我々が「代謝」と言う言葉で呼び習わしている活動であった。そのように生命は周囲のものを自己に取り込みながら発達していった。しかし周囲には有毒有害なものもあり、接触するものすべてを取り込む訳にもいかない。取り込むべきかどうかの判別は、取り込む前に物質の化学的特性を大雑把に判別する必要があった。そこからまず嗅覚が発達した。匂いというものは、対象物の化学的特性を大雑把に捉えた、先ほどのクオリアなのである。(一説によると女性が男性を好きになるのは、本人は意織していないが、匂いが決め手になっていると言われる。無意識のうちに遺伝子がパートナーとしての好ましい化学的特性を「嗅ぎ取って」いるらしいのだ。)それから嗅覚に次いで味覚、触覚が生まれ、やがて、活動範囲を拡大し、もっと効率的に必要なものを取り込めるよう、周囲の空間を立体的にダイナミックに捉えることのできる聴覚、視覚が発達してくる。このように我々の感覚は、あくまでも結果的にではあるが、環境とその変化に適応し、淘汰を生き伸びるのに有利となるように生まれてきたのである。言い換えれば、我々が見ているこの現実は、その進化と発達の果てに生まれた感覚が生存に有利なように、都合のいい部分だけを我々の脳内に再構成したものにすぎないのである。つまり、それは環境に適応するため脳が生み出した仮想的な現実だと言える。そうであれば、VRや拡張現実など何を恐れることがあろう?とあなたは言うかもしれない。この現実そのものが結局、何か得体の知れないものによって見せられた壮大なファンタジー映画なのではないのか?と。

 問題はその「現実」を誰が見せるのか?ということである。現在、その現実を我々に見せているものは、何であろうか?それは、この宇宙、またはその法則、自然の摂理としか呼びようのない、人間のレベルを遥かに超えたものである。それを神と呼ぶ者もいるであろう。私はその呼び方は好まないが、とにかくその自然の摂理または「神」が我々にこの「現実」を見せていると言ってもあながち比喩ではない。では、それには何らかの意図、目的があってのことなのか、単なる偶然の膨大な集積の結果にすぎないのか?一般的に科学は、自然には目的や意志は存在しないとしているが、その答えはまだまだ我々の認識の遥か彼方にある。だが、我々に仮想的な現実を見せるその力が、またはその力の一部が、我々人間の「一部」に委ねられるとしたらどうであろか?そこには必ず「一部」の人間の何らかの意志、意図、または目的が働く。「必ず」である。そこに、我々の現実そのものを生み出した自然の摂理との本質的な違いがある。私の憂慮の大きさがご理解預けるだろうか?

 先ほど『サロゲート』と並んでもう一つ『コングレス未来学会議』という映画を紹介した。これも評価はそれほど高くないが非常に奇妙な、興味深い映画である。私は是非とも皆さんに見て頂きたいと思う。評価が低いのは恐らく「ぶっ飛んでいる」からである。ぶっ飛びすぎて付いていけない人が多いのだ。『コングレス未来学会議』では、仮想現実、拡張現実が、電子的技術や身代わりサロゲートを介してではなく、非常に発達した薬物によってなされる。世界を支配する富裕層は豊かな本当の「現実」を文字通り雲の上で享受する一方、大半の者は、薬により五感すべてを乗っ取ったハリウッドのアニメワールドの幻覚の中で、自分の理想のアバターとして生きることで、現実のどうしようもない絶望的な「生きがいの無さ」を埋め合わせている。頭の中はまさにバラ色だが、現実には、薄汚い服を纏い、薄汚い通りを成す術もなくさまよう廃人ごときの存在である。映画は、その夢のようなすべてが可能なバラ色の世界の裏に、薄汚く虚無的な現実の世界があることを、一瞬で鮮やかに見せるシーンがある。それはどんなホラー映画よりも恐ろしいシーンである。『Triangle』という映画の紹介の時にも同様のことを言ったが、監督はこのシーンを撮りたいが為に映画を一本撮ったのではないか、と私には思えるほどである。

 私は、時々、いや頻繁に、電車に乗っていると、ふと気付けば車内の全員がイヤフォンをし、スマホの画面を無表情に見つめている光景に慄然とすることがある。しかも(自分も含めて)その人たちは全員マスクをしており、しかも(今年に入って多くなったようにも感じるのだが)車内アナウンスの仕方から、明らかに飛び込み自殺と思える人身事故で電車は止っている。これはもうディストピアそのものではないのか?その光景をフィルムに撮り、たかだか数十年前の人々に見せれば、彼らはこれをディストピアを描いた映画のワンシーンだと思うであろう。

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 話がずいぶん逸れたが(いや、メインはそちらの方だったりするのだが)、橘玲の『裏道を行け ディストピア世界をHACKする』は、拡張現実やメタバースの話の後、近年流行りのミニマリズムや FIRE などを取り上げるのだが、これが輪をかけて「何を今さら」的な代物なのである。ご存知ない方のために少し説明すると、ミニマリズムとは、20世紀半ばに流行った現代美術や現代音楽のミニマリズムではなく、消費文化に見切りをつけ、生活に必要な最小限の物質だけを所有し、精神的に豊かに生きることを目指す最近流行りのライフスタイルのことで、もう一つのFIREとは勿論「火」のことではなく英語で Financial Independence, Retire Early(経済的自立、早期退職)の略、つまり仕事や会社に縛られない生活を謳歌するために出来るだけ節約に努めコツコツお金を貯め、それを投資で増やし、早期にリタイアすることである。どちらも何だか現代的でお洒落なように思えるが、前者は簡単に言えば、貧乏人は質素倹約に努めなさいというだけのことだし、後者は、何一つ秘策を付け加えることもない、単に昔からある投資の話にすぎない。それを、ミニマリズムだの FIRE だの新しくカッコいい呼び名で呼んでいるだけのことである。そりゃ働かなくてもいいぐらい株やFXで儲けたら、そんなもの FIRE などと呼ばなくても、人にコキ使われる会社勤めが嫌な人ならさっさとリタイアするだろ。当たり前のことじゃないか。まさか橘玲ともあろう人が、株にしろFXにしろ、始めて5年以内に90%以上の人が多かれ少なかれ損を被り退場していくという事実を知らないなどとはとうてい思えないのだが。

 恋愛工学、ヘッジファンド、自己啓発運動、拡張現実、肉体改造、ミニマリズム、FIRE・・・一体、こういったものが、この理不尽で不条理な「無理ゲー社会」に苦しむ多くの者にとっての裏道、何らかの解決策、少くとも多少のヒントになると、はたして筆者は本気で考えているのであろうか?「無理ゲー社会」と言えば聞こえは面白おかしく軽妙な感じがするが、実際は、いみじくも筆者自身が『言ってはいけない』シリーズで徹底的に暴露したように、この世での生きやすさ生きにくさは偶然生まれついた家柄と遣伝でほぼ決定されてしまい、不利なものを背負って生まれついた者には、この社会は豊かな幸せを求めることはおろか、生き抜くことそれ自体があまりにも難しすぎて攻略不能な過酷な無理ゲーである。しかも単なるゲームなら幾らでもリセットできるが、このゲームは、現代の日本社会がきわめて不寛容な社会であることと相まって、一度大きな失敗をすればその場で爆死という最高難度の絶望的なゲームなのである。

 頭の悪い者に頭を良くしろと言っても無理である。根気のない者に根気強く粘れと言っても無理である。機転の利かない者に機転を利かせろと言っても無理である。頭の回転の鈍い者に頭の回転を早くしろと言っても無理なのである。この社会が「無理ゲー社会」だと言うなら、そのような者達に不利ばかりを背負わせるのではなく、そのような者達がもっとゆったりと生きることを楽しめる社会とはどのような社会であり、そのような社会を創るためにはどうすれば良いのかを論じるべきなのだと思うが、現代数学を駆使した金融工学?ナンパのテクニック?スピリチュアル?現実逃避のための拡張現実?

 この筆者は一体何の為にこの本を書いたのであろうか?名前がそこそこ知られるようになり、一定の固定ファンもつき、何を出してもある程度売れるようになってきたので「先生、反響のあった『無理ゲー社会』の続編をここらで一発どうです?」とかなんとか出版社に言われ、取材ノートから自分のお得意のネタをかき集め、即席で一丁作ってみました、というところであろうか。『言ってはいけない』からの展開に期待していただけに、何か失望感が半端ない。(橘玲さん、ずいぶん貶したようで、スミマセン!次回作期待してます!)

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