演じることと真実みたいなもの ―『ドライブ・マイ・カー』から想起されること―
ある映画監督が亡くなった。大学時代の教授だった。
この3月末~4月。仕事で大きな変化があった。自分自身としては嬉しい変化だった。ただただしんどいと感じていた仕事への向き合い方が少しずつ変わってきたのを感じる。
しかし日々に忙殺されていることには変わりなく。気が付いたら3週間近くが経っていた。今まで何とか続けられていたジャーナリングも全く手をつけられないまま日々が過ぎていった。(こういう心の変化の波が激しい時こそ記録しておきたいのになぁ…!)
訃報に対しては正直感情が動かなかった。実感沸かないから当然だよな、なんてやり過ごすこともできた。
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私は大学時代、沢山映画を観て、映画作りに関わって、演技をして、映画・演技について考えてきた。映画や演技を通して、自分について、他者について、その違いについて、集団制作について、そんなことに思考を巡らせる日々だった。
だが演じることに向き合うことを辞めてから、映画にもあまり触れなくなっていった。
その代わり(と言っては少し違うのだが)、バレエを見始めた。
偶々観たバレエの舞台に救われたことが理由だ。
バレエの美しさ、ラインの美しさ…。幼少期にバレエを習っていたのでバレエには親しみがあるし、バレエ音楽も大好きだ。
しかし、それだけではない。
バレエは基礎を必要とする。コツコツ、何十年と毎日バーレッスンをして、プロのダンサーたちも鍛錬している。
そこにあらためて惹かれるようになった。
ただ、「バレエの上手さ」だけを見せられても響かなかった。
では何か?
バレエも役を演じる以上演技を必要とされる芸術だから、演技さえ見られれば満足なのか?
それも違う。
自分の好きなダンサーを観ていて、何で自分はこの人の踊りに惹かれているのだろうか…と考えた。
そしてたどり着いたのは、バレエそのものの美しさ・様式美が確立された上で、そこから溢れ出た、漏れ出てしまった真実を観に行っているのかもしれない、という気づきだった。
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訃報の数日後、映画『ドライブ・マイ・カー』がアカデミー賞の国際長編映画賞を受賞したことを知った。
濱口竜介さんの映画は前から好きで、観れる時には観に行っていた。
ただ最近は全然観に行けてなかった。
なんだか気になって気になって仕方なくなってネットの海を泳いでいると、濱口さんについて色んな人が語る動画を発見したので、迷いなく見てみた。
相手のセリフを聴く。
聴くに徹する。やはりここに返ってくるのか…。
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演技をしていた時。相手の台詞を聴く、ということになかなか意識を向けられない部分と闘っていたことを思い出した。
亡くなった彼の授業で印象に残っていることがある。
チェーホフの『ワーニャ伯父さん』を毎週の授業でひたすら読み続けるのだ。
ただ座って、台詞の書かれた紙を見ながらただ読む。
そして読み続けた後、最後に立ち上がって動く。
ソーニャの長台詞の部分が取り上げられていたので、授業の時は1人で演技した。(物理的には居ない)相手役者なのか、観客なのか、ワーニャ伯父さんなのか、自分自身なのか。何らかの想像上の対象に語りかけた。自分の発した言葉の後に、台詞には無い何かを受け取っていた気がする。
あの授業は私にとってとても豊かな時間で、深く記憶に残るものだった。
また大学を卒業してから受けた、別の方が主催するとあるワークショップでも、『ゴドーを待ちながら』のテキストを使って、ひたすら相手の台詞を聴いて、受け取って、台詞と台詞の行間を感じる訓練をした記憶がある。とても困難を極めた。でももっとできるようになりたいと思った。
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私は今営業の仕事をしている。
接客においても聴く=傾聴の姿勢というのは欠かせないが、どうしても本来的な意味での完全なる傾聴の姿勢は保てないと感じる。
次にあれを伝えなきゃ、これを伝えなきゃ、と思う。
誘導していきたい方向もある。
私がやっているのは「傾聴してるフリ」なのかもしれない。
傾聴した末に返す反応も、接客の場となるとなかなかに難しいものがある。
オーバーリアクションで承認したり、コメントしたり。
時には自分の心に嘘をつくことだってある。
普段のリラックスした状態での傾聴なら、こんなにオーバーリアクションは取らないんじゃないか?と、少し自分でも気持ち悪いというか、居心地が悪くなることもある。(顧客もそれを求めてるとは限らないよな…。)
では演技ならどうなんだろうか?
出そう出そうという作為の元に起こしたリアクションはやはり違和感。観客にはすぐにバレる。
出さなくていい時は無理して出さない、そんな演技にとても惹かれる。
私が米沢唯さんというバレエダンサーのバレエに惹かれているのも、同じような理由があるのかもしれない。
勝手な解釈だが、唯さんは作為的に演じようという気概(?)が良い意味であまりないように見える。基礎が下支えしてテクニックもすごく強いダンサー。コーディネーションもバレエ的なラインもとてもとても美しい。だからこそ、舞台上では音楽を聴き、パートナーや周囲のダンサーの踊りを"傾聴"し、それに呼応し共鳴するように踊る。漏れ出る。
この記事でも米沢さんはこのように話している。
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彼の監督が亡くなって3週間。
訃報を聞いた時、感情が動かなかった。でも確実に私の中に変化が起きていた。
ようやっと『ドライブ・マイ・カー』を観に行った。
『ワーニャ伯父さん』や『ゴドーを待ちながら』がこんな風に扱われているとは思わず、とてもとても、個人的な理由で驚いた。
前述の通り、私も『ワーニャ伯父さん』のテキストを口にしたことがある。
劇中、西島秀俊さん演じる家福が岡田将生さん演じる高槻に「あのテキスト(『ワーニャ伯父さん』)には、自分を曝け出させる力がある。」「ワーニャを演じるには、自分を差し出す必要がある」と言った。
当時はよくわからずにやっていたが、確かにあのテキストにはそういう力があったのかもしれない。
『ドライブ・マイ・カー』は、登場人物の自己開示が多い。
自己開示して、映画の中の主人公たちは救われていっている。
少し前の私だったら、映画の中の人物を羨んでいたかもしれない。現実には自己開示なんて出来やしない、自己開示したとしても受け入れてもらえない…映画の人物たちは映画の中にパッケージングされていて、尚且つ心の機微の裏側(経緯)まですべて観客に知らせることができるじゃないか…!ずるい!と思っていたに違いない。
でも今の私は感じ方が違った。家福が「本当の妻を見ようとしなかった」「自分の気持ちを見て見ぬふりをしてしまった」と言った。
本当に他人を見たいと望むなら、自分自身を深く真っ直ぐに見つめるしかない。逃げずに正直に向き合う必要がある。
そのことに深く同意できるようになったからだ。
映画の中じゃない人間にとっても、自己開示して対話していくことは可能だし必要だと確信できた。
自分の感情を見て見ぬふりしたことが招く痛みを痛切に感じたからなのか。この一年でコーチング体験を通して、自己開示をして受容してもらえる経験を積めたからなのか。パートナーシップを学ぶ中で対話の重要性を感じたからなのか。理由はいくつかあると思う。
濱口さんの映画はいつもそうなのかもしれないけれど、久しぶりに濱口作品に触れてみて、愛することについての映画だと思った。
【他者受容=自己受容】
と言われるように、誰かを愛する(その全てを受け入れる)には、自分をまるっと受け入れる必要がある。
家福が、みさきが、救われて、希望を持って生きていけるということ、本当に良かったと思う。
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ある理由から私は亡くなった彼に後ろめたさがあった。生きているうちにどうにかしようとも思っていなかった。
あの方には見透かされているような気がしていて、自分の弱さを見られているようでいつも少し怖かった。もう一生会うことはないだろうと思っていた。要するに自分の弱さに向き合うことが怖くて逃げて、そのまま逃げっぱなしだった。
しかしいよいよどうすることもできなくなったんだなと感じた。亡くなったということは、肉体がなくなったということは、話すことができないということは、もう対話する機会も、弁解する機会も、謝る機会も、何も無いということなのだなぁ。
あの世に逝かれたら、見透かされるどころか丸見えなんだろうなぁ。
彼が亡くなった実感は未だに無いし、私の生活に変化は起きないけれど、それでも確実に、(機会を失ったという意味で)変化が起きている。
生きている者は、死んだ者のことをずっと考え続ける。
生きている私は、彼がどんな人だったのか、私の弱さとは何なのか、怖くて向き合えなかったことに、向き合ってみようと思う。
彼に向き合うということは、私にとっては映画に向き合うということでもある。何となく観なくなっていった映画も、少しずつ観る時間を取ってみようかななどと思う。
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このソーニャの台詞を久しぶりに聴いて想起された、大学時代に同期が書いた台詞。何という偶然なんだろう。ついつい運命思考が働いてしまうよ。
これからも生きられるなぁと思う。
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余談。
西島さんをきっかけに映画を始めた私にとって、この作品の西島さんの演技は本当に嬉しかった。演劇作品への出演が少ない西島さんのあまり見られない姿も拝見できた。映画館では、上映前の予告編にも別作品の西島さんが出てきた。西島秀俊という俳優は、映画に触れ始めた高校生の私にとってハブのような存在だった。知の宝庫のようで、いろんな作品を観せてくれた。これからも見届けていきたい。