なおみ
谷川俊太郎が亡くなった、と、夜の
ニュースで知った夫は、
「あああああああああーっ」
と突っ伏した。
え、そんなに、かなしむ?
って、ちょっとびっくりした。
「ずっと居ると思っていたのに。
なんやねん!なんでみんな、居なくなるんや!
俺なんか、このさき、
生きとってもしゃーないやないか!」
と、ヤケになって、
むちゃくちゃなことを口走った。
まあ、気持ちはわかるけど。
ずっと居るひとなんか、いません。
夫は、谷川俊太郎が特別に
すきだったわけではなかったとおもう。
だけど、この世に谷川俊太郎が
生きている、と思うだけで、こころが
強くなる、そう思っていたのかもしれない。
そんなふうに思っていたひとも、
たくさんいたのではないか。
そう思わせる、稀有な存在だった。
わたしも、有名な詩くらいは知っている。
詩集が何冊か、うちにもある。
わたしと谷川俊太郎の出会いは
小学校の図書室だった。
小さな田舎の小学校の、じめっとして、
薄暗い、図書室。
小学生時代は、わたしが人生でいちばん、
本を読んでいた頃だ。
本がすきだった。
家から学校までが遠くて、
通学が徒歩で50分くらいかかった。
行きは登校班だったが、
帰りは自由下校だった。
50分の道のりは、1人のときは、
空想するか、本を読みながら歩くか。
友達と一緒に帰らない日があっても、
本と、空想があったから、全然、
つまんなくなかった。
すきな本を、何度も何度も借りて読んだ。
1番読んだのは、
「大どろぼうホッツェンプロッツ」
のシリーズと、
「ふしぎなかぎばあさん」
のシリーズ。
一冊、いつも気にしていたが、
絶対に借りない本があった。
それが、谷川俊太郎の
「なおみ」
だった。
「なおみ」は、写真集に、詩がついたような
本で、小学生の女の子と、
おともだちの市松人形の「なおみ」のお話。
写真に、谷川俊太郎の詩というか、
文がついていた。
初めてこの本を読んだときは、衝撃だった。
なんこれ。。
とおもった。
こわかった、とても。
図書室に行くと、「なおみ」をちら、とみる。
いつもの棚にない、とおもうと、わざわざ
探して、みた。
探すけど、借りて持って帰ったりしない。
いつも、「なおみ」は、
誰にも借りられずに、図書室にいた。
薄暗い小学校の図書室で、おそるおそる
ページをめくって読む。
わたしは、絵本でも小説でも、読んだあとに、
「知らないところにひとりで置いていかれる
感じ」
がなるのがすきなのだ、ということに
気づいたのは、大人になってからだった。
内容は、ひみつにします。
晩年の谷川俊太郎をたまに、書籍や
テレビで観ることがあった。
失礼だと思う方がいたら申し訳ないが、
わたしには、だんだんと、
谷川俊太郎が、
おとななのか、こどもなのか。
おとこなのか、おんななのか。
なんでかな、そのどれでもない。
そんなふうに、見えていた。
でも、このひとだけは、そんなくくりから、
かけ離れたところにいるし、それでいい。
そんな感じがしていた。
谷川俊太郎が、そんなふうにみえたのは
どうしてだろう、と、考えてみる。
そっか。
もしかしたら、ずうっと、
「どの立場」でもなくものを考え続けると、
人間って、そういうふうになるんだな、
なるのかもな、と、思った。
「なおみ」
を、また、あの薄暗くてかび臭い、
小学校の図書室で開きたい。
できれば雨の日の午後に。