ガーデン ァヴ セルウィリア
風が吹いた。
春になると、庭に花が咲く。
セルウリィアはHortus(ホルトゥス)、庭園を歩く。
薄い赤紫の花を咲かせるアストランティア(古典ギリシャ語で星を意味するアステールから)、薄いピンクの花を咲かせるグラジオラス(ラテン語で小剣を意味するグラディウスから)、そして黄金の花を咲かせるシルフィウム(テオフラストスの『植物誌』や、プリニウスの『博物誌』に記載がある絶滅した古代の幻の花)が揺れている。
季節の移ろいは、
命だけが持つ色の美しさを見せてくれる。
生命の輝きだ。
ローマのHortus(ホルトゥス)は、ギリシャのξυστός(キシストス)に由来する。だが両者は明らかに異なる。ギリシャのは屋根付きの通路で、生け垣が植えてある。ローマのは庭園か、あるいは家庭菜園か、または果樹園に相当する。
もう存在しない花々、もう存在しない庭園、もう存在しない世界にいるセルウリィアは、思い出に包まれていた。誰にという訳でもなく、彼女は若き日を語る。それはパラパラと捲れて飛ぶ本の挿絵のようで、風の中を舞っている。全て心の中だ。
私があの人と出会ったのは15の夏だった。紀元前85年、とある邸宅の中庭で、ユリウス一門に連なるカエサル家のガイウスを初めて見た。私は13歳の時、マルクス・ユニウス・ブルトゥス・マイヨルと結婚していたけど、それは家の話だった。
あの人は、すでにその目に、星を輝かせていた。霊感の泉だ。でも私たちは同じ15歳で、ローマの貴族。最高の教育を受けている。当然人の眼は厳しい。
だけどその日の夜、私たちは過ちを犯した。若かった。いや、幼かった。そして一つの命を授かった。運命の子、マルクス・ユニウス・ブルトゥス。紀元前44年3月15日にあの人を暗殺した私の子。でもこの秘密は、誰にも言えない。誰にも話せない。
でもあの人は、どこかで、自分の子だと気が付いた。だけど、私は話さなかったし、あくまでユニウス族のブルトゥス家のマルクスで通した。本当は、ユリウス族のカエサル家のマルクスだったとしても、これはあの人にも、あの子にも言えない秘密。
だけど、あの子も、ある時どこかで、隠された秘密に気が付いた。それは日常のふとした会話の中とか、何気ない仕草の中に見える隠れた感情で、本当の親子である事を隠し通す事は難しかった。周りの人は誤魔化せても、本人は分かる。
結局、あの人は、あの子を愛し、あの子は、あの人を憎んだ。全て私のせい。ああ、ユピテルよ、轟雷を下し給え。天上の業火で、この呪われた運命を焼き給え。そして私たち親子三人を、フェリックスの園に誘って。決して幸福になれない不幸な家族を。
紀元前85年、
ローマは、マリウスが死に、スッラが台頭していた。
私は15歳で、ローマの名門貴族カエピオニスの令嬢だった。
セルウリィア・カエピオニスという。
最初の結婚は嘘だった。
ローマの政争で父は死に、かなりの財産を残した。
この財産目当てで、マルクス・ユニウス・ブルトゥス・マイヨルは私と結婚したけど、歳が離れていて、結婚生活は、叔父と姪のようなものだった。結局、最初の夫は、護民官になったけど、グナエウス・ポンペイウスに討たれて死んだ。
最初の夫が私たちに残したものは、
あの子の父親という嘘の仮面。
偽りの隠れ蓑。
二度目の結婚は偽りだった。
執政官デキムス・ユニウス・シラヌスだ。息子が一人、娘が三人生まれた。姉妹の名はユニア、それぞれプリマ(長女)、セクンダ(次女)、テルティア(三女)と言う。
テルティアは後年、私の代わりにあの人の寝室に行った。
ユニア・テルティアは一番、私に似ていた。彼女は長生きして、初代アウグストゥス帝の時代を超えて、二代目のティベリウス帝の時代まで生きた。私の話を後世に伝えてくれたのもテルティアで、詮索好きな歴史家たちの想像力を刺激した。
アウグストゥスの娘、ユリアの悲劇がよく語られるけど、私に言わせれば、ローマ貴族の女性というものは、matrimonium ex machina(マテリモニウム エクス マキーナ)、機械仕掛けの結婚に組み込まれた哀れな紙人形で、自由なんてある訳ない。
でも恋する事だけは自由。絶対に譲れない。人は心の中までは犯せない。狂おしい程、私はあの人に恋焦がれていたと人々は言うけれど、それはちょっと違う。
ローマで、あの人に抱かれた女の人は、星の数ほどいるけれど、皆自分だけが愛されたと思っている。なぜかと言うと、あの人は神だから。神に抱かれた女は、決定的に運命が変わる。あなたは神様に抱かれた事はある?私はある。
それは不思議な夢のような時間で、人の生の中で、いつまでも残る。神様に抱かれたという感覚を持つ人は幸せで、千載一遇のフェリックスなの。努力し、苦悩する男の人であれば、天は幻の女を遣わす。その逆もまた然り。これは摂理。天の采配。
私は本当に幸せな女だった。誰にも否定できない。でもあの子は哀れだった。あの人に奪われた私を取り返すため、戦ったようなもの。だからあの人を暗殺した。
そういう意味では、あの子の運命は、まさにオイディプス王(エディプスコンプレックス)だったかもしれないけど、私の運命は異なった。どちらも愛していたから。
愛するブルトゥスは私の子。でもガイウス・ユリウス・カエサルの子でもある。だからファルサロスの戦いの時、ポンペイウス側にいたあの子を、絶対傷つけるなと厳命した。でもあの子は本当の父親が誰か知っていたから、ポンペイウス側にいた。
そしてポンペイウス像の前で、あの人があの子に暗殺された時、言った言葉、καὶ σὺ τέκνον;(カイ シュ テクノン)(息子よ、お前もか?)は、その通りの意味。
よく考えれば、辻褄が合う事に気が付くかもしれない。後世の歴史家で、疑う人が出て来るかもしれない。だから万が一があるといけないから、この手紙たちも処分する。あのカエサルが書いた恋文だから、名文だけど、これは地上に残せない。
私が責任を持って、天上の図書館まで持って行く。
キケロ書簡集みたいに、アッティクス宛だけの本人の手紙を残す事も考えたけど、私の手紙を消したところで、あの人の話から秘密が分かってしまうから、やはり諦める事にした。カエサルの名文が消えるのは、人類にとって、幸せな事ではないけれど。
少しだけ、あの人が語った話を紹介する。
これはルビコン川を渡る直前の話。
「……僕はルビコン川を渡る。軍団を率いて、渡ってはならぬというこの川を。それは国法によって定められ、川の手前で軍団を解散させないといけない。だが僕は解散しない。ローマに進軍する。当然、内戦になる。覚悟の上だ……」
「……遠い未来、僕と同じ決断をする人が現われる。その人もまた、国家を分断し、内戦を引き起こすだろう。だがres publica(レス プブリカ)(国家・公共)にとって、いや、人類にとって、必要な事であるならば、断じて退いてはならない……」
あの人は時々、人事不省に陥って、意識を失った。てんかん発作を起こしたと言われているけど、それは違う。霊となって、身体から抜け出して、私の許に来た。
これはその時の話。あるいは天上の神々と会って、秘密の話を持ち帰った。あの人のvirtus(ウィルトゥス)(力量)、gravitas(グラヴィタス)(重々しさ)について語る人は多いけど、本当のあの人は、fortitudo(フォルティテュド)(不屈の精神)だった。
正しい事は、絶対に諦めないという情熱があった。
これがあの人。そしてそのためには、戦いも辞さず、何回も何回も戦った。短時間で世界を変えるためには、もの凄い速さで、何回も何回も戦わないとダメだと言っていた。これがあの人の持論。
アレクサンドロスだけが、
カエサルと同じ事をやっていた。
この二人は同格の神。
あの日、あの子があの人を殺した後、仲間たちとローマで国家転覆を起そうとしたけれど、逆に怒った民衆に囲まれて、危険になり、私の屋敷まで逃げてきた。
「君たちは下を向いてはいけない。
君たちは共和政、希望の星なんだ」
キケロだった。
別に呼んでもいないけど、勝手に駆けつけた。
共和主義者だ。
「……だが民衆はついて来なかった。
そしてアントニウスもいる」
カエサル第一の部下を自称する将軍だ。
この後、第二次三頭政治の一角を為す。
「今は雌伏して時を待とう。
それまで安全な場所に身を隠すんだ」
キケロは熱心に語った。
ついこないだまで、
あの人と会って話していたのに。
「……分かった。でもどこに行く?」
あの子がそう答えると、キケロは言った。
カエサルが残した指示があると。
あの人は殺されたけど、結局、あの人が残した指示、人事は実行された。遺言状も公開され、暗殺者たちの名前と、分け前も書かれていた。この運命の皮肉は、彼らを苦しめた。
その間に、キケロも熱心に動いて、元老院を動かした。
私はこの人の下劣さは、むしろ、ローマ人らしい生々しさがあって、好ましいとさえ感じる。著作家キケロではなく、元老院議員キケロだ。独裁を嫌う徹底的な共和主義者だ。
私もあの子のために、元老院に行って、証言した。登壇して説明した。でも結局、紀元前42年10月3日、フィリッピの戦いで、台頭してきたオクタヴィウス、後のアウグストゥスに討たれて、あの子も死んだ。遺灰になって、私の許に帰ってきた。
今は庭の片隅で、静かに眠っている。あの子の魂は那辺を彷徨う?なおあの人の遺灰は、雨で流れて、テヴェレ川に消えてしまったから、お墓もない。でもあの人の事だから、天上界で、アレクサンドロスと座って、談笑している。そんな気がする。
でもちょっと不思議なのが、アウグストゥス。なぜ彼はあの人の後継者に指名されたの?全く無名の若者で、全く誰も知らなかった。これは今の生だけで、説明が付く話ではない。あの人が幽体離脱して、天上で得た秘密の話がきっとある。
長かったガリア戦争が終わって、ローマに帰って来た時、あの人は私に黒真珠を贈った。後世、セルウィリアの真珠と呼ばれたそれは、600万セステルティウム(時価15億ドル)もした。どこでそんなもの、手に入れたのか、分からない。
あの人の最大の出資者だった、クラッススが聞きつけたら、卒倒しそうな額だけど、もしかしたら、ただで手に入れたのかも知れない。お金で買えるものでもない。
「君に贈るよ。ちょっと遅れたけど、プロポーズさ」
「……え?一体何年待たせたの?」
私があの人を睨むと、あの人は私の前で、指を折って数えた。
「34年だね。15の時から数えて」
「……私たち、もう50近いのよ」
「そんな事、気にしていたら、何もできないさ」
私は苦笑するしかなかった。もっと若い頃が良かった。
「今日はどこに行く?ギリシャ産のオイノスはやめておこう」
そこで回想は終わった。
ここはガーデン ァヴ セルウリィア、永遠の庭。
『シン・聊斎志異(りょうさいしい)』補遺067