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映画:『八犬伝』_2024
いや、これは面白い!
ぜひ皆さんも観て下さい。
もの書きとはかくあるべきだ!
あ、コレ、ネタバレなんで、
これから見る人は回避して下さい。
いい人だけ読んで下さい。
この映画、実にいい台詞、
いいシーンがポンポン飛び出す。
『オッペンハイマー』とか、
洋画ばかり見ていたけど、
邦画も捨てたものじゃない。
映画館で観ようかと思ったけど、時間がなくて、
行けなくて、アマプラでやっていたので、
観たけど、あっという間の2時間半でした。
「老いてもなお、頂きを目指すのは、
この俺と、おめぇさんぐらいのもんだよ」
馬琴と葛飾北斎のこのやりとりが響いた。
この映画、構成も凝っていて、
滝沢の作家人生と、八犬伝の物語が、
「虚」と「実」になって織り成している。
物語パートが、八犬伝の物語で、
日常パートが、馬琴と北斎のやりとりだ。
両方がいい具合で進行する。
馬琴は戯作で、因果応報、
勧善懲悪の世界を描こうとして、
『南総里見八犬伝』を書いた。
だが同時代に、鶴屋南北という
歌舞伎で怪談話をやる変な男がいて、
馬琴と鶴屋南北が出会ってしまう。
この映画、屈指の名シーンは、
舞台裏、奈落の下りだろう。
馬琴と南北のディベートだ。
鶴屋南北は歌舞伎で、
四谷怪談(お岩さんの幽霊話)
と忠臣蔵をなぜか合体させる。
(南北の『東海道四谷怪談』で四谷怪談は、
忠臣蔵の外伝という扱いだが、演出上、
お岩さんの幽霊話が本篇に見える)
馬琴は、ちぐはぐだが、確かに怖いと言う。
南北は、怖いと感じるならそれは虚ではない。
幽霊話こそ実であり、忠臣蔵こそ虚だと言う。
馬琴は、勧善懲悪な忠臣蔵が好きだから、
南北に反論するが、忠臣蔵が実なら、
『八犬伝』も実と言いたいが、言い切れない。
鶴屋南北は、仏教の異熟果の話をしている。
この世は勧善懲悪にならず因果応報が起きない。
時に悪が栄え、善が滅びる事もある。
仏教的には、この世とあの世を貫いて、
初めて因果は完結するが、この世だけ見ると、
因果が完結していないので、異熟に見える。
これを異熟果と言う。仏教の基本だ。
馬琴は、この鶴屋南北の議論に、
その場で反論できない。
馬琴は仏教的世界観に強くない。
だが馬琴は、たとえ虚であったとしても、
貫き通せばそれもまた実になるのではないかと、
考えて、筆を再び執るが、もう目が見えない。
戯作を校正していた息子も死に、
馬琴は途方に暮れるが、息子の嫁が助ける。
これは日本文学史上、有名な話だ。
映画では、馬琴の妻がいい味を出していて、
面白かった。トルストイの妻みたいだ。
最期の「畜生」もいい台詞だ。
全てを語っている。
実は近松門左衛門とか、ちょこちょこ、
読んでいるけど、背景に仏教があるので、
何の話をしているのか、よく分かる。
19世紀だと、ヨーロッパも日本も、
それぞれキリスト教、仏教で、
天国と地獄があると肌で感じていた
時代なので、この感覚はよく分かる。
人々は霊は実在すると信じていた。
だから四谷怪談は本当に怖い。
『南総里見八犬伝』でも、怨霊は出て来るが、
ああいう存在は単なるCGじゃなくて、実在する。
映画スタッフはそこまで考えてないと思うが。
多分、当方は、作っている人以上に、
時代背景が読めて、リアルに感じるので、
よけい、感情移入してしまうのだろう。
日本の話も書きたいなと思っているし、
聖徳太子の話は書くつもりだ。
『斑鳩の鬼』とタイトルも決まっている。
だがその前に、ローマの話があるし、
ジャンヌ・ダルクの話もある。
手が回るか分からないが、
馬琴に負けてられない。
それにしてもいい映画だった。
ちょっとその勢いで、この文章を書いている。