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アレキサンダー・ロマン

 その若者は、よく左に小首を傾げていた。右の瞳は黒、左の瞳は青灰色だった。髪は金髪、獅子のたてがみのように流れている。そして頬と胸の白い肌に、赤味がさしていた。
 「……捕らえた異邦人、バルバロイは、奴隷として扱わねばならない」
 スタゲイラの哲人はそう言った。するとヘテロクロミアの若者は尋ねた。
 「どんなに有能な人物であっても?」
 「……それがノモイだ。奴隷とは言葉を話す動物だ」
 沈黙が流れた。若者は見詰めている。ミエザの学舎は青空教室だった。
 「有能ならば自由人として取り立てるべきだ。奴隷扱いすべきじゃない」
 「……バルバロイとヘレーネスを同列に扱ってはならない」
 コスモポリタニズムだ。このノモイでギリシャ世界はコスモスを保った。
 「バルバロイもヘレーネスも同じ人だ。何も変わらない。友人になれる」
 ヘレニズムだ。このカオスが、ギリシャ世界をどこまでも広げた。
 世紀の対話だった。世界史の潮流が変わる偉大な瞬間だった。
 この師弟の名は、アリストテレースとアレクサンドロスと言う。
 
 ミエザの学舎にはヘタイロイ、王の友がいた。アレクサンドロスと共にアナバシス、東方遠征に乗り出す仲間たちだ。無二の親友ヘファイスティオン、エジプトを継ぐプトレマイオス、シリアを継ぐセレウコス、副将パルメニオンの子フィロータス、年長のクレイトスなどだ。
 アレクサンドロスとこのヘタイロイが、ローマへと続くヘレニズム世界を建設した。
 父はマケドニア王フィリッポス2世だ。若い頃、テーバイに人質として送られ、そこで名将エパメイノンダスから斜線陣を学んだ。そしてサリッサと呼ばれる6mの長槍を使ったファランクス戦法を編み出した。これがマケドニア軍を無敵にした。父王も軍事の天才だった。
 母はオリンピュアス。結婚式の前夜、腹にゼウスの雷が落雷する夢を見たと言う。我が子を深く愛したが、我が子を縛る呪いの手紙も送った。東方遠征は今生の別れだったが、母子は強く結ばれていた。大王の女性観はこの母を端に発する。だから敵の女性にも寛大だった。
 ブーケファラスという黒馬がいた。雄牛の頭という名だ。暴れ馬で乗り手がいなかったが、アレクサンドロスは、この黒馬は自分の影に怯えている事と気づき、陽の光を背にしないようにして、乗馬した。鐙のない時代だ。乗馬は命懸けだった。だが成功して乗りこなした。
 「息子よ。お前に相応しい王国を探せ!マケドニアにはお前の王国はない!」
 見事、ブーケファラスを乗りこなした我が子を見て、父王はそう言った。
 紀元前338年、カイロネイアの戦いで、フィリッポス2世は右翼、アレクサンドロスは左翼、パルメニオンは中央で、アテナイ・テーバイの連合軍を破った。マケドニアはヘラスに覇を唱えた。だが紀元前336年、フィリッポス2世は娘の結婚式で暗殺された。真相は謎だ。
 暗殺者は、フィリッポス2世のヘタイロイだった。直ちに捕まえて処刑された。遠征中だったが、パルメニオンはアレクサンドロスの王位継承を支持した。東方遠征はすでに始まっていた。だがフィリッポス2世のアナバシスは、アレクサンドロスのアナバシスに変わった。
 表向きは、ペルシア戦争の復讐である。亡き父王が掲げた大義だが、アレクサンドロスはインド遠征を考えていた。インドを征服して、全てを思い出し、神として世界に君臨する。
 最初、アレクサンドロスは自らを英雄として見なしていた。だからホメーロスの『イリアース』を旅先でも読み、枕の下に入れていた。ヘファイスティオンにパトロクロス役を頼み、自らはアキレウス役で、読み合わせをする。イリアースごっこだ。ホメーロスは深夜アニメだ。
 紀元前334年、グラニコス川の戦いでは、アレクサンドロスは全軍の先頭に立ち、騎兵隊の一番槍として投擲し、敵将ミトリダテスを一撃で仕留めた。あまりに鮮やかで、見事だった。
 2134年後、ナポレオンがマレンゴの戦いで、同じ事をやり、将兵から絶大な支持を得た。
 この後も一騎打ちを三回もやり、敵将を討ち取った。全てホメーロスの英雄的心性が為せる業だ。深夜アニメの世界だ。だが最後は流石に危うくなり、兄貴分クレイトスに助けられた。
 「……王よ。危ない処でしたな」
 「危ない事なんてあるものか!私は神の子だ!」
 この発言は、エジプトのシワ・オアシス、アメン神殿で真実になる。神官が降ろした神託は、恐るべき内容だった。インドを目指して、ディオニューソスを求めよと言われた。この外来神は謎めいた二面性を持っていた。豊饒と混沌で、インドの破壊神シヴァと同一視された。
 「かの地にはインドのディオニューソスがいる。汝の帰還を待っている」
 「……分かった。必ずインドまで行く。我が半身を取り戻し、全てを思い出す。神になる」
 その後も、アレクサンドロスの神話的行動は続いた。解けない事で有名なゴルディアスの結び目を、アナトリアのフリギアの都ゴルディオンで、一刀両断した。すると天から稲妻が轟き、ゼウスが祝福した。アレクサンドロスは、アジアの大王になると人々は噂した。
 紀元前333年11月5日、この噂は現実のものとなる。イッソスの戦いだ。ギリシャ軍は40,000人、ペルシア軍は途方もない大軍だったが、明らかに統制を欠いていた。烏合の衆だ。
 「……今こそ夜襲を仕掛けるべきです!」
 パルメニオンは進言した。だがアレクサンドロスは振り返った。
 「パルメニオンならそうするだろう。だが私は勝利を盗まない!」
 夜戦を仕掛けて、闇の中で、敵を屠るのではなく、白昼堂々と会戦して、真正面からペルシアの大軍を破る。そこにアレクサンドロスは重大な意味を見出していた。自らの神性の証明だ。だが通常実行できる者はいない。それでもアレクサンドロスにとっては、現実だった。
 なおこの戦いは、ナポレオンではアウステルリッツの戦いに相当する。soleil d'Austerlitzだ。
 ペルシアのダレイオス三世は、何が起きたのかさえ、よく分からなかった。気が付いたら、陣が破れて、陣列の切れ目からアレクサンドロスが単騎で駆けて来る。少し遅れて、ヘタイロイも続く。恐怖を覚えた王の中の王は、自らの母親、妻、二人の娘を残して、逃走した。
 アレクサンドロスはダレイオス三世を取り逃がしたが、彼の家族と会う事にした。彼の母シシュガンビスは、ヘファイスティオンに跪いた。人違いだと気が付くと、彼女は取り乱した。
 「……よい。彼もまたアレクサンドロスなのだから」
 無二の親友と間違えられた事に、むしろアレクサンドロスは快ささえ感じていた。シシュガンビスは心服した。アレクサンドロスも彼女を第二の母とさえ言った。ダレイオス三世の家族はこうして保護された。そしてペルシア貴族アルタバゾスの娘バルシネを、愛人に迎えた。
 「え?なに?私の事、愛してくれるの?」
 二人はマケドニアの都ペラで会った事がある。幼馴染だ。父親の亡命だ。
 「……姉さんが愛人になってくれるなんて、初恋の夢が叶ったよ」
 アレクサンドロスは、妹より姉派で、可愛いより美人派だった。年上彼女は遠征に同行した。
 紀元前331年10月1日、ガウガメラの戦いが起きた。ダレイオス三世は、帝国の東方から兵を集め、最後の決戦に挑んだ。途中何度も外交交渉を重ねたが、全て拒否された。だから今日の戦いがある。だが結果は、イッソスの二の舞だった。なぜこうなるのか?魔法のようだ。
 結論から言うと、ペルシア軍は中央から裂けた。右翼のアレクサンドロスは騎兵隊の先頭に立ち、ペルシアの騎兵隊を引き受け、味方の軽装歩兵に渡した。囮の左翼のパルメニオンは崩れかかっていたが、アレクサンドロスが救援に入り助けた。中央の重装歩兵が前進した。
 中央のダレイオス三世、左翼のベッソス、右翼のマザイオスは、陣形が乱れて逃走した。
 遠征軍は大王を追い、ペルシアの四都を落した。バビロン入城、スーサ略奪、ペルセポリス炎上、エクバターナ占領だ。副将パルメニオンは、エクバターナに残した。なおバビロンで、「私はあなたがたの家に侵入しない」とアレクサンドロスの発言が粘土板に記された。
 最後の組織的抵抗があった。紀元前330年1月20日、ペルシア門の戦いだ。将軍アリオバルザネスの抗戦だ。だが遠征軍はザクロス山中で退けた。結局、ダレイオス3世はベッソスに暗殺された。王の中の王を自称したが、遠征軍に捕らえられて、ベッソスは処刑された。
 遠征はペルシア帝国東部の征服に入った。ソグディアナ攻防戦だ。アレクサンドロスはここで二年以上足を留める。ゲリラ戦に悩まされた。アフガニスタンの征服は容易ではない。歴史上、征服に成功したのは後にも先にも、アレクサンドロスただ独りだ。米軍でさえ逃げ出した。
 夜寝室で、アレクサンドロスは無二の親友と共に過ごした。ヘファイスティオンには秘密があった。両性偶有者だ。男であり、女でもあった。神話の時代の名残だ。宇宙に起源がある。
 「王よ。バルシネに子が生まれる。そろそろ正式な妃を決めた方がいい」
 「……オクシュアルテスの娘ロクサネを妃とする」
 アレクサンドロスは重要な事はいつも二人で決めた。この時もそうだった。占領地域の安定を計る政治的配慮もあったが、ロクサネには恋をした。ソグド人の胡姫たちが、胡弓が奏でる音色に合わせて、胡旋舞を踊っている。ロクサネは舞いで、アレクサンドロスを魅了した。
 「異国の王よ。あなたは一体誰を愛しているの?愛人?それとももう一人のあなた?」
 「……黒い瞳の黒い髪の君だよ。ロクサネ」
 二人は結婚した。だが王の非ギリシャ人との結婚、ペルシア風の宮廷作法を取り入れた結果、マケドニア人の反発が大きくなった。騎兵隊隊長フィロータス処刑、そしてその父親である副将パルメニオン暗殺、クレイトス刺殺事件、アリストテレースの甥カリステネス追放事件だ。
 怒りに駆られて、思わずクレイトスを槍で刺殺した事は死ぬ程後悔した。
 「  Ἀλέξανδρε, ἐν τῷ τότε ἔσωσε.」Arrian, Anabasis,livre4,8-7
 (オー アレクサンドレ エン トオ トテ エソセ)
 (アレクサンドロスよ。この腕があの時、あなたの命を救ったのだ)
 クレイトスはそう言って、アレクサンドロスの腕の中で亡くなった。グラウニコス川の件だ。
 困難な旅は続いた。ヒンドゥークシュ山脈越えだ。とうとうインドに入ると、ポロス王との戦いがあった。紀元前326年、ヒュダスペス河畔の戦いだ。初めてではないが、象軍とも戦った。ポロス王は勇敢だった。戦に負けても逃げようとしない。アレクサンドロスは言った。
 「……何を望む?」
 「王として扱われる事だ」
 アレクサンドロスはポロス王と友になった。領地さえ与えて、同盟者になった。だが東方遠征もここまでだった。愛馬ブーケファラスが死に、マケドニア兵が命令に従わず、ヘラス帰還を望んだ。だが神託で言われた使命を果たせていない。まだインドの破壊神になれていない。
 王は誰とも会わず、天幕で独り過ごした。このままでは死ぬ。アナンケーだ。だが決断した。隊を二つに分けて帰還する事にした。インダス河を下る艦隊と、陸路を歩く部隊だ。
 アレクサンドロスは陸路を率いた。マッロイ人との戦いでは、単身砦に飛び込み、危うく戦死しかけた。いや、死ぬつもりだった。死んだら神、生き延びたら英雄だ。だが後者だった。
 魚の民との戦闘もあった。彼らは現生人類ではなかった。古い人類の生き残りだった。
 ゲドロシア砂漠を越えた。兵にずっとついてきた現地妻、その子供たちが、砂の中に消えて逝った。水が無かった。ある時、兵が岩の窪みに水を発見し、兜で汲んで、王に差し出した。
 アレクサンドロスは礼を言うと、兜を逆さまにして、水を砂に吸い込ませた。水は全員の心に行き渡った。スーサに帰還すると、ペルシア人女性と合同結婚式を挙げた。アレクサンドロスはスタテイラと結婚した。二人目の妻だ。だが直後にヘファイスティオンが病死した。
 ――もう一人の私が死んだ。次は私の番だ。アナンケーが迫っている。
 アレクサンドロスは病に倒れた。「最も強き者に……」と遺言を残して死んだ。紀元前323年6月10日、32年と11ヶ月、怒涛の人生だった。アレクサンドロスはアラビア語でイスカンダルとなり、中国語で韋駄天となった。これがアレキサンダー・ロマンだ。星の降る夜だった。

οὐδείς ᾔδει ὅποι πορεὐοιντο.
彼らはどこに進んでいるのか誰も知らなかった。

            『シン・聊斎志異(りょうさいしい)』補遺062

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