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親鸞 True Love Story

 1173年5月21日、親鸞は京都の伏見日野に生まれた。幼名は松若丸。
 平安貴族の日野有範(ひのありのり)の長男として生を受けている。
 この頃、平家全盛で、源氏に連なる日野家は、松若丸を寺に預けて隠した。1181年、8歳の時、天候不順と源平の争いから、養和の大飢饉が起きて、京都で42,300人餓死した。
 遺体の埋葬が間に合わず、仁和寺の法師が、死者の顔に「阿」と書いて回ったと言う。京中に腐臭が立ち込め、松若丸もその臭いを嗅いだ。
 寺の外で、腐って爛れた腐乱死体を幾つも見た。路傍に打ち捨てられている。幼い松若丸は、深い衝撃を受けた。
 そして9歳の時、叔父の日野範綱に伴われて、京都青蓮院に行き、天台宗の慈円に会った。この人は百人一首の和歌がある。
 「……今日はもう遅いし、得度はやめて、また明日にしましょう」
 夜半、慈円和尚がそう諭すと、9歳の稚児は、見事な和歌を読み上げた。
 「明日ありと思う心の仇桜、夜半に嵐の吹かぬものかは」
 叡山の学僧、親鸞誕生の瞬間だった。
 京の現状と無常観が読み込まれている。
 9歳で出家した親鸞は、29歳まで延暦寺にいた。比叡山日本天台宗だ。
 「しばしば南岳天台の玄風を訪ひて、ひろく三観仏乗の理を達し、とこしなへに楞厳横川の余流を湛へて、ふかく四教円融の義にあきらかなり」
 親鸞はこの20年間をそう要約している。前半で、中国の南岳慧思と天台智顗の教えを学んだと言い、後半では、源信の浄土系の教えを学んだ事を匂わせている。
 
 1200年12月31日深夜、28歳の親鸞は、『往生要集』を開いていた。
 近頃、様々な事を感じ、見えるようになってきた。こうやって書を開いてもそうだ。まるでこの書から、その世界を見えるように感じる時がある。例えば、畜生道を開けば、それらしい闇の気配が辺りに漂い、あたかもそこにいるかのようだ。霊の臭いさえ感じる。
 絵心はないが、筆を取れば、川に水が流れるが如きだ。度々、知らぬうちに筆を取り、『往生要集』の絵を描く事がある。これは一体どうした事か?
 仏典を読んだ後、金文字が眼前に現れ、消えない。四六時中見える。経典の文字が一字残らず流れて見える。寝りに就けば消えるが、読めばまた現れる。重要な仏言だったり、あまり意味がないようなただの文言だったりする。法則性を感じないが、警告めいて見えた。
 一度、女の絵を描いてしまった事がある。ふとした気の緩みで、手が勝手に動いて描いていた。若い女の姿で、水辺らしき処で、裸で横に立っている。慌てて、紙を丸めて捨てたが、誰かが拾って、女の絵を見て、大騒ぎになった。またある時など、目の前に金文字で、煩悩と大きく書かれて、視野が妨げられた。
 叡山始まって以来の学僧と、周囲から持ち上げられていたが、実際自分でそう思った事は一度もなかった。むしろ、どんなに仏典を読んでも、悟りから程遠い自分を見つけて、絶望していた。だから他人の賞賛の声など、まるで耳に入っていなかった。
 だが学僧たちと、仏典の読み合わせをやれば、誰も太刀打ちできなかった。理路整然と説いたかと思うと、不意に逆説を突いて、議論を煙に巻く。手品師のようでもあり、どじょうのように掴み処のない男だった。他者の追及から逃れる事が事の他上手い。
 古今東西、親鸞ほど、逃げ上手、躱し上手な論者はいなかった。親鸞を言葉で捉えて、捕まえる事は困難だった。それほどまでに頭が切れた。親鸞の切り返しほど、相手を驚かせるものはない。
 誰もが、将来叡山を背負って立つ男だと思った。この者なら、どこまでも仏の教えの秘奥の底まで辿り着き、解き明かせる智慧があると、周囲は期待した。だが周囲の期待が高まれば、高まる程、本人は真逆の行路を辿った。
 叡山を降りよう。いつからその思考が芽生えたのか、分からない。ただこのままではダメだと思った。とうてい納得できない自分が恥ずかしい。なぜこれほどまでに煩悩に囚われる?あれほどまで熱心に真理を探究していた自分はどこに行った?全て偽りで、真っ赤な嘘なのか?まるで自分が二人いるかのように思えた。
 恐ろしい地獄の夢も見る。そうかと思えば、天女が現われる夢さえ見る。だが親鸞にとって、本当に恐ろしい夢は、むしろ天女の夢だった。あまりに美し過ぎて、煩悩に焦がれる。羽衣の下に白い肌など見えた日には、何日も懊悩せずはいられない。
 ここは寺だ。叡山だ。女などいない。女などいないのに、なぜ女の夢を見る?ほとほと自分に嫌気が差す。こんな煩悩まみれの自分が、将来叡山を背負って立つ事など在り得ない。むしろ在ってはならない。仏道に背いている。ダメだ。
 だが心の奥底で疼く衝動があった。西方浄土、阿弥陀如来だ。知っている。懐かしい光だ。教えを受けた事がある。皆と共に真理の道を歩いた記憶がある。自分が先頭に立って、導いた事さえある。悲喜こもごもの表情を浮かべる民草の顔が見える。荒野と蒼天が見える。
 ダメだ。叡山を降りよう。今の自分に資格がない。だが瞑想が破れる瞬間、声がした。
 ――六角堂にて待つ。来られたし。
 親鸞は立ち上がった。誰の声だ?自分の声ではない。
 心、密かに期するものがあった。
 1201年1月1日、親鸞は大乗院から六角堂へ連日通って、百日参拝を行った。叡山の中腹から麓の六角堂まで距離がある。徒歩で数時間の道程だ。口がさがない兄弟子や弟弟子たちは、都の女に会うために、毎晩山を下りていると陰口を叩いた。
 噂を聞いた親鸞は、おもむろに鑿と木槌を取ると、木像を彫り出した。柔和だ。
 ある夜、師からそばがふるまわれ、一同で食べた。その時、親鸞はいなかったが、木像が身代わりになって、そばを食べたので、皆は親鸞もいると思った。
 親鸞、絶対の境地、六角夢想は始まっていた。
 すでに世の理から外れ始めている。
 
 蝋燭の炎を、半眼で据えながら、独り瞑想する。叡山での20年間を振り返る。ひとつひとつ思い返す。自らを誇る心がなかったか?人を見下す心がなかったか?親鸞の眼は、己の過去の姿全てを克明に映していた。すでに生きながらにして、閻魔の法廷を通り抜けていた。
 蝋燭の炎が揺らいだ。炎が縦に伸びる。どんどん大きくなる。在り得ない程、大きくなった。
 その時、親鸞は金人を見た。後ろの戸を開けて入って来る。薄っすら紫の冠が見えた。
 「……仏縁ありて、そなたを28年間、見守ってきた。今、真実を告げる時が来た」
 聖徳太子だった。心ひそかに敬意を温めていた人だ。
 親鸞は内心、深い衝撃を受けた。
 「……その昔、西方浄土にて、そなたは阿弥陀如来の教えを受けていた。だが如来は迫害され、一度果てた。だが三日後、復活して、そなたと仲間たちは死力を尽くして奮起した。阿弥陀如来の教えを地の果まで伝えんとした。その時の仲間が転生している。吉水の法然だ」
 聖徳太子は、法然の元に行けと、親鸞に言って、金粉を残しながら、消えて行った。
 だが六角夢想は一で終わらなかった。真打の二が控えていた。とうとう救世観音(くぜかんのん)が示現した。その観音は目が青かった。羽衣の下の肌は透き通るように白い。夢で見たあの天女だ。
 六角夢想二、女犯偈(にょぼんげ)の時だ。青い瞳の救世観音は言った。
 
 行者宿報設女犯(ぎょうじゃしゅくほうせちにょぼん)
 我成玉女身被犯(がじょうぎょくにょしんひほん)
 一生之間能荘厳(いっしょうしけんのうしょうごん)
 臨終引導生極楽(りんじゅういんどうしょうごくらく)
 
 その青い瞳の救世観音は、親鸞を見詰めていた。
 金色の長い髪が羽衣から流れる。
 「罪人よ。哀れなる者よ。そなたが肉欲を抑え切れないのは、前世の宿業によるのです。そなたは妻帯を悪業と考え、若者たちにできれば妻帯するなとまで説いたのです。だが情欲が抑え切れず、そなたは何度も倒れた。今世も同じ事をすれば、そなたの宿業は深まるばかり」
 「間もなくそなたは女犯の罪を犯すでしょう。だがあまり悔いてはなりません。救世観音である私が、玉女になって、抱かれてあげるのだから、その喜びを愛に変えて、世を救う力としなさい。罪の意識で苦しむ民草を、そなたの大いなる愛で、許しなさい。金人が言うように、そなたは肉身の菩薩なのです。そして肉身の観音と交わる事によってこそ、救世の力が湧き上がって来るのです。共に極楽へ往生しましょう」
 百夜目、親鸞は玉女を抱いた。女犯の罪を犯した。
 だがこの罪が愛となり、世を救う。
 「ἀμήν(amḗn)/南無阿弥陀仏」
 その青い瞳をした救世観音はそう言うと、白い羽衣をたなびかせて、消えた。これが親鸞 True Love Storyだ。六角夢想は世界を変えた。

 1201年10月、関白九条兼実(くじょうかねざね)は、吉水の法然を訪ねて、法談をした。
 「出家者の念仏と、在家者の念仏は、功徳が違うのでしょうか?」
 その関白が質問すると、その念仏僧は答えた。
 「……全く同じです。違いはありません。念仏は念仏です。肉食や女犯を戒めて、念仏すれば功徳があるというのは、自力の教え、聖道門の教えです。他力の浄土門では、持戒も無戒も、出家も在家も関係ありません」
 「持戒でも無戒でも念仏の功徳に差がないなら、あなたの弟子の中から、不犯の清僧を一人選んで、破戒させて私の娘と結婚させて下さい。末法の世で、在家の男女であっても、見事に往生できる模範としてくれないでしょうか?」
 「……なるほど、それはとてもいい考えです」
 法然は親鸞を呼んで、玉日姫(たまひめ)と結婚するように指示した。親鸞は涙を流して拒んだが、法然が六角夢想を指摘すると、親鸞は諦めて、九条兼実の娘と結婚した。
 時に1201年、親鸞29歳、玉日姫18歳だった。晩年、親鸞はこのように語っている。
 「公は凡夫往生の正信を弘めるため、愛娘を貧しい黒衣の妻とし、師は阿弥陀如来の教えが優れている事を世に示すため、愚禿親鸞を在家修行者の先達とした」
 以降、親鸞は墨のような黒衣を着て、非僧非俗の者となった。だが玉日姫はあまり長く生きなかった。その侍女であった恵信尼が、親鸞の後妻になった。どちらも子を為している。
 「阿弥陀如来の教えとは、他力不思議の念仏です。計らい心はご放念下さい」
 黒衣を身に纏った親鸞は、浄土真宗の信徒たちに言った。
 「……阿弥陀様の教えは、一切衆生救済の教えですか?」
 信徒の一人が尋ねた。すると親鸞は言った。
 「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」
 罪を愛に変えた親鸞だからこそ、悪人正機説も光る。真似できない。
 「男女の愛から始まる教えではありませんが、さりとて男女の愛がなくなければ、神仏の愛もまた難しい。この道はとても間違いやすい。どうか迷わず、往生して下さい」
 六角夢想で見た青い瞳をした救世観音が教えてくれた。ああ、阿弥陀如来が、西方浄土で微笑んでいる。傍らには、阿弥陀如来の生母と、青い瞳をした十字架の女もいる。
 「ἀμήν(amḗn)」
 思わず親鸞の口から、異言が漏れて零れた。
 「……南無阿弥陀仏」
 だが二度目は、和訳で唱えた。
 
            『シン・聊斎志異(りょうさいしい)』補遺060

鎌倉仏教 1/2

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