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私はクリスチャンではないが、地元の公立小に通っていた6年間以外、キリスト教系の幼稚園や学校に縁があり、カトリックとプロテスタントの教育を交互に6~7年ずつ経験した。

家庭での孤独感や、生きる目的、目前に迫った進路選択など人生に悩みながら、(本当の意味でのキリスト教の神さまとはまた違うけれど、)
なにか大いなる存在や、太古からの叡智に救いを希求し、聖書を読みながらあれこれ考えて中高時代を過ごしていた。

ヨガを通して生き方を模索している今と、基本的には同じことをしている。聖書が哲学の経典に変わり、讃美歌や聖歌がマントラに変わっただけだ。

それから、時には仏教や道教の教えを学びこともあるが、昔の人たちの考えた普遍的な哲学、道徳観、人生観を学び、自分を省みるということを、形は変わったけれど、本質的には同じようにずっとやっているのだ。

テスト期間中などは他の生徒たちと同様に寝てしまったこともあったが、毎日の礼拝で先生たちの語る講話を聞くのが好きだったし、自分も宗教の係をやっていて、礼拝で使う讃美歌や引用する聖書の箇所を選び、全校生徒たちの前で時々講話をする、ということをやっていた時期があった。

日直の係のような役割でクラス全員の前に出る時には緊張してオドオドしたが、何故かもっと規模が大きいにも関わらず、講堂のような大きな場所で壇上から講話する時は平気でいられたことは不思議だ。修学旅行で広島に行った時も皆の前でなにか話した記憶があるが、内容が人生や哲学的なこととなると、それを伝えたい気持ちが緊張や恥ずかしさを上回るのかもしれない。

キリスト教を人生の軸にするという道も何度か考えたが、勉強すればするほど自分の中で納得出来ない部分や合わないと思う部分が増えていき、もう20年ほど聖書からは離れている。

高校を卒業してから1回も聴いたことがないはずなのに、今朝ベッドから出ると突然脳裏に浮かんできた、ある讃美歌のメロディーと歌詞。

1.
こころを高くあげよう
主のみ声にしたがい
ただ主のみを見あげて
こころを高くあげよう
2.
霧のようなうれいも
やみのような恐れも
みなうしろに投げすて
こころを高くあげよう
3.
主から受けたすべてを
ふたたび主にささげて
清きみ名をほめつつ
こころを高くあげよう
4.
おわりの日がきたなら
さばきの座を見あげて
わがちからのかぎりに
こころを高くあげよう

讃美歌第二篇1番/讃美歌21、18番
「こころを高くあげよう」

中学生ではじめてこの歌詞に出会った時、震えるような衝撃が走った。
「主」というのは神やイエス・キリストを指す言葉であるが、

1.
こころを高くあげよう
主のみ声にしたがい
ただ主のみを見あげて
こころを高くあげよう

という1番の歌詞を聴いた時に、私は勝手に普遍的な大宇宙のようなイメージを抱いた。
(間違った解釈を不快に思われた方がいらしたら申し訳ありません)

よくわからないけれど、なにか大きな存在がこの世にはある。
今の自分は小さな悩みでいっぱいだし、将来も不安で仕方ない。
家族には理解者がいないし、愛されている実感がなく孤独。
生きていてごめんなさい、と思うことも多いけれど、
それでもなにか、その大きな存在を信じてひたむきに生きていけば、
きっともっと先に違う景色が見えてくるのかな、なんてことを思った。

なんで突然この讃美歌が頭に浮かんできたのか、不思議であるけれど、
当時の気持ちを思い出す(今とあまり変わらない・・・)ことも出来て
また自分と向き合い考えるきっかけにもなった。

きっとこれも大きな意味のあることだと思う。

こころを高くあげよう
キリスト教を信じるか信じないかに関係なく、とても素敵な歌詞だなと思う。

また、2番の
霧のようなうれいも
やみのような恐れも
みなうしろに投げすて
こころを高くあげよう

という箇所に当時の私がとても救われたような感覚があったことを思い出し、それによって今の私も浄化されている。と思ったら、

あれ、バガヴァッド・ギータ(古代インドの経典)に似ているのではないだろうか、と気づいた。
完全に私個人の感想と印象なので正しい解釈かは不明だが、その一部に、

個人的な好き嫌いや損得、感情ではなく、自分の果たすべき役割(より大きなものへの使命)を果たすために、より広い視点を持ち、恐怖や不安に打ち勝つことが必要である

という考え方がある。

記憶や執着、自我意識によって成るエゴをベースに自分の中であれこれ考えずに、視座を上げて俯瞰していきましょうね、ということだ。

それから、様々な個人的問題や悩みから距離を置いて心を開き、自分の果たすべき役割に一生懸命身を捧げることで、人生はより豊かで幸せになる、という次の段階を表すのが3番の歌詞、

3.
主から受けたすべてを
ふたたび主にささげて
清きみ名をほめつつ
こころを高くあげよう

に近いような気もする。

そして、そのような生き方を重ねて最後に訪れるこの世との別れ、その去り際の在り方を示すのが4番なのではないか。

4.
おわりの日がきたなら
さばきの座を見あげて
わがちからのかぎりに
こころを高くあげよう

日本にも万物流転や諸行無常という言葉があるように、すべてのものは移り変わる。
生に執着し、死を恐れるわけでなく、その自然な在り方を受け入れて、その最期の日までこころを高くあげながら懸命に自身の役割を果たしていけば良いのだろう。

さばきの座と言う考え方もなんだか似ていると感じる。

すごく単純化すると、現世の終わりが来るまでに精神性を高めて生きていきましょうね、という基本姿勢は共通なのではないか。

突然、起きがけに啓示のように降ってきたこの讃美歌、
こころを高くあげて生きていく
ということを人生のテーマである軸の1つにしていこうと思う。

これまでの人生で「悪い」ことを色々してきた。
様々な欲にまみれ、見栄を張り、恐怖や不安に振り回されて目先のことしか考えられず、思い込みで物事を判断してきた。
そのような行いが「業」となって溜まり、時々その結果(カルマ)に苦しむということを繰りかえす、全然高尚な人間ではない。

だが、小さなことから行い「業」を変えていけたらよい。

ひとつひとつの選択、時間の使い方、人や物事との関わり方を、より精神性を高める方法へと変えていく。徳を積む。

現世での自分の役割をしっかり見つめ(他人の人生や世間一般の幸せと比較することなく)、自分なりの修行の道をただひたすら歩いて行きたい。

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