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価値観や常識のアップデートには痛みが伴うもの
私にはスピリチュアルなことはまるで分からないが、世の中で囁かれていたことが実際に起きていて、実感を伴って時代の変化を感じることがある。
2020年頃から、コロナが流行ったこともあり、私のような変化に鈍い人間にも、はっきりと分かりやすい形で、時代の風向きが変わっていく過程を感じられた。
これまでの当たり前とされていた「価値観」や「常識」がひっくり返り、「非常識」が当たり前となった。その変化が頭では分かっていても心、特に本心がついていけず、反応や行動では物理的にその変化についていきながらも、気持ちが置いてきぼりになっていた。
「はーい」と返事をして変化に柔軟に、身軽に対応しているようなフリをしてきたけれど、本当は全然納得しておらず、それでも生き残るためには「遅れている」わけにいかないから、無理矢理自身を適応させてきたような5年間だったように思える。
例えば、これまで対面が当たり前だった仕事が突然オンラインになった。誰にも教わっていないことを、ある日突然普通にやらなくてはならない、という状況。
その後も、もう必要なくなったとしても、オンラインを併用する二刀流を求められるようになった。対面の準備をしていたとしても、突発のオンライン対応が当然とされる。スマートにこなさないと仕事が来なくなる。一寸先は闇。
デジタルが大の苦手な私にとってはかなりのハードルであったが、拒絶なんて、出来なかった。時代の変化には「嫌」と言えないから、気持ちを無視し、自分を奮い立たせて行動した。
仕事のデジタル化が加速しただけではない。様々な物事の進め方が急激に変化した。これまでのように、コツコツと土台を作って積み上げていくようなやり方ではなく、土台のないところから突然斜め上にワープするような方法へと変わった。
私はそのような新しいやり方への耐性もなかったが、ここにも拒否権はない。心が大泣きしていたが、やるしかない。大泣きする心を置いてきぼりにして、口元だけに笑みを浮かべて上体を傾けながら走ってみた。
全然しっくりこないし、つんのめりそうになりながらも、必死で走ってみた。どうにかゴールできたけれど、やっぱり納得はいかない。土台のない所に家は建たないと思う。
「とにかく行動しろ」というような風潮も危険だ。置いてきぼりになった心はどうすれば良いかなど、誰も教えてくれない。
自分自身にとっての快適なタイミングではない時に、突然変化を強いられることでストレスを感じる人は私だけではないはずだ。
不確定要素が苦手で、快適さに敏感な人たちにとっては特に、この5年間は試練だったように思える。
時代についていくために無理して努力してみたけれどようやく「本当は嫌だったんだよね」と認められた。5年間、適応するフリを必死でしていたことに気づいたら、ずっと大泣きしてカサカサになっていた心が少し和らいだ。
外の世界に対して大声で「嫌だ」と主張するのではなく、しばらくは、その「本当は嫌だった」という自分の気持ちに寄り添ってみたい。
気が済むまで寄り添ったら、ゆっくり待って、これからどうしてみたいのかも考えてみよう。
もちろん、変化に伴って良いこともたくさんあった。遠方に住む方との交流が容易になったり、時間が合わなくても娯楽や学びを楽しめるようになったりした。痛みの方を多く感じてきたが、楽しいことが増えたこともちゃんと覚えておかなくてはならない、とも思う。
そして、また人生は続いていく。
これからもたぶん、ますます変化の波は加速していくし、それに遅れずついていくことが求められる。未来への不安は正直大きいが、きっと、変化する中にも残る、物事の本質のようなものは変わらないはずだ。
表面上、いくら時代が変わったように見えても、物事それぞれの中にあるその本質をしっかりと見極め、軸を保って生きていけたら、テクノロジーや価値観の変化にはついていけなかったとしても、人間としては生き残っていけると思いたい。