見出し画像

【読書雑記】ジョルジョ・アガンベン『私たちはどこにいるのか?―政治としてのエピデミック』

ジョルジョ・アガンベン著(高桑和巳訳)『私たちはどこにいるのか?―政治としてのエピデミック』は、イタリアの哲学者ジョルジョ・アガンベンが、COVID-19のパンデミックによる倫理的・政治的な帰結について書き継いできた諸論考を収めた本です。哲学者ということもあるので、本書は、COVID-19やそれによる感染症そのものを述べたというよりは、本書でアガンベン自身が断っているように、このウイルスによるパンデミックと政治や社会との関わりについて考察された著作になっています。

本書を翻訳された高桑和巳氏が訳者あとがきで述べているように、「少なくともヨーロッパでは、アガンベンのコロナ関連の議論を擁護する者は本当の少数派にとどまっている」らしく、また別の場所で哲学者である國分功一郎氏が書いていた言葉を借りれば、彼の議論は今風に言えば「炎上」したのだそうです。本書に収められている諸論考は、新聞や出版社のサイトなどに掲載されたものを基本としていますが、なかには掲載を拒否されたという論考も含まれていて、なるほどたしかに炎上による煙の、香ばしい匂いを感じ取ることができます。

これを書いている2022年初め。COVID-19が初めて確認されてから2年が経ったわけですが、オミクロン株による感染拡大が続いており未だ油断できない状況にあります。私が本書を読んだのは、東京都など都市部での感染者数もかなり減少し、情勢がやや落ち着きを見せていた2021年末のことですが、しかしながらまたしてもコロナ禍が続いていきそうな現在の状況を見るに、この本で書かれていることは今もアクチュアルなものであり、これを自分なりにもまとめておく必要があると見て、いくぶん簡潔にはなりますがnoteに書き留めておこうと思った次第です。

本書の中で、コロナ禍がもたらした一連のパニックや混乱、それに対する政治的社会的反応が示していることとしてアガンベンが挙げているのは、大きく2つあります。1つは、「私たちの社会はもはや剥き出しの生以外の何も信じていないということ」(36)。もう一つは、「諸政府が以前から私たちを慣れさせてきた例外状態が、本当に通常のありかたになったということ」(37)です。

本稿では、アガンベンによるこれら2つの議論について、それぞれの文に現れるキーワードにも注目しながら整理していくとともに、コロナ禍の後に遺されるものとして彼が危惧していることについても触れながら、彼の議論をまとめていけたらと思っています。

①「剥き出しの生」

アガンベンはこの本の第6章にあたる論考の中で、「近代政治は徹頭徹尾生政治であって、そこに最終的に賭かっているのは生物学的なものとしての生命です」(65)と述べています。生政治(そして、生権力)というとフランスの学者ミシェル・フーコーの先駆的研究であるわけですが、これは生身の身体を対象とした権力による介入で、生命を保証し、(例えば労働力、人的資本として)増殖させ、それを秩序立てることによって生を経営し、管理する政治(権力)のことを指しています(かつては死刑、命を奪うことが端的に権力を象徴だったわけですが)。

生を奪うのではなく、生を保護し、管理し、維持していくことが権力のありかたとして移行していった背景には、例えば近代科学の発展によってある程度生と死をコントロールすることが可能になったことや、資本主義経済の進展のために人的資本として人口を増加させ、管理する必要があったことなどが挙げられます。こうした政治の体制が現代もそのまま貫徹されているということ(は、既にほとんどの人が知るところではありますが)を、いま一度アガンベンは指摘しています。

科学と、そしてその一部分であり人間の生きた身体を直接その対象とする医学の進展によって私たちの生が、身体的な生のありかたと社会的・文化的な生のありかたとに分割されてしまったと彼は述べています。

そのような社会、つまり生政治的な社会は、前者を保障し、管理しようと試みようとするわけですが、それによって、この身体的な生身の生命を保障するために、権力の側はもちろんのこと、私たちにとっても「健康」がいかなる対価を払っても果たすべき義務へと変容するというのです。こうして、例えば延命にかかわる技術の発展といったように、延命(生命を維持すること)が価値を帯び始め、「生存」が義務になることによってそこに権力が介入することに正当性が与えられ、あらゆる介入が可能になります。この分割されて現れ、あらゆる介入が可能になった身体的な生物学的な生の実存が、彼の言う「剥き出しの生」と言えるでしょう。

これにより例えば、生物学的な生の保護という観点から、不要不急の外出の自粛要請(自粛の要請というのは少し気持ちの悪い言葉ですが…)などといった発想が生まれ、いとも簡単に成功するというわけです(この移動の制限についてはあとでも少し触れます)。

また、生の保護、生存に重きを置くということで言えば、アガンベンはコロナによる重症者が近親者にすら会えないまま、最悪の場合亡くなってしまうことや、多くの死者が葬儀さえ行われないまま埋葬されるといった現況がこうした点から生じているということを指摘しています。(もっとも、これは彼ら自身(遺体も含めて)が感染源となってさらなる感染拡大を引き起こす可能性があることに基づいているわけですが、それは疫学的な領分であって、アガンベン自身が述べているように、本書で問題化されているのはその社会的・政治的な領域であることには注意が必要でしょう)

多くの市民は、感染症による危険を前にして日常生活のありかたや社会的関係といった諸々を制限されること(アガンベンは「犠牲にすること」と言っていたりします)を比較的すんなりと受け容れている節がありますが、アガンベンはここに疑義を突きつけているのです。その背景には、もはや義務として履行し、維持しなければならない「剥き出しの生」としての生命が脅かされているために、あらゆる権力の介入を許してしまっているということがあるのではないでしょうか。また、生物学的な生への価値偏重によって生存以外のありかたが軽視され、死者への敬意が払われないままとなってしまうことへも懸念を表明しているのです。

②「例外状態」

アガンベンは、「諸政府が以前から私たちを慣れさせてきた例外状態が、本当に通常のありかたになった」ことを指摘しています。ここで述べられている「例外状態」というのは、非常事態(宣言)や緊急事態(宣言)などと呼ばれるような、通常の法による権利が宙吊りにされるような状態のことを指しています。また、アガンベンはカール・シュミットの議論を借りて、主権的権力はこうした「例外に関して決定する」権力であるとも述べています。アガンベンは自身の著書『例外状態』のなかで、その系譜をたどりつつ、探求を試みています(「例外状態」や「剥き出しの生」はいずれもアガンベンの著作の中で探求されている概念であり、従ってこの一連のコロナ関連の議論は、COVID-19によるパンデミックを彼の思索や思想を用いて批判的に分析したものであるとも言えるでしょう)。

彼は、COVID-19によるパンデミックによって、こうした「例外状態」が「例外」ではなく「通常」のありかたになったと述べているわけです。この点、例えば日本でもこれまで4回にわって緊急事態宣言が発出されており、一時は緊急(例外)ではなくむしろ通常とさえなっている感覚は理解できるのではないでしょうか。

アガンベンによる例外状態の通常化に関する主張のなかで、本書において特に際立っているのが、先で少し触れたように移動の自由の制限への懸念です。

彼はイタリアの哲学者ですが、イタリアの歴史上、今回のパンデミックよりも深刻な感染症の流行が過去にもあったにもかかわらず、また二度の世界大戦という例外的状態のなかでさえ起こらなかった規模で、この移動の自由が制限がなされていることを何度も繰り返し言及し、警鐘を鳴らしているのです。

彼はここにおいても、市民がこれを受け容れ、友人との交流や愛情といった人間の諸関係を宙吊りにしてしまっていることを、それがきわめて例外的な状況であるにも関わらず、、ほとんど疑念を持たずに受け容れてしまっているという問題点を強調しています。

③社会的距離確保について

アガンベンは本書の中で、繰り返し「社会的距離確保」という語について言及しています。私たちにとっては、いわゆる「ソーシャルディスタンス」として頻繁に耳にしたものと同義でしょう。

ソーシャルディスタンスがなぜ必要になっているのかといえば、いまや私たち市民にとっての敵(ウイルス)が、感染源として市民の中に潜んでいるからに他ならないからです。

アガンベンはこの「社会的距離確保」が今後の政治のモデルになるのではないかと危惧しています。「個人的距離確保」でも「物理的距離確保」でも「疫学的距離確保」でもなく「社会的」な距離確保という語が用いられていることは、私自身当初不思議に思ったことですが、彼の危惧はこの用語がある程度社会組織の形態、言わば政治的な装置だということを表現しているからであるからだと語っています。

既に大学をはじめ、多くの教育機関において授業はオンライン化され、一部の企業ではテレワークなるものが推奨、導入され、飲食店や遊興施設は時短営業ないし閉店を余儀なくされ、あらゆるところで機械が私たちの生活を媒介しています。この「社会的距離確保」によって既に人びとの生活に入り込んでいたデジタル技術が、私たちの物理的で接触可能な人間関係の代わりに置かれ、またこうした人間関係の方は感染の疑いをかけられる危険なものとなってしまったわけです(アガンベンは、そうした状況を「内戦」と形容しています)。彼は、これまでの戦争(という例外状態)が例えば原子力と言った不吉なテクノロジーを平和に対して遺産として残してきたように、この保健衛生上の緊急事態が終わった後に、「あらゆる公共空間の純然たる廃止」(39)という可能性があることを問題視しているのです。

アガンベンは、このような「社会的距離確保」に基礎づけられる共同体というのが、「いかなる対価を払っても互いに距離を取ろうとする諸個人によって形成されている」、「希薄化された群衆」で、「人間的・政治的に生存可能なものではない」と主張します(73-74)。

私たちが自宅に隔離され、移動を制限され、社会的関係を宙吊りにされた先にアガンベンが危惧しているのは、あらゆる「集結」が―その動機が政治的なものであれ、単に交友によるものであれ―禁止され続けるのではないかということです。

ここで私にとって思い出されるのが、少し前に読んだジュディス・バトラーという学者の『アセンブリ』というテクストのなかで述べられていた議論です。そこでは、経済的に困窮している人、不法移民、女性、クィアな人びと、人種的・宗教的マイノリティといった人びとの身体が街頭に集うことがどのような政治的な力をもつのか、あるいはそうした連帯が可能になるのかということについて考察されていました。「社会的距離確保」や密集を避けることがいまだ求められているなかで、バトラーのこうした議論はどのような意味をもつのか、あるいは再考の必要性はあるのだろうか、といったことを考えさせられるような気がします。

④おわりに

以上、『私たちはどこにいるのか?』でのアガンベンの議論を非常に粗雑にではありますが概観してみました。本書は、冒頭でも書いたとおり、新聞や出版社のウェブサイト等に寄稿された論考を集めて構成されています。各論考はそれほど文量も多くなく、哲学者の書いたテクストだからと恐れなくとも(私はそうでした)かなり読みやすく書かれていて、本書を通してアガンベンが主張するところのものは読者にとっては非常にイメージしやすいものとなっていると思います。

しかしながら、この明快さはそれだけでどのような批判にも打ち勝つものではもちろんありません。冒頭でも述べたように、現に本書に収められている論考は「炎上」に巻き込まれたのであり、そのことはアガンベンの主張やその論拠がやはり一定程度問題を含んでいるということを示してもいます。

例えば、訳者あとがきで高桑氏が指摘しているように、本書では度々、COVID-19による死亡者数や罹患率を例年の呼吸器系の疾患によるそれと比較することで、パンデミックの重大性やそれに起因する例外状態への疑念を表明していますが、「剥き出しの生」という概念を打ち出し、生政治に批判の目を向けるアガンベンが、単なる数字としての、統計としての死亡者数(失われた生物学的な生の数量)に依拠することは、私たちの生が保護され延命される対象として計上される生となってしまうことに加担しているように見えてしまうでしょう。

また、「社会的距離確保」なる用語が登場し、人々が「健康」への義務のために自宅に隔離され、あらゆる集合が禁止されることが懸念されていますが、「距離確保」どころかその前線でこのパンデミックと戦っている医療従事者やケアラー、あるいはエッセンシャルワーカーと呼ばれている人々への言及は一方で全くなされていません。

もちろん、さすがにイタリアを代表する哲学者であり、第一線にいる哲学者がこのことに目を向けていなかったかといえば、そうとも言い切れないでしょうし、紙幅や締切(?)などの関係でそうした議論を仕方なく省かざるを得なかったという事情も否定はできないでしょう。こうした議論の穴は、むしろ本書を読んだ読者がそれぞれに自由に思考し、議論を発展させていく余地であるとも言えるかもしれません。

いずれにしても、本書でアガンベンが警鐘を鳴らしている、「生存」や「健康」の名のもとに移動の制限という自由の根幹に関わる権利を制限されていることや、死者が敬意も払われず(表明されることを許されず)埋葬されてしまうこと、さらには人と人との交友関係をいったん諦めなくてはならない状況をあまりにもすんなりと受け容れてしまっているという事実は、一度立ち止まって考えて見る必要があるでしょう。今もなお続くコロナ禍をなんとか生きていこうとする人にとってはアガンベンの言葉は多少耳障りかもしれないですが、当たり前のように機能し、進んでいこうとする社会に対して冷水を浴びせ、新たな問いを投げかける彼は、やはり徹底的に哲学者であると言えるのではないでしょうか。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集