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天使になったヴァレリー


ヴァレリーは画家のドガに「天使」と呼ばれていたらしい。あの可愛らしいイメージの「天使」ではなく、この世と無縁な存在であるという意味での、天使👼


そんなヴァレリーの代表的作品「ムッシュー・テスト」と「精神の危機」を読みました📚


方やヴァレリー唯一の小説と言われているもので、「テスト氏」なる存在と非存在のあわいの人物との対話、氏の周辺人物の手紙、カイエ(断片的な記録)などの集積、方や、大衆に向けて書かれた文書たちということで、

この2冊はヴァレリーの“内と外”と言えるんでは…ということで、折角なので“内と外”を行ったり来たりしてみることにしてみました。


📚


とはいえ、ご存知こんな途轍もない本について、書きたい事全部書いてたらいくら空白があっても足りないし、自分の無知無知具合を披露するだけなので、一番響いたことだけ書いてみるよ。


✍️


先日テレビで”Z世代”の特集を観て、驚かされた事があった。

例えば、映画の楽しみ方。

時間を無駄にしたくない、失敗したくない、周りの人の話に付いていけるようにという理由から、ネタバレ動画観てから観に行く人、配信動画では倍速で観る人が多いらしい。

勿論テレビの情報は鵜呑みにするべきではないし、この“多様性”のご時世、行動は同じでもその理由は様々だろう。

でもごめんなさい。それを初めて知った時私は恐怖に似たものを感じた。有体に言えばゾッとした。正直。

この一種の“危機感”、これが約100年前、ヴァレリーの身にも降りかかっていたようなのだ。


ヴァレリーが生きたのは19-20世紀。あらゆるものが目まぐるしく進歩し、最早歴史に倣うことができないほど予想外なことでいっぱいな時代。


一方、人間の精神はそんな急展開に順応できず、ただただ刺激され、情報処理するのに精一杯。ヴァレリーが「すべてである」とまで言った「感受性」は腐敗していったという。


『ムッシュー・テストと劇場で』で、テスト氏が観客達を嘲るシーンがある(連中の考える、ところは、そろって、しだいに同じことがらのほうへと向かってゆくんだ)。


ヴァレリーは当時の人々の芸術や文学との向き合い方に失望していたのかもしれない。そしてこの誰もが一度は経験するであろう厭世的感覚が彼を虜にし、“精神”という魔界に引き摺り込んだとしたら…


それは命を落とすかもしれない、危険な冒険だ。

しかしヴァレリーは死なずに帰還した。ただ帰還したのみならず、魔界からしっかりお土産を持ち帰った。それが『精神の危機』やその他の文章として形を成したのだとしたら、ノアの方舟はきっと“言葉”に違いない。

と、少々妄想が過ぎたが、これこそヴァレリーの言う“精神の自由”のあるべき姿なのだと、私は謳歌したい。

「なぜなら、創作家にとって、自分の作品を評価してくれ、とくにその仕事の過程に対して、仕事の仕事価値に対して、私が上述したような査定をしてくれる人の存在ほど貴重なものはないからだ。」

「作家が自分の仕事にすべての時間とすべての技量を捧げるのは、そうすることで、自分の仕事の何がしかが作品を読む人の精神に語りかけるだろうと思うからである。彼が期待するのは、質の高い反応と一定時間注意力をこらすことで、作品を書くときに味わった苦労を、一部なりとも、自分に返してくれるのではないかという思いである。」

傲慢?
押し付けがましい?

作品に対する姿勢など、個人の自由である。正解の読み方など、ない。そう言ってしまえばそれまでの話だ。

それでも、ヴァレリーのいうような本当の作品の理解者がいたからこそ、私は『ムッシュー・テスト』を読めて、『精神の危機』を読めているのだとしたら…
100年間作品を残してくれた人がいて、日本語に翻訳してくれた人がいて、解説してくれる人がいるから、この素晴らしい作品を享受できているのだとしたら…

上記は読んだ内容の20分の1くらいだ。いやもっと少ないかも。そしてこの感動は残りの部分を読んで初めて湧き上がるものだと思う。

最後にさり気なく付け加えられるヴァレリーの言葉は悲しく、真実だ。

「漠然とした物事には我慢がならない。これは一種の病気、特殊な苛立ちであって、生とは対立する。なぜなら、生とはあいまいさなくしては存立不能なものだからだ。」

「そうなんだ(ムッシュー・テストが言う)。本質的なものは生命に逆らう。」


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