思い込みによる塀
子どもとはつくづく、よくわからない生き物だな、と思う。私も、かつて子どもだった頃、かつて子どもだった大人たちに、同じようなことを思われてきたのかもしれない。
「煉獄杏寿郎(鬼滅の刃)になりたい」が、最近の息子の口癖になっている。
(kimetsu.comより拝借)
あるとき「じゃ、ママは、しのぶになりたいな」と返した。
(kimetsu.comより拝借)
そしたら息子は「ママ、もっと痩せなきゃ無理じゃない?」と言い放ったのだ。
開いた口が塞がらなかった。 その言葉の意味通り、開いた口から「ぐっ…」と変な音が漏れた。
そんな返しをどこで習ったのか、突然3歳から放たれる大人びた言葉に、私は狼狽えた。
だから、たまに判断を見誤る。
家族で公園に行った。
50メートルくらい先にぶらんこがあり、息子と2人でぶらんこに乗ることになった。ぶらんこまで行くには、AとB、2つの道がある。息子はAの道から行きたいと言う。しかし私は息子の自転車をひいていたので、Bの道からしか行けなかった。ひとりで行けると言ったので、ぶらんこの前で待ち合わせることにした。息子の向かう後ろ姿を確認してから、私は急いでBの道を進む。途中、塀があり息子の姿が見えない箇所があった。ぶらんこの前に着いて、息子の姿を探すが、いない。近くにもいない。自転車を置いて、Aの道を探してみるが、いない。たった数十秒の間に、息子の姿を見失ってしまった。そこから私は血眼で息子の姿を探した。あいにく、この連休中行き場が限定されている子ども連れで、公園は大賑わいだった。息子と同じ背丈くらいの子どもが、あちこちで走り回っている。刻一刻と時間だけが過ぎていき、嫌な妄想ばかりが、頭の中を横切る。
そのときだった。
ピンポンパンポーン
園内放送が鳴った。
「黒いTシャツに猫柄のズボンを穿いた…」
アナウンスが始まるのとほぼ同時に、私は園内の管理事務所まで走っていた。
事務所のドアを息を切らして開けると「あ、お母さんかな?」という女性の声が聞こえた。
心臓が高鳴る。
「あ、3歳の…」と言いかけたときに、事務室の奥から息子が指しゃぶりをしながら歩いてきた。
「何度聞いても、ひとりで来たとしか言わなくて…」事務所の女性は言った。
私は何度もお礼を言った。その女性が今度は息子に向かって言う。「もうお母さんから離れちゃ駄目よ」
いや、違うんです。私が、離れたんです。
私は何度も息子に謝った。
「ママいなくて、◯◯泣いちゃった。そしたら、ここに来たの」息子は恨めしそうに私を見つめて言った。
子どもは思っている以上に、大人だなと思う反面、まだまだ子どもだなと思うこともたくさんある。その見極めが、まだまだ未熟な私。息子となんら変わらない私。ちぐはぐしている。子どもも大人も同じ。子どものような大人。大人のような子ども。ちぐはぐを抱えながら、生きている。「きっとこうだ」という決めつけは、必要なことを見えにくくするのかもしれない。思い込みによる塀が、私の中にいくつも存在している。少なくとも私は、息子の言葉の裏側に隠された気持ちや、その先に起こり得る可能性を汲み取れていなかった。
だから「痩せなきゃ無理じゃない?」も、もしかしたら、何か裏が…。
あったりしないだろうか。
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