頭の中
もっと最初の花火のような、簡単で単純で、だけど訳の分からない私の変な思考を書いておこうとしたのに、そういうのはすぐに忘れてしまうし、考えようと思って考えるものでもないので、だんだん重い自意識過剰な寒気がする思考になってしまいました、反省。
私はそんな立派な人間じゃない。
から羞恥、お手柔らかにお願いします。
花火
(9/1 22:49 井上花月さんの自作のmvを見て、昨日手持ち花火をして、)
手持ち花火をする時、人から花火の火をもらって自分のに火をつけるという行為、皆どこで習得するのだろう。
私は親戚や家族で花火をする時、大人の人がそうやったことで教わった。
教わったというか、まだ1人で花火を持つのも危険な頃に、父親が後ろから花火を握る私の手を持って、「ほら.この火もらいな」と言いながら隣の姉から火をもらったのが最初だったんだろうと思う。
ちなみにこれは想像だけど、多分あながち間違っていない。
大きくなって、今や友達と花火をすることは当たり前だけれど、初めて友達と花火をした時に「花火のリレー」を初めて見て、習得した人はいるのだろうか。
皆、代々受け継いでいったり、最初に花火をした時に身につける技なのだろうか。
だとしたらそれはなぜ?
人間のそもそもの知恵以外考えれない。
「花火のリレー」は大抵の人間は思いつくような簡単な知恵で、わざわざどうしたら効率良く花火を楽しめるだろうと考えた末に出た技ではないだろう。
私はそういうのが好きだ。
長所
あらゆる長所は短所になり得るし、あらゆる短所は長所になり得るということは、事実だ。
またそれ故に、盛者必衰の如く、人の人気不人気は計り知れないように思う。
あるところで人気者だった人間が、引っ越しをして別の所属になった途端に虐められるようになること、そしてその逆もまた珍しいことではない。
もっと分かりやすく言えば、中学まではキラキラと燃えていた人間が、気付いたら落ちぶれていたり、高校まで垢抜けなかった人間が、その中の誰よりも成功者になっていることはよくあることである。
先ほども言ったように、それは長所短所が上手く合致するか否かによるためであり、適材適所に人間が配置されることが常ではないからだと思う。
しかし、私はひとつだけ、常にそれが長所であり続け、故に常に人気者でいられることがあるように思う。
それは、「TPOを瞬時に的確に判断し、それに柔軟に合わせられる能力」だと思う。
簡単に言えば、「空気が読める(厳密にいえば読めるだけでは物足りないのでやっぱり適応能力を付け足したいが)能力」。
これが得意な人間は、たまに見かける。
というか、大体どこの分類でも1人は必ずいるように思う。
彼らは集団に属した途端、その集団の特性を素早く読み取り、そこで必要とされる長所を自分の引き出しの中から持ってきて表に出す。
この一連の行動に、意識があまり伴わないことが彼の長所を長所にさせているのである。
私は毎度限度を掴むことができずに、失敗する。
毎度努力をして張り切って印象を掴み、与えているはずが、別のものを掴んで与えたために拒まれることか、何も掴めずに印象を与えることができないことか、そのどちらかしか基本的にはない。
後になって客観的に見た自分の第一印象は、かなりその集団から外れていて、恐ろしく、鳥肌が立つ。
私みたいな人間は、無理に掴もうとせず、既に持っているものをさりげなくそのテーブルの脇にぽん、と置いておくことが必要なのだと思う。
それができていたら、私は今こんな話はしていない。
愛情
愛情の形が人によってかなり異なる。
それは簡単に言えば価値観の違いであり、難しく考えれば生きてきた人生の違いである。
私の最大級の愛情は、無償の愛だ。
もしくは、自己犠牲の愛だ。
私にはこの言葉の区別があまりつかない。
私には無償=自己犠牲となってしまう。
いじめっ子
世の中には、いじめられっ子の物語はあっても、いじめっ子にフィーチャーした物語というのはあまり思い浮かばない。
一つに、いじめの助長や、加害者の擁護的側面の存在があるため、一般的にまたは大々的にそのような作品を作ることは難しいのだと思う。
私はいじめっ子の作品を見たい。
いじめっ子がどういう心理的状態で、どういった環境で育ち、どうしてそのような行動にでるのか、そしていじめっ子が歩む人生とはどのようなものなのか、それを映し出した作品をみたいと思う。
私はいじめとまではいかないでも、(被害者からしたら紛れもないいじめだったのだろうとも思うので、あくまで加害者的視点となってしまうこと、大変申し訳なく思う)加害者になったことも被害者になったこともある。
私のした加害は、気に食わない友達の悪口を周りの友達と言い合う、というものだった。
はぶにしよう、というような具体的で明らかな加害というより、みんなで悪口を言うことによって結果的に被害者は疎外感を抱いたり、心に傷を負ったりしていたと思う。
同時に被害者が加害者となり、加害者が被害者となるように、一定期間標的を定めていじめるというよりはそれぞれがそれぞれの形成されたグループで、そこにいない者の悪口を言うというような状況ではあった。
が、特に私は、学級の代表やリーダー的役職を任されることも多かったためか、みんなにつられて言っているというより自ら言い、言われ、加害と被害を同じような立ち位置の子とバトルしているような構図であった。
ただ、その中で被害を受けた子の中には消えることのない傷を負った子もいたかもしれないと思うと、今どんなに謝っても、悔やんでも、どうにもならない失態であったと思う。
当時の加害者的私の心情としては、自分がそれまで生きてきた上で、代表であったりお手本であったり、みんなの前に立ち、牽引し、統制していく立場が多く、そういう自分に誇りや自尊心を感じていた。
つまりは、自分が素晴らしい人間であると勘違いし、自分が最も偉いのだと威張っていたために、その信頼を失うのが同時にとてつもない恐怖だったように思う。
実際、悪口を言うことで自分のもとについてくる人間がいることに安心していたし、自分の机の周りに友達の輪ができることが嬉しかったし、特に仲が良いと思っていた友達には他の友達と仲良くすることについての嫉妬心故に束縛的行動、発言を繰り返していた。
その結果、先述した通り私は後に軽い被害者にもなった。
石を投げられる、集団になってブスだのきもいだの言われる、グループになった時私だけ机を離される、3軍にされる(私と仲の良かった子達も)など、大したことはないのだが、当時のふんぞり返っていた私を想像してもらえば、その絶望はかなり大きかったことがわかると思う。
今になれば、私が悪かったと思っているのでむしろ被害者面して申し訳なかったと反省しているし、それがなければ私はもっと成長した時にさらに痛い目にあっていたことと思うので、感謝している。(心から)
しかし世の中に溢れるいじめの問題は、そこまで軽くはないことがほとんどだろう。
いじめっ子といじめられっ子の原因は一致していない。
いじめられっ子に原因がある、または割合として大部分を占めている場合はそこまでないのだろう。
いじめっ子がなんとなく気に入らないから、いじめられっ子は大したことはしていないのに、という場合。
その場合の、いじめっ子の物語が観たい。
何が彼らに加害者とさせているのか、もちろん加害者が悪いのは当たり前だが、何かしらの理由や要因がそこにはあるはずだ。
それを知りたい。
取るに足らない
取るに足らないようなことこそ尊重すべき問題であるように思う。
当たり前かもしれないが。
良い事がちりつもなように悪い事もちりつもであるはずだ。
私達は人の弱みや苦しみや過去に触れた時、そのひとつの出来事が大きな問題で有ればあるほど心を動かされてしまう(いい意味ではない)。
分かりやすく言うならば虐待やネグレクトの家庭で育った人がいたとして、彼らはご飯がなくて万引きをして歩いた、とか、腕を火に炙られて毎日を過ごした、とかと言うかもしれない。
それは彼らが、自分達の状況が異常であるということを認識できる大きな出来事であるからで、同時にだからこそ「外部」の人間に分かりやすく伝わる事例だからだ。
しかし彼らが直面した実際の問題は、もっと小さなことの積み重ねかもしれない。
その積み重ねの中にある大きな積み木を引き出しただけのことである。
もちろんその事が彼らに多大なる影響を及ぼしたことは事実だが、それ以外の小さな問題の積み重ねはそれらと同等またはもっと大きな影響があるはずだ、ということだ。
例えばそれはテストの結果を見せた時に何も興味を示されなかったことかもしれないし、ご飯をひとりで食べたことかもしれない、怒られるのが嫌で友達の家にギリギリまで居座ったかもしれないし、父の帰りの時間を気にしたことかもしれない。
大したことないと本人は思うかもしれないし、その一部分だけを取ったら同じ経験をした人も少なくはないだろう。
しかしそれが当たり前であって、毎日毎時間同じようなズキッという痛みを受けていたのである。
いや、当たり前、よく考えなくても分かること、だけどなんていうか、問題自体の大きさで人の苦しみや痛みや深さ、闇を知ることはできないことを、きちんと分かっていなければいけないと思う。
語られない取るに足らない小さな心の動きや、そうしてついには動かなくなった心を悟らなければならない。
幼稚
私の世界はまだ狭く、未熟で、浅いはずだ。
そして彼の世界も、まだきっと、若者のそれであるのだと思う。
しかし私は最近、どうしても同年代の若者を見ると悪い言い方をするようだが、幼稚に思えてしまう。
女性や友達もそうだが、あまり関わりのない男性を見て、そう思うことが増えた。
軽く友達となる分にはそこまで支障はないし、彼らに尊敬する部分も憧れる部分もある、自分より下だ、とかは、全然思わない(と、思う)。
しかし、彼らと恋人関係になることを想像すると、自分が勝手に幻滅してしまいそうだ、と思ってしまう。
もちろん、付き合いたい(浮気したい)とかそういう気持ちで見てるのではなく、一般的に想像すると、である。(私はよく想像の世界に入ってしまうので…)
彼が少しだけ大人びていて、冷静沈着で、軸がしっかりとあり、深くものを愛していることは事実である。
また私が、彼との関係性において、絶大的な信頼を置いていることも、影響しているだろう。
そして私自身が、周りの人達より少しだけ先に、ちょっとだけ闇をみたことも関係があると思う。
しかしもっと地獄がこの世には存在するし、悪いことは経験しなくても、もっと万物に深く考えている同年代はたくさんいるのだと思う。
だから私は、私と彼が大人びているという自負はないし、むしろ私に限っては、周りよりだいぶ幼稚なのではとしょっちゅう感じている。
ある友達が、私は周りの人たちより先に汚い世界を知りすぎた、と言っていた。
きっと彼女にも、未熟な部分や幼稚な部分は存在するだろうし、おそらく彼女自身もそれを認めているとは思う。
しかし彼女はやはり、私よりもっと先を歩いているように感じられる。
彼女はきっと幸せ「そう(であることが大事、私も彼女も本当に苦悩なく生きているかどうかは分からないことを考慮している)」な同年代を見るとゆるい、とか、浅い、とかと思ってしまうのだろう。
私は彼女ほどの闇は見ていないし、汚い世界もまだ知らない。
そして私の彼も、同様だ。
しかし私は、彼女のように汚い世界を先に知った人間を、知っている。
いや、知っているという言葉が正しいかはわからないが、私にはそういう人間を自ら求め、自分を近づけようと学ぶ節がある。
完全に知ることはできない。
しかしおそらく根底から私は自分より人生の先を歩く人間を辿り、憧れてしまうらしい。
ここまでくると、やはり同年代に私が抱いてしまう幼稚さは、そういった先の人間と比べたものであって、自分と比べたものではないと実感できる。
私は、客観的に見たら(または一部分で)彼らを見下しているのかもしれないが、私にそのつもりはないのだと思える。
そうやって考えているうちに、私はきっと、もっと闇を見なければ、と思ってしまうのだと思う。
闇を見なくたって人間は深くなれるし強くなれる。
私は幸せ「そう」に生きる人々への尊敬と、そのことを忘れては絶対にならない。